始まりの晩餐/2
全員が席についたのを見計らって、屋敷の主人――崇剛が口を開いた。
「それでは、始まりの晩餐と祝して、乾杯しましょう」
壁際に立っていた給仕係が、テーブルへスマートに近寄って、クリアなワイングラスにサングリアを注ぎ始める。
「オレンジジュースだ!」
父に注がれた飲み物を見つけて、瞬は大いに喜んだ。誰も座っていない――瑠璃のグラスにも、涼介は同じものを入れた。彰彦は手酌で、無事解放されたエキュベルのジンをショットグラスに注ぐ。
ビールの缶をダルレシアンはひとつ涼介から受け取り、今日はいつもと違ってグラスに入れた。浮かび上がるのは雲のような白い滑らかな泡。
全員のグラスが満たされると、崇剛は優雅に微笑んで、テーブルを見渡した。
「このような素敵な出会いを与えてくださった神に感謝を捧げましょう。乾杯」
「乾杯!」グラスがカツンカツンと心地よい音を立てて、それぞれ一口飲むと夕食が始まった。
きのこのマリネサラダはガス灯の明かりを浴びて、キラキラと輝く。白いローブはクローゼットへしまってしまったダルレシアンは、白い着物に身を包んでいた。
袖を揺らしながらフォークで食べ物を口に運び、
「うん、レンコン歯応えがあっておいしい」
「それならよかった」
褒められた涼介がほっとしている隣で、彰彦は居心地がよくなかった。狭いアパートの気取らない暮らしとはほど遠い、城にでも住んでいるような優雅な空間。どうにもリラックスできない。
彰彦は家でよくやっていたように、靴を履いたまま、隣の椅子に両足を乗せた。
「っ!」
本当はテーブルに乗せたいところだが、執事が綺麗に盛り付けた料理が拒んでいるような気がした。
ナッツを何粒か口へ放り込んで、ジンが入ったショットグラスを傾ける。さっきよりかは、落ち着いた――そう思っていると、涼介は顔を近づけて耳元でささやいた。
「彰彦、足は下ろせ。子供の教育によくないだろう?」
鋭いブルーグレーの眼光が容赦なく差し込まれ、けだるくしゃがれた声が喧嘩を売るように響いた。
「あぁ? こっち注意すんなよ。てめぇ、子供の教育間違ってんだろ」
「いいからおろせ」少し鼻にかかる声はいつもよりもトーンが落ちていた。本気だ、引く気はないと言うように。
「仕方がねぇなあ」彰彦はあきれた顔をしたが、足は椅子から下ろすどころか、片膝を立てて、向こう側の席についている小さな人へ視線を移した。
「おい、そこのガキ」
崇剛とダルレシアンの話し声はやんで、初めて食堂で顔を合わせるふたりの成り行きを見守った。
小さな人は純真無垢なベビーブルーの瞳を、不思議そうにパチパチとさせながら、食べていたフォークを皿の上に突き立てた。
「ぼくのなまえは瞬。『ガキ』ってなまえじゃないよ」
小さな人は、ガキと言う固有名詞があるのだと思った。ただただ、それは自分の名前と違うと訂正しただけだったのだ。
自身の意見が言える――立派なことだと、彰彦は思って頭を下げた。
「すまねぇな、瞬。オレの真似するんじゃねぇ」
瑠璃との話に夢中で、向かいの席に座っていた大人のすることなど、視界に入っていなかった。瞬はテーブルに手をついて背伸びをした。するとそこには、ジーパンの長い足がもうひとつの椅子を陣取って、フリーダムに横たわっていた。
瞬はうんと大きくうなずいて、フォークを持つ手を元気よく上げた。
「わかった〜!」
「そっち注意しろよ」彰彦はジンのショットグラスを一気にカラにして、子供の父親をチラッと見た。
ひと段落ついたのを確認して、ダルレシアンはデジタルにさっきまでしていた会話を、崇剛とし始めた。
「二階の一番東の部屋は、景色を楽しむために、廊下と隣の部屋に面していないところは、全て窓にしたんだ」
ちぎったパンを口に入れたダルレシアンから斜め前の席で、崇剛は料理にはあまり手をつけず、両肘をテーブルへついて優雅に微笑んでいた。
「今は瑠璃の部屋になっています。ですから、私たちは掃除の時以外は入ってはいません」
「そう。百年前――」
