主人と執事の大人関係/1
パチパチを薪のはぜる音が四月にしては肌寒い、ベルダージュ荘の食堂に暖かみをもたらしていた。
優しさを隅々まで穏やかなそよ風を吹かせるような暖炉。そこには鉄の棒が横にかけられていて、鉄鍋の中で滑らかなポタージュスープが冷えないように暖を取っていた。
材料は夕方前に涼介がBL妄想をしながら掘り出したジャガイモ。茹でてきれいに皮をむかれ、何度も何度も裏ごしされたもの。
原始的な炎が作り出すのは神楽の奉納をするような、館の人々が着席した影。それは壁でのんびり舞ったかと思えば、熱にうなされたように乱舞する。
壁掛けのガス灯からは儚いオレンジ色が憩いと団欒の象徴とも言えて、暖色系の明かり放っていた。
人々の影に時折、炎という濃淡の違う光が水彩絵具がにじむように重なると、薄くなり消えて、夜想曲の心地よいリズムを刻むようにカモフラージュする。
清潔感を表す白いテーブルクロスをかぶった細長いテーブル。燭台三つが食卓という海を照らし出す灯台のように、陸へ戻ってきた安堵を感じさせるように、灯りを遠くまでにじませ、優雅でゆったりした時が流れていた。
屋敷の秩序を守る使用人たちによってピカピカに磨かれた銀のフォークとナイフたち。美しさは最大限に引き出され、宝石のように輝きは四方八方へ放たれていた。
すぐそばで背筋を伸ばしているカラのワイングラスはクリアな光を乱反射させる。色とりどりの皿という舞台では、春野菜が女神タロが授けた生命の香りを芳醇に漂わせながら、ろうそくというスポットライトの下で様々な格好で佇んでいた。
マゼンダ色が飛び回る緑深き森のような、ラディッシュ入りのハーブサラダ。太陽のような赤いベールにふんわり包まれたロールキャベツ。ライ麦粉の酸味と香りが踊り出すパン・ド・カンパーニュ。彼女たちが空腹を魅了するように様々な皿の上でトップモデルのようにポーズを取っていた。
「――遅いですね」
入り口から一番奥にあるお誕生日席に、暖炉を背にして座る館の主人――崇剛がテーブルの上に両肘をついていた。
料理は四人分あるのだが、崇剛から見て右側にガタイのいい執事の涼介。左側に瞬が席について、三人しかいなかった。
いつもの癖で懐中時計をポケットから取り出す主人の脇に、お酒をグラスに注ぐ係の使用人が一人控えているだけだった。
(十八時十七分十八秒――。今までは、十八時七分十一秒から十八時八分五十六秒の間に来ていましたよ。これらから考えられることは、彼女に何かあったという可能性が出てきます)
プロ顔負けの料理を作った涼介は給仕をするのも好きで、召使は誰もいない。待ち人はドアから入ってくるとは限らないが、一応住人としてのルールで、崇剛と涼介はそれぞれ扉を見つめた。
小さなお腹がぐーぐー言っているのを聞きながら、瞬の幼い声が心配そうに食卓の上に舞った。
「るりちゃん、どうしたのかな?」
同じ色――ベビーブルーのくりっとした瞳が涼介へ向けられたが、霊感がまったくない父は首を傾げ、
「さあな」
心の中で息子に言葉を添える。
(俺は瑠璃様とは話もできないし、姿も見えないから聞かれても困るぞ。俺の息子よ)
瞬がいる右隣の空席で、ポタージュスープが膜を張ってしまうかもしれないと思い、涼介は椅子から立ち上がって皿をつかもうとした。
「瑠璃様の分は、あとで温め直し――」
「そのままで構いませんよ」
崇剛の待ったの声がかかった。夜色の中に浮かび上がる炎と壁にかけられた絵画の間で、遊線が螺旋を描く独特な声が浮き立った。
「霊界とは永遠の世界です。ですから、時がどれほど過ぎても、温かいものは温かいまま、冷たいものは冷たいままなのです」
千里眼の持ち主の瞳には、湯気を立てている料理たちが映っていた。主人は両肘をついた手に顔を乗せ、上品に微笑んだ。
「常世とはこちらのような意味も含まれているのかもしれませんね」
瞬は目をキラキラ輝かせて、涼介は伸ばしていた手を引っ込めた。
「すごいね、パパ」
「そうだな」
親子そろって、純真な瞳で見つめ合うと、崇剛がなぜかひとりでくすくす笑い出した。
涼介と瞬が不思議に思ってそっちを見ると、紺の長い髪の持ち主はひとつだけ空いている席へ、冷静な水色の瞳を向けて、こんなことを突然口にした。
「何かあったのですか――?」
そう言う崇剛の心の内は、
こちらで、涼介が聞き返してくるという可能性は99.99%――
こちらで、瞬が五つ先で質問をするという可能性は45.97%――
食堂にいる誰かに問いかけたのでもなく、霊感のない執事は簡単に主人の罠に引っかかってしまった。
「だから、通訳してくれって。一人で話すな、そこで。お前おかしな人になってる」
