夜に閉じ込められた聖女/2
短い一生を終え、滅んだ肉体から魂が抜け出た。それでも、涙をボロボロとこぼしながら、この世に留まりたくて動けずにいると、ラジュ天使がさっきのように現れた。
そうして、今も昔も変わらないおどけた感じで、凛とした澄んだ女性的な柔らかさを持つ声で話しかけてきた。
「おや〜? 未練ですか〜?」
「…………」
もう重力を感じなくなってしまった体で、涙に濡れた頬を上げた。
そこには、にっこり微笑んだ背が高く金髪の優しそうな女性かと見間違うような男が立っていた。頭の上には天使の証である金の輪っか。背中には立派な翼を持っていた。
「天使……?」
ラジュはすっと姿を消し、すぐに背後から絹のような柔らかい声が紡がれた。
「未練を持つと、地縛霊となり地獄行きです。霊層は一気に一番下へ落ちてしまいますよ〜」
「地獄……?」
瑠璃はくるっと反転して、キラキラと聖なる光を放っている天使を見つけた。彼はまた姿を消し、背後から「うふふふっ」と含み笑いが聞こえてくる。
「軽い未練を残して、成仏したとしても霊層は下がります。神から見れば長い年月の一区間でしかないんですから、人の一生とは。すぐに心の整理をつけて次の人生へと進む、こちらが正しい輪廻転生です」
真正面へ向き直った瑠璃に、天使は優しく微笑み、死んでしまった少女はほっと胸をなで下ろした。
「転生するの?」
いい話になりそうだったのに、ラジュはゆっくりと首を横へ振って、
「いいえ、瑠璃さんは物質界[脚注]へもう少し留まっていただきます」
さっきと逆の話を平然としてくる天使。神秘的な光を浴びながら、瑠璃は何とか惑わされないように聞き返した。
「どうして?」
さっきまでの遊び気分は身を潜め、宇宙の心理を説くように、ラジュは話し始めた。
「今から六十八年後に神が与えるメシア――千里眼を持った者が名もないままこちらへやって来ます。その者の守護霊となっていただきます。その者はのちに、崇剛 ラハイアットと名づけられます」
「守護霊?」
瑠璃が質問すると、ラジュはまた背後の窓辺へ移動し、月明かりを頭上から浴び、聖なる光と重ね合わせる。
「心配はいりませんよ、簡単なことです。その者に手を少し貸せばいいんです。そちらで、あなたの魂も自然と磨かれます。人が本当に幸せとなることをするのが、己の魂を磨くための絶対条件ですからね」
「磨かれる?」
ラジュが後ろで手を組み、首を少しだけ傾げると、金の長い髪がサラサラと白いローブからこぼれ落ちた。
「あなたと神次第ですが、天使になれるかもしれませんよ〜? うふふふっ」
「天使……?」
瑠璃は天使の輪っかと翼が自分についたら、どんな姿になるか想像すると目をキラキラ輝かせた。
そこで、男性天使はにっこり微笑んで、「えぇ」と短くうなずき、こんな言葉を少女へかける。
「そのようになった暁には、私があなたを手中に収めましょうか? 私はまだ結婚していませんからね〜。うふふふっ」
「え……?」
純粋な八歳の少女には意味がよくわからず、瑠璃は目を丸くした。
*
意識が現実へ再び戻ってきた。あれから百年もともに過ごしてきた戯言天使を前にして、瑠璃はため息まじりにぼやいた。
「百年も我を口説きおって……」
ニコニコしていた天使はこめかみに人差し指を突き立て、珍しく困った顔をする。
「失念していました。今日は他に用があって来たんです〜」
ツルペタな胸の前で腕を組み、瑠璃は訝しげな視線をやった。
「お主、申さずに帰ろうとしたであろう?」
「おや? バレてしまいましたか〜」
堂々と認めた腹黒天使。降臨だけしておいて、負けることをする――仕事をしないで帰ろうとしていたラジュ。
失敗することが好きな無慈悲極まりない天使を、瑠璃はギラリとにらんで冷たく言い放ってやった。
「お主、邪神界側の堕天使であろう?!」
昼間の旧聖堂で、同じようなことを崇剛にも言われたと思いながら、ラジュはまったく懲りていなかった。
「おや? 瑠璃さんも手厳しいですね。うふふふっ」
百年――いや崇剛が屋敷へ来てから三十二年も深く付き合ってきた瑠璃は、何を言っても無駄だと判断して、面倒くさそうに話を先へ進めた。
「何じゃ?」
「お札を作っていただけませんか? 必要になるかもしれませんよ」
負ける策略しかしてこない天使を前にして、聖女は疑いの眼差しを思いっきり浴びせた。
