ダーツの軌跡/2
罠に引っかかるかと思いきや、涼介はパイ生地で汚れた手をナプキンで乱暴に拭いた。
「今度はカウントアップだ」
別のルールでゲームに誘った、執事の勝算はこうだった。
ダブルブル狙い。
五十かける二十四の、千二百点で勝てる――。
バルブレアをグイッと煽って、涼介はソファーからさっと立ち上がった。ブルーグレーの瞳にはダーツボードの中心が映っていた。
刺さった部分の数字を足していき、得点が高いほうが勝利という、至ってシンプルなルールだ。
ポーカフェイスのまま、崇剛はグラスに残っていたサングリアを全て口に含み、優雅に組んでいた足を解き、エレガントに立ち上がった。
「えぇ、構いませんよ」
返事を返した、主人の勝算はこうだった。
二十トリプル、八ラウンド。
二十かける三かける二十四の、千四百四十点です。
この時点で、涼介はすでに崇剛に負けていた。数字に強い主人は一番得点が稼げるところを見抜いていた。
ふたりが計算したところはもちろん、全てを射た場合の話で、はずれればそれ以下の得点となってしまう。
涼介は洗いざらしのシャツの袖を、気合いを入れるように両方まくり上げた。
「俺からでいいか?」
「えぇ、構いませんよ」
崇剛が応えると、涼介はダートを三本取り、スローラインの上へ立ち、深呼吸を何度かして意識を集中させる。
(ダブルブル……)
魔法の呪文を唱えるように何度も言いながら、立ち位置や矢の持ち方を細々と絶妙に調整してゆく。
後ろにそっと立っている崇剛はあごに手を当て、細身をさらに強調させるように、足を前後にしてクロスする寸前で立つ。
涼介の一投目はシングルブルの右上。角度は三十六度。
二投目と三投目はダブルブル。
以上のことから、涼介はダブルブル狙いであるという可能性が99.99%――
従って、私の勝ちであるという可能性が99.99%――
勝負がまだ始まってもいないのに、崇剛はなぜか自分の勝利を確定に近い状態へと数値を導き出していた。
涼介は崇剛の情報をひとつ見逃したまま、ゲームがスタートする。
左手に持っていた三本のダートのうち、ひとつを右手で鉛筆を持つように、調整を続けていた手から、彼らしい真っ直ぐな投げ方をした。しかし、中心からはずれ、無念そうに刺さったのは、
(あぁ〜、右上のシングルブル。はずした。考えてても仕方がない。次……)
気持ちを切り替え、涼介は左手からまた矢をひとつ引き抜き、さっきと同じように軽めに優しくスロー。それは見事に中心に刺さった。
(よし、ダブルブル)
次の一投も同じダブルブルだった。不思議なことに、崇剛が予想した通りの場所へ全て刺さった。
「それでは、私の番ですね」
主人は執事に質問をさせたい。それが最初の目的だ。感覚の執事がざっくり物事を見ているがために、主人の情報を見逃したままで、このままでは策略家の罠へ引っかかる可能性が大幅に下がってしまう。
(それでは、こうしましょうか)
ダート三本は崇剛の神経質な左手に取られ、冷静な水色の瞳はすっと閉じられた。ダガーを持つ時のように人差し指と中指とで矢を挟み、真っ暗な視界なのに、射る場所を探る。
(そうですね……?)
額と同じ高さまで右手をゆっくりと上げ、
(こちらですね)
悪霊を壁に磔にするのと同じ要領で、右手を前へ勢いよく押し離した。いつも通りに自然と矢を挟む指の力を抜き、飛んでゆく微かな空気の摩擦が聞こえると、ストンとダーツボードに当たった音がした。
冷静な水色の瞳が再び姿を現すと、不思議なことに狙い通りの二十のトリプル(六十点)にダーツが刺さっていた。
今度はダーツボードに対して、半身になるように崇剛は立ち、目をまたすっと閉じた。自分へ顔を向けた主人の奇妙な態度に、執事は首を傾げる。
(何をしてるんだ?)
崇剛はそのままダートを右指で挟み、左腕のあたりから横滑りさせ、絶妙なタイミングで矢を手から離した。
見えていないはずなのに、きちんとまた二十のトリプルに刺さり、さすがに涼介もおかしいと思って、策略家の思惑通り質問してしまった。
「待った! お前、どうして、その投げ方で刺さるんだ? 見えてないし、さっきからフォームが全部違う。それに、いつものお前ならはずすだろう? 二十のトリプルなんて、お前の腕じゃ二回も刺さらないだろう」
標的が策に乗ってきても知らない振りで、策略家は優雅に微笑んで、こんなことを言った。
「ただの勘ですよ」
未だ何が起きて、こんなことになっているのかわからない、涼介は盛大にため息をついて、うなるように反論した。
「だから、そこで嘘をつくな! 俺と違って、お前に勘なんかないだろう」
聞きたいことがあったのに、はぐらかされる。素直で正直な執事ならば、さらに聞きたい気持ちになるものだ。
「教えて欲しいのですか?」
崇剛から罠の一番最初の言葉が、涼介にかけられた。ソファーへと戻ってゆく主人の神経質な横顔を、純粋なベビーブルーの瞳で追いながら、涼介は違和感を覚える。
(教える……? お前が? 素直すぎないか、今日は。もっと回りくどいことしてくるぞ、いつもなら)
どこへ事実が転がっても、打つ手は全て計算し尽くされていて、質問をした崇剛は、涼介の視線などどこ吹く風で、ただ返事を待った。
「…………」
デジタルなまでに冷静な頭脳では、
待ったほうが涼介が聞き返してくるという可能性が77.82%――
私が罠を張っていると、涼介が気づくという可能性が12.58%――
別のことが起きるという可能性が9.60%――
どちらをしてくるのでしょう?
