始まりの晩餐/1
「〜〜♪」陽気な口笛が響いていたが、「ずいぶんとチェンジしちまったな」
昼休みの喧騒に、彰彦のしゃがれた声が混じった。
木々の隙間から、鰯雲が青い空を気持ちよさそうに泳いでいるのを、鋭いブルーグレーの瞳に映して、心霊刑事はため息をついた。
一昨日までは、一人暮らしのボロアパートに帰って、食事らしきものは口にせず、ジャンクフードと酒ばかりの毎日。話す相手もいなければ、忙しい日々で家に野郎どもを招くこともない。そんな乾いた生活は一転して、人の温もりがあふれていた。しかしそれは、少々――いや、かなり非日常的なものだった。
カラの弁当箱を枕がわりにして、寝転がる木の太い幹の上。トレードマークのカウボーイハットを顔に乗せて、さわやかな秋風に迷彩柄のシャツを気ままに揺らす。
「だいたいよ、見えてる人数より、話すやつが多いからよ。話がストレンジな時あんだよな」
昨夜のベルダージュ荘での夕食を思い返す。小高い丘の上に鎮座する赤煉瓦の建物の中は、あんなおかしな光景が日常として広がっていたのだ。
*
陽が落ちて、どこかの映画の街角かと思うほど趣きのある長い廊下。ガス灯の暖かな光の中を、彰彦は食堂へ向かって歩いていた。
さっきまで燃えるような赤に染まっていた地平線は、夜の色を濃くして、星のきらめきはくすみがどこにもなかった。中心街の狭い石畳からも治安省からも、こんな夜空は見たことがない。いや、目の前のことに気を取られ、空を見上げる余裕もなかったのだ。
静まり返っている廊下では、ウェスタンブーツのスパーがかちゃかちゃと響く音以外何も聞こえない。
穏やかで平和――そんな言葉は無縁というよりは、必要のないものだと信じ切っていた。爆弾が投下され続ける戦場を、情熱だけで走り抜けてゆくような毎日だった。手応えのある人生だった。
彰彦はふと立ち止まり、空にポッカリと浮かぶ銀盤を見上げた。さえぎるものが何もない夜空は、昼間の疲れを優しく消し去ってゆくような美しさで、ガチガチだった心と体の緊張感が溶けてゆく。
窓の隙間から入ってきた風に、食べ物のいい香りが運ばれてきて、彰彦は誘われるようにまた歩き出した。
傷はついているが、綺麗に磨かれた金のドアノブを回し、中へ押し入れると、香ばしい香りと暖かな空気が広がった。空いている席へ歩き出そうとして――まるでお化けが出るように、ダルレシアンが瞬間移動で崇剛の斜め前の席に現れた。
「お腹すいちゃった〜!」
「メインはサケのムニエルだそうですよ」
すでに席についていた崇剛は、テーブルの上に置いてあった懐中時計を見ていて、魔導師のデータ収集に余念がなかった。
彰彦は珍しくため息をついた。
「魔法っつうのは隠すもんだろ。堂々とやりやがって」
この屋敷では当たり前に――普通に魔法を使い放題の魔導師。それに優雅に微笑む主人も主人で、ふたりしてクールにスルーしていたのだった。
気を取り直して、食堂を奥へ進もうとする。住人全員での食事――数は彰彦を入れて五人のはずだが、六人分用意された食卓。誰の分かと思っていると、ダルレシアンが春風が吹いたみたいなふんわりした声を響かせた。
「瑠璃姫は来てるの?」
お化け――守護霊の食事まで、きちんと用意されているとは、盆や彼岸をこの屋敷では、毎日迎えているみたいになっているのだと、彰彦は思った。ダルレシアンの問いかけに、崇剛が答えるのだと思っていたが、また魔導師が話し出した。
「マイル、ナンギって何?」
「こちらへ来ることと、大変だという意味です」
魔導師には幽霊の話が聞こえるのか。しかし、瑠璃の言った言葉がなく、心霊刑事は推理する――瑠璃お嬢が何と言ったのかを。外国語みたいな花冠語は――
「参っておる。見えぬとは難儀じゃの」
答えが出た――というか混乱する屋敷だ。
「瑠璃姫は温故知新だね」
ダルレシアンは四字熟語を言ったが、少々意味がずれていて、間違って覚えたのかもしれないと、彰彦は思いながら、テーブルへつこうとすると、肝心の酒がなかった。