「お主、ガセではないであろうな? 以前作って、まったく使わなかった時があったではないか?」
さっきから人を騙してばかりの天使はにっこり微笑み、こんな言い訳をした。
「おや? 私は嘘は言いませんよ〜。そちらは瑠璃さんの修業になるかと思って、嘘をついて作っていただいたんです」
聖女は思う。この目の前に立っている天使が人間ならば、とうの昔に信用を失っているであろうと。
それなのに人が次から次へと集まってくる。まわりにいる天使がよく騙されたとぼやいているのを聞く。しかし、本気で怒っている天使を見たことがない。ここまでくると、特異体質としか言いようがなかった。
それでも、瑠璃は若草色の瞳をついっと細め疑ってかかる。
「お主、ほとんどが戯言であろう。誠なことなど口にせぬであろう?」
「真実は人それぞれ違います。ですから、私が真実だと思えば、そちらが真実です。すなわち、本当のことになります〜」
にっこりと微笑むラジュだったが、よく聞けば筋の通っていない話で、瑠璃は盛大にため息をつき、人差し指を天使に突きつけた。
「お主! 長い言葉で我を惑わせようと企んでも無駄じゃ! 嘘は嘘であろう!」
そうして、ラジュの綺麗な唇からこの言葉が出てくるのだった。
「おや〜? バレてしまいましたか〜」
相手にすぐわかるように、負ける罠を次々と仕掛け、嘘だと堂々と認める。そんなオチを繰り返している天使。
「はぁ〜……」
さすがの聖女も返す手がなくなり、盛大にため息をついた。こうやって、いつも天使は聖女を負かしてから、本題に入るのである。
「除霊のお札を作っていただけませんか〜?」
瑠璃は姿鏡からベッド脇の空きスペースへ、すうっと空中を横滑りして移った。
「いかほどじゃ?」
「二百といったところでしょうか?」
一枚一枚、念を込めて作ってゆくお札。膨大な数を要求してきた天使へ、瑠璃は射殺すような若草色の瞳をやった。
「お主、我を亡き者にする気であろう! 霊力が根こそぎなくなるわっ!」
死を知らない世界に住む天使はにっこり微笑んで、聖女へ不謹慎発言を放った。
「瑠璃さんは死にませんよ〜、もうすでにご臨終ですから。魂は永遠に不滅です。まれに消滅することがありますが……。うふふふっ」
カバーしているようで、さりげなく最後に地獄へと突き落とすようなこと言う。ラジュは昼間の出来事を思い出し、含み笑いをやめた。
「ですが、気絶はするみたいですよ?」
「また戯言か? そのような話は初耳じゃ」
聖女が振り返ると、漆黒の長い髪が背中でサラサラと揺れた。彼女よりもはるかに長い時を生きているような、凄みを感じさせる怖いくらいの笑顔で、ラジュは昼間の無慈悲事件を告げた。
「旧聖堂で今日、崇剛が気絶しましたよ?」
あの時間帯は眠っていたが、その場に行かなくても手に取るように何が起きたのか、瑠璃にはよくわかった。
「お主……そうなると知っておって、わざと放っておいたであろう? 手助けのしようがあったのに、しなかったであろう?」
「おや? バレてしましましたか〜。最初から私も参戦すれば、崇剛は倒れずにすみましたよ〜」
崇剛が参列席から立ち上がるよりも前から、ラジュは戦闘になると知っていた。それなのに、降臨せず、実験結果が出るのを待っていただけだった。
聖なる光るローブに身を包み、キラキラと輝きながら微笑んでいる天使に聞こえないように、瑠璃はぼそっとつぶやいた。
「崇剛も難儀よの。あの時も、その時も……。ラジュのおかげで窮地に陥れられておったからの」
「おや〜? 何か言いましたか〜? ささやいても無駄ですよ。守護天使には守護霊の心の声が丸聞こえですからね〜?」
ニコニコ笑いながら地獄へと蹴落とし、さらに地面を掘って生き埋めにするような、残忍さが天使から垣間見えた気がした。
瑠璃は寒気に急に襲われ、慌ててプルプルと頭を横へ振った。
「な、何でもあらぬ。三百億年生きとると、我とは比べものならいほどの凄みがあるの」
崇剛の守護をするようになってから三十二年。二百ものお札が必要なことなどなかった。瑠璃は若草色の真剣な瞳を、何を考えているのかわからないニコニコしている天使へ向ける。
「何故、それほど数がいるのじゃ?」
「そちらは教えられません。瑠璃さんたちの魂の修業になりませんから」