遊びの部分を残したまま、最後まで絞めないネジのような思考回路で、崇剛は優雅な笑みで真意を隠した。
「教えてくれるのか?」
涼介は聞き返しながら、主人のワイングラスが満たされたのを心配した。まだ飲むのかと思って。
「えぇ、構いませんが、その代わり、私もあなたに聞きたいことがあります。そちらを教えていただけませんか?」
交換条件へと導いた。執事にしてみれば、自分が自然と聞いたから物事が起きているように思えるのだった。
涼介はソファーにどさっと腰掛けて、バルブレアを一杯引っかける。
「あぁ、わかった」
心優しい執事なら、教えてもらう代わりに、自分も答えないといけないと思う可能性が非常に高い。が、策略家の計算だった。
崇剛はワインのグラスの足を持って、弄ぶようにゆらゆらと不規則な縁を描き始めた。
「それでは、お教えしますよ」
「あぁ」
さっきから気づくのを待っていたが一向に、感覚的な執事はスルーしまくっているのを前にして、崇剛はくすりと笑った。
「涼介はひとつ情報を見逃しているみたいですよ」
「見逃す?」
涼介は聞き返しながら、主人の言動にまた違和感を抱いた。
(お前、やっぱりおかしい。真っ直ぐすぎる気がする、何でだ?)
執事は思う。いつもの主人なら、右に左に餌をばらまいて、相手をヘトヘトになるまで引っ張り回し、最後に綺麗にトドメを刺すのに、今日はやけに親切なのだ。
ただ言葉を繰り返してきた涼介の前で、崇剛は優雅に微笑んで短く先を促す。
「えぇ」
しかし、こっちもこっちで、別の思惑が同時進行していた。
おかしいふりをしているのですから、あなたがそのように思って当然です。
罠は何重にも仕掛けてあります。
ですが、全て最後には辻褄が合うように計算してあります。
従って、罠が終了しても、涼介が気づかないという可能性99.99%――
主人の返事はいつも回りくどい。さっきからある違和感を正直に聞いても答えてくれないだろう。ましてや、それが罠ならばなおさらだ。
「何をだ?」
同時進行でいくつもデジタルにこなせない涼介は、表面上のダーツの話にとにかく集中した。
崇剛はサングリアを飲み、ダーツボードを冷静な瞳に映しながら、
「私は目を閉じた状態で矢を投げましたよ」
「……?」
「こちらのヒントでも気づきませんか? 先ほどわかりやすいように、あなたのいるほうへ顔をわざと向けて、そのようにしましたよ」
ランプのような形をしたグラスを手につかんで、涼介は口元へ持ってゆく途中で、やっとカラクリに気づいた。
「目を閉じてるのに、見えてる……!!」
崇剛がどうやって、正確にダーツの矢で的を射た――必ず勝てる方法を使ったのか。
「千里眼!? メシアを使って見てたのか!?」
純粋なベビーブルーの瞳を神経質な頬で受け止めて、崇剛はわざともたつかせてワインを一口飲んだ。
「えぇ、ですから、ダーツの矢の軌跡が見えるのです」
見せつけるようにサングリアを飲んでいる主人の心のうちは、
(見えてしまうものは仕方がありません。普段のゲームでは使っていませんよ。面白くありませんからね)
今日は特別だった、執事から情報を得るのだから。バルブレアの瓶についているスクリューキャップを慣れた感じで、涼介は手のひらでくるっと回す。
「見えるのは幽霊だけじゃないのか……」
主人が手元でくるくると弄んでいるサングリアが、執事は気になって仕方がなかった。
(お前、そういう仕草しないよな……。本当に何をしてるんだ?)