すぐ斜め前の席で、冷静な水色の瞳がこっちを向いて、
「彰彦、ドアの修理代は私のほうで出しておきましたから」
「すまねぇな」
初日から、屋敷の主人の寝室にあるドアを破壊するとは、派手にやったもので。彰彦は気を取り直して、キッチンへ行こうとすると、純真無垢なべブーブルーの丸い目がこっちを見ていた。
涼介の息子――瞬、五歳だ。大人だけの世界で生きていた彰彦にとっては、新鮮な人物。
知らない大人がまたひとり増えていて、瞬のあどけない瞳はパチパチとまぶたに隠れては現れてを不思議そうにしていたが、
「瞬、コップまだ運んでないぞ」涼介の声がキッチンからやって来ると、
「は〜い」
小さなお手伝いさんは、台所へと小走りに消えていった。あとを追いかける、彰彦も用事があるのだ。見通しのよくない入り口までくると、小さな人が慌てて出てきた。
「おっと危ねぇ」
危うく正面衝突だったが、瞬はそんなことには気づかず、テーブルへ向かって元気に話しかけながら、コップを運んでゆく。
「るりちゃん、どうぞ」
まただ――。彰彦に見えない人物へ話しかけているのは。少しの間があって、瞬はキッチンの入り口に立っていた、彰彦のほうへ振り返った。
「パパ!」
「何だ?」
少し鼻にかかる涼介の声がキッチンから返ってきた。
「きょうのデザートなに?」
「瑠璃様の好きな、プリンだ」
瞬はキッチから視線をはずして、誰もいない席を少し見ていたが、またこっちへ向いて、
「いつもの?」
「いや、今日は違う。かぼちゃのプリンだ。瑠璃様が望むなら、ブランデーのアルコール飛ばして、あとからかけるが?」
瞬は幽霊が座っている場所を見て、ニコニコしながら、
「パパ、それがいいって」
「今やるから待ってろ」
「は〜い!」瞬は元気に言って、右手を高く上げた。大きな椅子を一生懸命引っ張って、彼はぴょんと飛び乗って、あとは食事が始まるのを待つだけとなった。
「ブランデーを……ミルクパンに入れて……」
食堂との間仕切りまでやってくると、涼介が小さな鍋に酒瓶から琥珀色の液体を注いでいるのが見えた。どこかの店かと勘違いするようなキッチンで、整理整頓がきちんとされている。料理ができたばかりだというのに、使ったもののほとんどが片付いているほどの手際のよさだった。
白い小さな陶器に入れられたプリンが並ぶ調理台の上を、彰彦は鋭い眼光で、ジンを探そうとする。チーズの塊が紙から少し顔を出していて、ナッツ類の入った袋が立てかけてあった。
ガタイのいいコックは、小さな鍋から炎が上がっているのを、いつもと違った真摯な眼差しで眺めている。ここで突っ立っていても、見つかるはずもなく、彰彦は厨房へと一歩足を踏み入れた。
「おう、涼介」
鍋から上がる青い炎を見たまま、涼介は返事を返した。
「彰彦、ちょうどいいところに来た」
「あぁ?」
「そこに生クリームがあるだろう? プリンに乗せてくれ」
奥をのぞくと、銀色のボールに白い柔らかなものができ上がっていた。
「手伝えってか」
昨日来たばかりの住人をあごで使うとは、なかなかいい度胸をしている。前回は酔っ払いだったが、今日は素面だ。強烈なパンチを言葉で叩き込んでやる――彰彦は口の端でニヤリとした。
しかし、次の言葉を言う前に、涼介から先制攻撃が来た。
「エキュベルのジンが人質みたいなもんだからな。酒とショットグラスを取りにきたんだろう?」
いつもはつらつとしているベビーブルーの瞳は今は、先手は取ったと言わんばかりに、彰彦に向けられた。
ウェスタンブーツは半歩下がって、ダルレシアンと談笑している、優雅な主人をチラッと見た。
「崇剛の野郎、バーで銘柄まで記憶しやがって」
「無事に終わったら、人質を解放してやる」
やけにノリのいい執事で、彰彦は思わず本職が出てしまった。
「誘拐犯なら、しょっ引いて――」
いい感じで掛け合いが始まるかと思いきや、