新しくショットグラスが満たされると、彰彦の耳に今度は向かいの席に座っている瞬の声が聞こえてくるが、幽霊――瑠璃の話が抜けていて、不明瞭な会話になっていた。
「るりちゃん、きょうね、かきをおにわでとったんだよ」
「あまくておいしかった?」
「そうだよ」
「うん、でも、あれは『しぶい』? びっくりするあじだよ」
「たべてみたい」
虫でも食ったみたいな内容で、隣で黙々と食べている執事を、彰彦はうかがった。この男にも、自分と同じように聞こえているのだろう。混乱する――。
サーモンのムニエルをナイフで切り始めたダルレシアンは食事に少しだけ集中していた。しかし、魔導師のすぐ近くで、ビールの缶が勝手に宙へ浮いて、グラスに酒を注いでいる。
ダルレシアンがどんなことに魔法を使うのかを、パーセンテージとカウントをつけて、デジタルに脳に記憶する崇剛は同時に、今の瞬がしていた会話履歴を綺麗に脳裏へしまった。
「るりちゃん、きょうね、かきをおにわでとったんだよ」
「もうそんな季節かの。昔はよく食べたもんじゃ」
「あまくておいしかった?」
「美味じゃった。表の庭で取ったのかの?」
「そうだよ」
「西のほうにも柿の木があるじゃろ?」
「うん、でも、あれは『しぶい』? びっくりするあじだよ」
「あれはの。干してから食べると、甘くなっての、また美味なのじゃ」
「たべてみたい」
「明日の――」
そこへ、マダラ模様の声がにわかに混ざってきた。
「いいね。柿、食べたいね。できれば、マスカットがいいけど」
「貴様、それ以外に食べ物を知らないのか?」
「俺、フルーツしか口にしないの」
シズキとナールの声だった。真正面から聞こえてくると思って、霊視してみると、ラジュを囲んで、左右に天使たちがテーブルにずらっと並んでいた。それぞれの前には、自分たちと同じメニューの料理が置かれている。
ラジュは珍しく表情を曇らせていた。
「おや〜? 私の好みは焼き魚なんです〜」
皿まで食いそうな勢いでガツガツと食べていたアドスは、口の中にある物を急いで飲み込んで、
「ムニエルでも魚は魚っすよ。うまいっす」
しかし、ラジュの機嫌は直らず、サファイアブルーの瞳が片方だけまぶたから解放された。
「一度も食卓に出てきたことがないんです〜。涼介を少々お仕置きしましょうか〜?」
その目は見なかったほうがよかったと後悔するような、絶望的なブラックホールが広がっているようだった。執事が天使に呪い殺されそうな現実を前にしても、崇剛はサングリアを楽しみながら、まるで映画でも見ているように、天使たちの晩餐を眺めていた。
椅子に座っているのに座禅でも組んでいるように姿勢のいい、カミエの地鳴りのように低い声が、彼独自の目線で説明する。
「崇剛の気の流れでは、魚料理は出てこん。肉料理があの気の流れを作るからだ」
「女に貢いでもらえんじゃないの?」
どこから持ってきたのか、指先に現れたマスカットをポイッと口の中に投げ入れて、ナールがラジュに提案した。
「おや? その手がありましたか〜。今から門のところで待っていましょうか? 親切な方が届けてくださるかもしれません」
と言っておきながら、まったく動く気配のないラジュは、徳利を傾けてお猪口で酒を煽った。
「貴様は食わないのか?」
水ばかりさっきから飲んでいるシズキは、カミエの食事が進まないのを気にかけた。しかし、武術の達人から出てくる理由は、あくまでも専門的だった。
「油物は落ち着きがなくなる。修業の妨げになるから食わん」
「相変わらず、修業バカだな、貴様は」
好みでないからとか、お腹が空いていないからではない拒否理由。シズキは鼻でバカにしたように笑った。
ナイフとフォークで上品に食べていたクリュダが、熱にうなされたように突然話し出した。
「サケといえば、サンサン地方の奥地にある渓流に、七色に輝く苔だけを食する品種がいるそうで、それが三千年に一度、産卵期を迎えるのだそうです。幻のサケと言われています。一体どんな味なんでしょう?」
全ての料理をペロリと平らげて、魔法のように料理が再び盛られる皿を前にして、コーンスープにスプーンを入れた、アドスが人懐っこそうに言う。