カラになったスコッチのグラスが琥珀色に満たされると、部屋に軽く華やかな香りが漂った。冷静な水色の瞳にガス灯の炎が儚げに揺れ、崇剛の優雅な声が舞う。
見えるのは幽霊だけではないのかと問われた返事は、「えぇ、違います」だった。
「千里眼は他のことも見えます。ですから、ダートがどちらの方向へ向かっていくのかの未来を見て、放っていましたよ。線――すなわち、矢の軌跡が浮かび上がるのです、脳裏に」
「メシアの力ってすごいな。お前が時々倒れるのも納得だ。他のこともそうなのか?」
チーズに手を伸ばし少しだけかじった涼介の隣で、崇剛は部屋を見渡す。
「えぇ。私の視力はほとんどありません。手元の字も見えないほど、視力は落ちています。ですから、ダーツボードはほとんど見えません」
さっきゲームをやった壁に視線を送ってみるが、丸いものが壁にある程度しか認識できなかった。しかしそれを、千里眼を使い、矢の角度を変えるたび、的の数値が頭の中で変化するのだった。
「じゃあ、検査に引っかかるだろう? どうして、メガネしてないんだ?」
崇剛はまたサングリアを飲み、足を組み直して、ズボンのポケットに入っている懐中時計を取り出した。
この距離で文字盤が鮮明に見えていた頃の記憶で、美しいマリンブルーの針を脳裏に蘇らせる。神経質な手のひらで、時計をそっと包み込んで、自身の感覚を口にした。
「上下左右それぞれの漢字が脳裏に浮かび上がってくるのです。全て当たっているのです。ですから、検査をパスしてしまうのです。目では見えなくても、心では見えているのです」
毎日のように、主人の罠に誘われている執事は疑いの眼差しをやった。
「もしかして、お前って人の心まで見えるのか?」
そうならば、罠のトリックがわかったというものだ。グラスもデキャンタもカラになってしまった崇剛は、新しいデキャンタに手を伸ばし、サングリアを注いだ。
「えぇ、見えるというより聞こえますよ。霊体の声――心が聞こえます。ですから、相手が本当に思っていることはわかります。ですが……」
「どうした?」
冷静な水色の瞳が影って、涼介は心配そうな顔をした。執事は思う。主人は人より見えることが多い分、傷ついたりすることがあるのではないかと。
デジタルな頭脳という盾を使って、千里眼の持ち主は感情という名の嵐を簡単に防いだ。
「ですが、そちらは今は聞かないことにしています。知らなくてもよいことが、世の中にはたくさんあるのかもしれません」
「何があったんだ?」
涼介のホワイトジーンズはソファーに擦れる音をともないながら、主人へと身を乗り出した。千里眼の持ち主は膝の上で神経質な手を組み、視線を力なく落とす。
「相手の言っていることが二重に聞こえる……。霊体の声と肉体の声が一致しないことが多々あったのです」
「それって……!」
崇剛の言っている意味がわかって、涼介は言葉を途中で止めた。夜色の漂う窓には、崇剛の神経質な横顔が映っていて口元が微かに動く。
「えぇ、嘘をついているということです。こちらのようなことをする方が、世の中には五万といるということを知り、いっとき人間不信になりましたよ。私とは価値観の違う方が多いことを知りました。自身をごまかし、人を傷つけるために嘘をつく人がいるのです」
いつもと違って悲しみに揺れている、主人の水色をした瞳を涼介は見つけ、知らないふりをして顔を正面へ戻した。
「そうか……」
どんな時も冷静な崇剛でも泣くことがあるのだと、涼介は直感して心を痛めた。
組んでいた神経質な崇剛の指先が解かれると、襟元でふんだんに使われているシルクの生地に、ガス灯からオレンジ色の光が乱反射する。
「ですから、見ない、聞かないという術を手に入れたのです。そのため、今は人の心を勝手に見ること、聞くことはしていません。事件を解決するために必要な時は使うこともありますが……」
ロイヤルブルーサファイアのカフスボタンが引きつけられるように、ワイングラスへと伸びてゆき、崇剛はサングリアを一口飲んだ。
「ですが、人を守るための嘘もあります。そちらだけでなく、自身をごまかすために嘘をつくほど、人は弱いものだとも知りました。ですから、今は心は痛んでいません」
千里眼のメシアを持つ聖霊師は神父でもあり、様々な人の懺悔を聞くこともあった。三十二年の月日で、ルールはルールとして融通が効かなかった崇剛も、人を許すことができるようになっていたのだ。
デキャンタはまたカラになり、次のものに手をかけられた。ワイングラスのルビー色が注がれる。涼介はそれを見つけて顔をしかめた。
(今気づいたけど、お前今日、飲むペースが早くないか?)
主人は執事の眼差しをデジタルに切り捨て、グラスを傾ける。
(会話は終了しました。それでは、次の罠を仕掛けましょうか)
涼介の違和感は置き去りのまま、男ふたりの会話――いや策略が進んでゆく。
「先ほどの約束どおり、あなたに質問があります。よろしいですか?」
崇剛の心の中は、数字に強い彼らしい思惑が隠されていた。
(今から二番目の質問で、あなたから情報を提供していただきます)
バルブレアを飲んでいた涼介は、ガラスでできたテーブルの上に気持ちを入れ替えるように、グラスをカタンと置いた。
「あぁ、わかった。それは約束だからな」
崇剛から優雅な笑みは消えて、珍しく猛吹雪を感じさせるような冷たい雰囲気に変わった。
「スズランの葉には毒性――があります。最悪の場合、死に至ります。いつどのように使ったのですか?」