ラジュは思う。上に立つ者――天使というのは時に孤独な職業だと。人とは見ている範囲が違って、誰か一人だけ幸せになるように働きかけるわけにはいかない。惑星全体で協力していかないと、守護という仕事はできないものだ。
瑠璃は床の上で身を清めるように、白いショートブーツのかかとをつけて姿勢を正し、後ろで聖なる光を放っている天使へ聞く。
「お主も少し手伝ったらどうじゃ? みな、我がやるのか?」
「おや? 天使の力では強力すぎて、こちらの世界の建物が壊れ、死人が大量に出ることはまぬがれませんが……。私個人的には構いませんが、そちらでも良いのでしたら、私もやりますよ〜? うふふふっ」
世界崩壊を本気で望んでいる天使を前にして、瑠璃は悪あがきをすることをやめた。
「相わかった」
話し声が止むと、部屋の空気が神聖なるものに変わってピンと張り詰めた。聖女はそっと目を閉じ息を吐き切って大きく吸い、両手を重ね前へかざす。
「出でよ!」
まぶたをさっと開けると、一枚のお札がかざした手の向こうで、緑色の光を帯びた狐火――焔のように四角い形で浮かび上がった。
両腕を左右へぱっと広げると、巫女服ドレスの袖が扇子を開いたようになった。
「数二百」
お札は幾重にも円を描くように、瑠璃の透き通った幼げな顔と同じ高さのまわりに綺麗に整列した。
緑がかった光が体の縁から風が下から吹き上げるように、ゆらゆらと登ってゆく。聖女として言霊の力を操る。
「願主、瑠璃!」
穢れを払うように、パンと両手を顔の前で鳴らし合わせ、祝詞を低い声で唱え始めた。
「道切を修し奉る。家に身に禍は寄らじな、ちはやぶる久那土乃神の坐さむ限りは……」
再び両手を体の前でかざし、神経を集中させる。聖女としての霊力を使い体を少しずつ回転させながら、自分から出ている光でろうそくの炎を点すように、除霊のお札に一枚ずつ念を込めてゆく。いい感じで作業が進んでいるところで、
「――あと数枚は用意しておいたほうがいいかもしれませんよ。足りないかもしれませんからね〜」
集中力が削がれた瑠璃は、射殺すように天使をにらみつけた。
「お主、気が散るであろう!」
「うふふふっ……」
不気味に笑っているラジュが何をしてきたのかわかって、お札作りで身を拘束されている瑠璃は、今の最大限で憤慨した。
「お主、わざとやっておるであろう! 先に説明すればよいであろう!」
「おや? バレてしまいましたか〜」
また同じループに入りそうだったのを前にして、瑠璃はひとまずお札に神経を集中して、ラジュのサファイアブルーの瞳とは視線を合わせないことにした。
天使は窓際へすうっと瞬間移動し、瑠璃の真正面を見る位置でふわふわと浮遊し始めた。アンニュイな感じで、聖なる光を放つ白いローブは窓辺にもたれかかる。
(もう既に手は打ってあります。極秘ですが……。敵の目を引きつける……。私も久々に忙しくなりますね〜)
昼間迎えにきた同僚に言われて神殿へ行くと、人払いされた謁見の間だった。こんなことはここ最近なかったことだ。
金の髪を綺麗な手で背中へ払いのける仕草は、女性かと見間違えるような美しさだった。だが、彼の表情は真剣そのもの。
(今のところ、成功する可能性は78.76%。そうですね……? このまま何もせずに待っていると、失敗する可能性が78.79%です〜。このままにしておきましょうか?)
瑠璃がお札の炎を増やしていく前で、ラジュは肩をすくめ、くすりと笑う。
(うふふふっ……というのは冗談です。神にまた叱られてしまいますからね。あの者ももう少しで私の守護下となりますしね)
ラジュの珍しく真剣な顔は月明かりが差し込む窓の外へ向けられ、人では決して見ることのできないはるか遠くへ、天使の瞳をやった。
(自身をごまかす嘘は大罪です。神に仕える身としては、そちらは許せませんからね)
瑠璃の発する緑色の光と銀の月明かりの両方を浴び、神秘と神聖という光のシャワーの中で、ラジュは怖いくらい微笑む。
(どのようなお仕置きをしましょうか? 今から楽しみですね〜、うふふふっ)
策略という罠へ意表をつく形で、悪者を背後から突き落として、これ以上ないほどの残忍な体罰を与える。
それをあれこれ考えると、ラジュの心は至福を迎え、月明かりに輝く窓の中にいつにも増して生き生きと映り込んでいた。
[脚注]この世のこと。