そばに控えていた使用人にとっては昔からのことで、崇剛ぼっちゃまは小さい頃から誰もいないところに向かって話していたのだ。
今は亡き先代は優しい方で、やめさせるでもなく、本当に誰かがいて話しているのだろうと判断し、否定するような扱いは決してしないようにと言いつかってきた。
崇剛は涼しい顔して、最終確認を取る。
「言ってしまっても、よろしいのですか?」
「そこで、こそこそ話されるほうが気分がよくない」
椅子の下で、アーミーブーツの足先はイライラと床に軽く叩きつけられた。
(どうして、今日は一回確認するんだ? いつもしてこないくせに……)
執事は違和感に気づいたが、主人の中ではこんな計算がされているとは思いもよらなかった。
涼介が困るという可能性が78.98%――
瞬があなたに質問してくるという可能性が78.98%――に変わりました。
同じ数字です。
すなわち、瞬が質問することで、あなたが困るということを指しています。
崇剛はさっきくすくす笑った重要な会話の内容を、密かに悪戯という光を瞳に宿しながら告げた。
「瑠璃さんはこちらのように言っています。『ラジュのお陰で遅れおったわ! 霊力使いすぎて倒れおった。あやつ、我を弄びおって!』だそうです」
主人は決して嘘は言っていないかった。崇剛はロイヤルブルーサファイアのカフスボタンを線の細い体の前へ寄せ集め、両手をテーブルの上で優雅に組み、予想した通りに乙葉親子が動くのを待った。
「…………」
そうして、策略家が罠を仕掛けた言葉から五番目の会話――。その通りに、小さな子供――瞬が足をパタパタさせながら父に質問した。
「パパ、もてあそぶって、なに?」
「そ、それは……!」
毎日のように、BL罠に陥れられている涼介は言葉に思わずつまり、主人の罠が何だったのかここで初めて気づいた。
(お前また罠を仕掛けてきて! その意味って……)
優雅に微笑んでいる崇剛の冷静な水色の瞳と、何とも言えぬ顔になった涼介のベビーブルーの瞳は、オレンジ色の炎が揺れる夜色の中で絡み合う。
そうして、策略的な主人によって、執事はBL妄想へを強制送還されてしまった――
*
――青白い月明かりが斜めに差し込む部屋。
明かりが全て消された空間に、カツンカツンと硬いもの同士がぶつかる音が、体中を舐めるようにはいずり回る。
涼介の上半身はいつの間にか露出させられたまま椅子に座らされていた。動こうとするが、
「っ!」
彼の男らしい腕は後ろ手にしてロープでキツく縛られていて、抗おうとするたび、紐は深く食い込む。
斜めに入り込む月影に、カツンカツンという音をまといつかせながら、茶色のロングブーツがチラチラと映り込んでは、姿を消してをリピート。
視線を上げると、主人の女性的な長い紺の髪と線の細い体が、神経質な横顔を見せて右へ左へ行ったり来たりしていた。
下からはい上がるエロスは、夜色に染まった貴族服に強調され変革を遂げた。残忍な快楽に酔いしれる、人の歪んだ欲望へと。
主人の腰のあたりで組まれた手の中にある、聖なるダガーの刃は享楽に恍惚とし、執事を痛ぶり尽くすような艶麗な光を放っていた。
感覚的な執事の妄想はかなり想像力豊かで、SMみたいなシチュエーションを勝手に作り出していた。
その上、屋敷に来たばかりの頃に、主人からよく仕掛けられていた罠を、めくるめく空想に率先して招き入れてしまい、崇剛の上品なイメージが崩壊したまま話は進んでゆく――。
ロングブーツのカツンカツンという尖った音が不意に止まると、含み笑いの優雅な声が問いかけてきた。
「どうしたのですか?」
何ひとつ無駄な会話をしない崇剛の前で、涼介は自由を奪われた両手を強く揺すぶった。
「これを解け! 椅子と一緒に両腕を縛るな!」
主人は執事が返答に困るように、話の内容を吟味できないようにする。崇剛は涼介は顔をグッと近づけて、キスができそうな位置まで迫り、今にも性的絶頂を迎えそうな表情で濃艶に微笑んだ。
「それでは、どのようにしたらそちらができますか?」
巧妙にすり替えられた質問――。BLが体中にまとわりつくような罠を同時に仕掛けられ、絶対服従へと連れていかれてしまった涼介。
執事の視線は男ふたりきりの薄暗い部屋で、マスタベ的な無我の境地を彷徨うようだった。
「ど、どうって……!?」
このまま唇に触れられてはという戸惑いと、触れてもいい――いや考えたくもない。冷や汗が涼介のこめかみを伝ってゆく。
相手が言いよどんでいる隙に、椅子にくくりつけられている涼介から、崇剛の細い体は一旦離れた。全てのことを計算し尽くして。
「どうされたいですか?」
さらにすり替えられた質問――。主人の神経質な指先は、執事の髪に絡まりなぶりものにする――激しく愛撫する。