「口動かしてないで、手を動かせ」執事兼コックから注意された。どうやら、本気で生クリームをプリンに飾りつけろと言っているようだった。
「ったく。あぁ〜っと……」
すぐ近くに三角形の布が落ちていた。ひょいと持ち上げて、星型みたいな穴が開いているのを見つけた。彰彦はピンと来た。この袋の中に生クリームを入れて、ここから押し出して、プリンに乗っけるのだと。
「綺麗に盛り付けろよ」
「コックみてぇにこだわってんな」
できるだけ早く終わるように、豪快にヘラですくい上げて、布の中に入れてゆく。
「俺はここに来る前は、料理屋をやってたからな」
ミルクパンを火から下ろして、涼介は小さなポットに、ブランデーをひとまず入れた。
「カミさんとってか?」彰彦はかがみ込んで、生クリームが出てくるのをじっと見つめる。まるで綿の花が咲いたみたいに、白い丸がフワッと現れる。
「そうだ。たくさんの人に提供することはできないが、ここでも人数が増えたからな。前より腕の振るい甲斐がある」
「ちっこいから、うまく乗らねぇな」
ついつい押し出しすぎて、プリンの器から生クリームが調理台の上に雲の切れ端みたいに落ちてしまう。
涼介は洗い物をしながら、「お前、料理したことないだろう」
「食えりゃ、何でもいいだろ」
やってみると意外にはまる――。ブルーグレーの鋭い眼光の先で、黄色いプリンに白が添えられてゆく。
「食は大切だぞ。よし、明日から、俺が弁当作ってやる」
「野郎の手作り弁当って。冷やかしにもならねぇな」
ぐるぐると円を描いて――。
「外に働きに行ってるのはお前だけだ。弁当を作る機会がなくて、うずうずしてたんだ」
「それも、人質解放の交換条件ってか?」
ひとつ終わって、次のプリンへと移る。案外、うまくできている――彰彦は得意げになりながら、執事の手伝いを難なくこなしてゆく。
「無理 強いはしないが、お前の荷物に弁当は入れておく」
涼介はさわやかな笑顔をしながら、ストレートパンチを放ってきた。彰彦はすぐさまカウンター攻撃で交わす。
「てめぇ、意外とひねくれてんだろ。その前置きいらねぇんだよ。結局やってくるんだからよ」
「崇剛とは主従関係だろう。だから、彰彦とは対等に話したいよな」
執事としては嬉しいのだ。主人みたいな巧妙な罠を仕掛けてきて、油断も隙もない会話ばかり。そうではなく、普通に話せる人物がやって来たことが。
「ダルレシアンとはしねぇのか?」
ぐるぐると円を描いて、最後は少しだけ押すようにして、真上へ生クリームの入った袋を上げる。いい角ができた――彰彦は思う。
涼介は台拭きで水跳ねを拭きながら、魔導師の聡明な瑠璃紺色の瞳と、甘ったるい声を思い浮かべた。
「あいつのこと聞いてるつもりが、話が終わると、さっぱり聞き出せてないんだ。何を話したか思い出すんだが、原因がどこにあるかもわからない」
相変わらず、この男は感覚でいやがる――。
「そりゃ、主従関係が原因じゃなくて、別のことだろ。てめぇがらしく話せねぇのわよ」
よし、全部終わったぜ――。彰彦は生クリームの入った三角の袋を調理台に置いた。
「パパ〜! おなかすいた」瞬が待ちきれずに、キッチンへ入ってきた。
「もうすぐ終わる」涼介は手を拭いて、今初めて、彰彦の絞った生クリームを見た――いや、白い群れを見た。
「あ……。お前、ある意味器用だな」
「だろ?」口の端でニヤリとする彰彦の前には、パーティをする時にかぶる、とんがった帽子のようにうず高くデコレーションされた生クリームがあった。
「おやまだ!」瞬の眼前に広がる、童話に出てくるような雪をかぶった三角の山々。ソリをしたら楽しい――と、目を輝かせた。
「でも、これじゃ、ブランデーかけられないだろう」
さっき、アルコールを青い炎を出して飛ばして入れた、小さなポットを料理台の上に、強調するようにドンと、涼介は置いた。
「細けぇこと言うなよ。それよか、人質解放しろや」
彰彦がそう言うと、男ふたりは子供を間に挟んで微笑みあった。こいつとは気が合う――