お礼参り/3
「サンキュウな、崇剛」
立場上ずっと言えなかったことを、彰彦は今初めて口にした。崇剛の冷静な水色の瞳は横へゆっくりと揺れる――否定する。
「私は何もしていませんよ。あなたと神です、努力したのは。私は神に導かれて、あなたに言葉を伝えただけです」
少しずつ縮まってゆく距離。しかしまた、妙な間が開き、それを埋めるためにグラスに口をつけ、葉巻の青白い煙がふたつ、バーの天井へ登っていった。
沈黙が彰彦の心を強くえぐる。隣に座っている優雅な男に、振られた形にはなったが、完全に可能性がないとは言い切らなかった。一緒に住むと了承したのは、彰彦自身だが、どうにも穏やかな気持ちではない。
蛇の生殺しだ――彰彦は思う。
好きになってもらえっから、惚れてんじゃねぇ。
惚れてっから、惚れてんだよ。
てめぇで終わらせねぇ限り、ファイナルはやってこねぇ。
がよ――
丸氷を作り終えたバーテンダーに、彰彦はくわえ葉巻のまま声をかけた。
「あれ、かけろや」
「おっす!」
バーテンダーは手を拭き、カウンターの端にあるレコードの群れから一枚取り出した。黒い様々な線が円を何重にも描いている盤から、針を慎重に上げると、店内がにわかに静かになった。
彰彦はカウボーイハットをテーブルの上に投げ置く。藤色の長めの短髪が、冷静な水色の瞳の前で、初めて色を持って全貌を現した。
「昔観た映画でよ。期間限定でフットボール選手が人生をなり直すために挑むんだよ。がよ、ある日、正規の選手とドンパチしてよ、野郎だらけの牢屋で歌いやがる曲が、おかしなことに女郎の失恋の歌ときてやがる」
黄昏気味に笑って、しゃがれた声が男ふたりきりのテーブルの上に舞った。
「その曲のタイトルが、I Will Survive――」
英和辞典を丸暗記している崇剛はすぐさま翻訳した。
「生き抜いてみせる――ですか。題名が映画のシーンにあったのかもしれませんね」
レコードに針が落とされ、ブツブツという雑音が響くと、ピアノの音が滑らかに低音から高音へ向かって滑り、エレキギターのシンプルなルート音が伸び、黒人女性の力強く歪みのある声が歌い出した。
クラシックばかり聴いてきた崇剛にとっては、R&Bは未知の音楽で、歌詞を追い続ける。その間、ふたりは何も言わず、彰彦は青白い煙を上げていた。
曲が終わると、崇剛がふと口を開いた。
「男性に振られ、再び彼が戻って来ましたが、彼女は部屋から出て行ってと言い、振る歌なのですね」
強がりも少々入っているのかもしれないが、女は意を決して恋を終わりにしたのだった。
バーテンダーが気を利かせて、もう一度最初から曲が流れ出した。彰彦はいつもの挑戦的で意志の強いブルーグレーの瞳だったが、涙で視界が揺れる。
「この歌詞の意味を知った時よ、女郎ってのは野郎よりもずいぶんストロングな生き物だって思ったぜ」
野郎ってのは弱ぇな。
実際、今日なってみてよ。
オレはこんな風にファイナルにできねぇ……。
崇剛は直視はしなかったが、視界の端でタフなふりをしている男を見ながら、「そうですか」いつものように、ただ相づちを打ったが、ひどい後悔の念に襲われた。
私は情報を得たいばかりに、あなたを傷つけたのかもしれない――。
自分を愛している男に、昼間した断り方が間違っていたのだと、今頃気づいた。
ふたりには見えないように、三人の天使が店のテーブル席についていた。
足をきちんとそろえ斜めに構えるラジュは女性的。カミエは大きな岩のように絶対不動。ゴスパンクのロングブーツを華麗に組んでいるシズキ。彼らはそれぞれの酒を傾けながら、静かにことの成り行きを見守っていた。
選択肢はいくつもある。崇剛が選ぶもので未来は変わる。ロイヤルブルーサファイアのカフスボタンはあご近くで止まっていて、
(そうですね……?)