自由を奪われた涼介は鳥肌を立たせながら、それでも必死に言葉を言おうとしたが、
「さ、されたい……? 敬語か? 受け身か?」
判断が難しい言葉を、主人にわざと言われたとも知らず、心臓は爆発寸前なまでにバクバクと激しく鳴っていた。
答えられないうちに、崇剛の指先は涼介の頬に白く熱い刻印を残すよう、あごへとゾクゾクさせながら落ちてゆく。
「何をされたいですか?」
主人は執事を罠という階段の最上階へと、他のことに気をそらさせたまま連れていこうとする。
神経質な指先は首を通り過ぎ、涼介の男らしい胸板で、執事の体の奥深くまで突き味わうようにしなわされ、崇剛の袖口についているロイヤルブルーサファイのカフスボタンがまるで舐めるように動いた。
あらぬ妄想が執事の脳裏を駆けめぐり、驚愕に染まった。
「な、何ってっっ!?!?」
どこを触っているのかと文句を言いたかったが、口がパクパクと空振りするだけで、声は出てこなかった。
主人の思うままに動いてくる執事――性奴隷を前にして、主人は至福の時というように優雅に微笑んだ。
こうして、執事に主人から罠の最後から二番目の言葉が言い渡される。
「それでは、私が決めてしまいますよ――」
「ん?」
違う話をさっきまでしていた気がすると、涼介は思った。しかしそんなことは、主人には当然、小数点以下二桁のパーセンテージで計算されていたのだった。
執事が反論しようとした刹那、瞬発力を発して、言葉を自由自在に操れる主人が先手を打った。
椅子に拘束された涼介の耳元へ、崇剛の中性的な唇は吸い付くように近づいてゆく、酔わせるような優雅な声で、話す暇を与えないように男を惑わせる。
「こちらのようにしましょうか」
言葉をすり替えて、最後にトドメを刺す主人の罠と、今現在に問題となっている言葉の意味を足し算してしまった、涼介の妄想はここに到着地点を迎えた。サディスティックな主人の声が告げる。
「私があなたを弄ぶ――」
神父でもある主人の性格を歪めた上に、執事の中ではこう略されていた。
私を禁欲という牢獄から解放していただけませんか?
あなたの肉体という現実味を帯びたものを通して――。
同性の崇剛にささやかれた、涼介はまた驚愕に染まり、
「なっ! 弄ぶって、お前っっ!?!?」
主人は自身の髪を縛っていたリボンを、慣れた感じでほどいた。急に女性的になってしまった崇剛は、執事の口元をそれでふさぐように手早く縛る。
「んん! んんん! んん!」
(神父が人を拘束するって、どうなんだ!)
話すことまで禁じられた涼介の顔をのぞき込もうと、崇剛は前へかがむ。長い髪が肩からサラッと落ちた。
「っ!」
綺麗な女性に襲われているようになってしまった、執事のあごを神経質な指先が艶かしく持ち上げ、見た目と反して声は優雅な男性のものだった。
「それでは、こちらで男色という快楽へ落ちていただきましょうか?」
いつも通り逆手持ちされたダガーは、下から上へ斜めの一直線を鋭く描き、涼介の白いジーパンを衣一枚の絶妙な間合いで引き裂いた――
*
「――手に持って遊ぶ。もしくは、好きなようにする、ですよ」
妄想の中と同じ優雅な声が、自分の外側からふと聞こえてきた。
「はっ!」
涼介が我に返ると、崇剛が斜め前の席でテーブルに肘をついて、子供の瞬に伝えても問題ない範囲できちんと教えているところだった。
「そうなんだ。せんせい、ありがとう」
「どういたしまして」
平然と罠を張りめぐらし、自分だけ穢れも何もないみたいに優雅に微笑んだ、神父の横顔に、色欲だらけの世界から帰還した涼介は毒舌を吐いた。
「この、悪戯神父!」
言いたいことは山ほどあると、執事は思った。例えばこんなふうにだ。
(お前、記憶力がいいから、辞書は全部丸覚えだろう! 知ってるなら先に言え!)
暴言を吐かれた主人はくすくす笑いながら、着実にチェックメイトを放った。
「何を考えていたのですか?」
執事が考え事をしている時の大半は、同性同士の大人の話が多くを占めていると、主人はよく言っている。というか、そうなるように罠を仕掛けたのだから、そうなっていただかなくては面白くもない。
やられてばかりでいるものかと、涼介は言い返しそうになったが、
「それは――!」
真正面の席で、純粋な瞳でニコニコしながら、夕食をおとなしく待っている息子が視界に入り、父は言葉を詰まらせた。
(お前、次々に罠を仕掛けてきて……)
こうして、暴言を吐いた執事は、主人にグーの根も出ないほど、見事にチェックメイトされてしまったのだった。
執事を策略へ陥れるという快楽に溺れてしまっている主人はくすくす笑う。
(私が導き出した可能性があっていたという可能性が99.99%みたいですね)