「俺っちがまた探してくるっすよ」
「ありがとうございます。お茶から何まで……」
ムニエルがただの焼き魚に変わっている皿の前で、ラジュはゆるゆる〜っと語尾を伸ばした。
「クリュダは、明日も奈落庵の最中を買いに行くんですか〜?」
「えぇ。限定三個ですからね。朝の三時から並んでゲットしちゃいます」
やらたらに少ない――儲け度外視の個数で、霊界にはお金が流通していないのがよくわかった。
くるくるとルビー色をワイングラスの中で回しながら、冷静な水色の瞳は、千里眼を使って、話題の中心になっている天使を見つめた。
(クリュダ天使は遺跡好きではなく、限定物に目がないのかもしれませんね)
その時だった、聖女の憤慨した声が突然食卓に響いたのは。
「プリンが出てこぬではないか! 何じゃ、この山のように盛り付けた生クリームは」
食べても食べても、生クリームばかりで、あのブランデーの香りがする黄色いプルプルのものが、百年の重み感じさせる若草色をした瞳の前に現れないのだった。
「パパ、るりちゃんがプリンたべられないって」
口元についたレタスを指で口の中に入れながら、瞬は父に通訳した。涼介は毎度のことながらゲンナリする。
「瑠璃様、またプリンから食べてるのか。だから、デザートを先に食べるな」
さっきからまったく聖女の声は聞こえないし、姿も見えないが、ひとつ開いた席で手がまったくつけられていない料理と、まわりの人間が話しているのを目の当たりにすると、彰彦もいつの間にか普通に話してしまうのだった。
「瑠璃お嬢、すまねぇな。がよ、それはそれで新鮮だろ?」
聖女の顔は驚愕に染まった。彰彦の節々のはっきりした指で、二メートル近くもある背丈で、手のひらに乗るくらいの皿に、生クリームを盛りつける――
「お主が作ったとはの。明日は雪――いや、槍が降るのう」
普通の声で言って、白八歳の少女は遠い目をした。しかし、彰彦にはもちろん聞こえておらず、話が尻切れとんぼだと思いながら、ジンを煽る。
横で聞いていたダルレシアンが何気なく会話に入ってきた。
「瑠璃『姫』はプリンが好きなの?」
ヤカンでお湯が沸いたように、一気に頭の天辺まで真っ赤になった瑠璃は、椅子に座ったまま足をジタバタさせた。
「姫と呼ぶなと申しておるだろう!」
「ふふっ」
ダルレシアンは肩をすくめて、春風みたいに柔らかに微笑んだ。
「可愛らしい人ですね、瑠璃さんは」まるで子供を見守るような温かな眼差しで、崇剛は手の甲を中性的な唇に当てくすりと笑った。
置いてけぼりを喰らっている、彰彦と涼介。カラのショットグラスに、彰彦はジンを注ぎながら、缶ビールの二本目を開けようとしている涼介に問いかけた。
「ビールしか飲まねぇのか?」
昨日の晩――カクテルの名前を列挙していた執事。酒が好きなのかと思いきや、違うのか。
涼介の瞳には、向かいの席で楽しそうに話している瞬が映っていた。
「本当は他のも、勉強のために飲みたいんだが、瞬を風呂に入れたりしないといけないからな。酔っ払うわけにはいかないだろう?」
まさか主人に面倒を見てもらうわけにもいかない。小さな瞬とほとんど一緒に過ごす毎日だが、それはそれで幸せだと思うと、涼介は少しだけ視界が涙でにじんだ。
「そうか」彰彦は何気なく返事をして、ジンのふたをくるくると閉め、
「おう、瞬?」
横顔を見せていた瞬は少し驚いて、不思議そうな顔をこっちへ見せた。
「なに?」
「オレと一緒に風呂入っか?」
「うん、はいるはいる! ふふ〜ん♪」瞬はピアノを弾くように指を動かしてご機嫌になった。
この男の優しさなのか――。涼介はそう思ったが、執事は情にもろい性格だった。
「お前、仕事で疲れてるんだろう?」
「大人がこんだけいんだからよ、少しは甘えてやりてぇことやれよ」
彰彦は手の甲で、涼介の腕を軽くトントンと叩いた。この男はまだ二十八だ――。やり直しはいつだってできるが、早いことに越したことはない。
「そうだな。サンキュな」
涼介はありがたみが身にしみて、そう言うのがやっとだった。ビールが今日はやけにおいしい。
しかし、感動できたのはそこまでだった――。