持ち主のデジタルな頭脳の中で、天文学的な数字の膨大なデータが、滝のように流れ出し、必要な物を導き出し、
(こうしましょう――)
ひとつの未来が選び取られた。ラジュ、カミエ、シズキはあきれた顔をする。優しさという悪戯――罠が展開するからだ。崇剛は結局、悪戯という快楽から逃れられない、ある意味弱さを持っていた。
彰彦が店に入ってきた頃、バーテンダーとやり取りをして、チェイサーを断っていたことを、崇剛は当然覚えていた。優雅な笑みで策を隠し、一緒に暮らすこととなった男に初めての罠を仕掛ける。
「他には何を飲むのですか?」
心霊探偵と心霊刑事の間に、仕事上という制限が取り除かれ、自由という新しい盤上でスタートする。
彰彦は紺の後れ毛を鋭いブルーグレーの眼光で捉え、
「あぁ、オレか?」
「えぇ」情報漏洩をさけようと、崇剛は最低限の言葉で返した。
罠か――この男がまともに話してくるとは思えないが、
「だな……」彰彦は青白い煙を吐きながら、昼間言われた言葉を鮮明に思い返した。
「性別に関係なく、人を愛することは非常に尊いものであり、素敵なことです」
「残念ながら、今のところは、私はあなたの気持ちに応えられません」
ボッコボコに殴られたような気分だ――。心理戦に長けた心霊刑事は、対等な立場を手に入れるため、カウンターパンチを放った。
「グリーン アラスカだ」
崇剛、オレの罠に引っかかりやがれ――。
四十二度のジンをショットで飲む男の酔いたい日の酒など、アルコール度数がかなり高いのは明白だ。過剰な飲酒を控えている神父の崇剛。だが、今日はさけられない。
「それでは、私もそちらをいただきますよ」
こちらは私のあなたへの懺悔です――。
顔には出さなかったが、彰彦は心の中で、口の端をにやりとさせた。
「いいぜ」
崇剛、ノックアウトされんぜ――。
ワインの度数など高くてもせいぜい十六度。それしか飲んだことのない人間がどうなるか目に見えている。だが、彰彦は素知らぬふりをする。
店内の音楽に混じって、彰彦のガサツな声が恐ろしい酒の名を口にした。
「よう、グリーン アラスカふたつ」
「兄貴、マジっすか?」バーテンダーはあきれたため息をついた。それで、兄貴は毎回やらかして、家に帰すのが大変なのだ。
売られたケンカだ――。どうやっても心霊刑事は心霊探偵と同じリングで闘いたかった。
「いいからよこせよ」
バーテンダーは聖なる教会のステンドグラスをイメージした黒いラベルの瓶と、グリーン色の細身の瓶をふたつ用意した。崇剛は千里眼を使って、バーテンダーの手の中にある酒を頭の中へ記憶する。
きちんと量を測り、シェイカーへ入れてフタをする。そうして、シャカシャカと心地よい音を刻みながら、ふたつの液体が混じり始めた。
しばらくすると、落ち着いた黄緑色をした三角形の小さなグラスが、カウンターの上をすうっと滑ってきた。絶妙な力加減で崇剛と彰彦の前でピタリと止まった。
(こちらが彰彦が酔いたい時に飲むお酒――クリーン アラスカですか)
冷静な水色の瞳にカクテルグラスを映す、崇剛の脳裏には、
寝室の下から二段目。右から五番目の本――世界のお酒。
そちらの百七十八ページに載っていました。
ですから、中身が何かは知っています。
普段の私なら、絶対に口にしません。
口にすれば、策士の崇剛には自身がどうなるか大いに予測はついていた。彰彦はショートカクテルというジャブを崇剛へ打ち込む。
「飲んでみやがれ」
神経質な手がグラスの足に絡みつき、口へと運び――一気飲み――をした。
「…………」
不思議なことにアルコールの匂いと味がしない酒――酔うかもしれないという警戒心を失わせるカクテル。
彰彦はグラスを上からわしづかみし、少しだけ飲んだ。今日はノックアウトされるわけにはいかない。隣に座る男の反応を最後まで見届けたいのだから。
「どんな味だ?」
「香草とハーブ、それから甘味がとても強いです」
あなたが飲んでいるものと同じものが飲めて嬉しいです――。崇剛は珍しく――正直な気持ち――を胸の内で述べた。
個性の強い酒で、ミニシガリロの芳醇な香りと辛味にも負けないどころか、味覚という舞台でワルツを踊っているようだった。
しかし、至福の時は突然終わった。飲んだが最後、強いアルコールが体の中で暴れ始める。紺の髪をもたつかせて縛っているターコイズブルーのリボンを、彰彦は鋭いブルーグレーの瞳で面白そうに眺め、
「……一口で飲みやがって、知らねぇぜ」
彼の心の中で、カウントダウンが始まる。
五、四……。
「どのような意味ですか? そちらの言葉は」崇剛は珍しく――不思議そうな顔――をした。
「何で、そんなにスモールなグラスに入ってるって思わねぇのか?」
……三、二、一!
抜群のタイミンングで、崇剛の冷静な水色の瞳はまぶたの裏に隠れた。細い指先からカウンターテーブルへコロコロと転がったミニシガリロ。
線の細い瑠璃色の貴族は後ろへ傾いたかと思うと、左回りで前へ戻り、紺の長い髪を靡かせて、彰彦へ向かって倒れ込んだ。
「っ!」
素早い反応を見せた彰彦は体を左へねじると、崇剛の神経質な顔はふたつの長さの違うペンダントヘッドが揺れる、厚い胸板にどさっと無防備に埋もれた。
「おっと、危ねぇぜ、崇剛」
オレの罠にはまりやがって――。
ふたりを見ていたバーテンダーは文句を言った。体格のせいで、酔った女性を受け止めたみたいになっている男に。
「兄貴、サングリアしか飲まない人に、グリーン アラスカ飲ますって、どういうことっすか?」
軽々と崇剛を抱き寄せている彰彦は、青白い煙を吐きながら、
「昼間、粋なノックアウトしてきやがったからよ」
可能性の数値なんていう味気のないもので、人の気持ちを図りやがって――。噛みつくように思ってみても、寂しさが胸を掻きむしる。
一匹狼で、挑発的、情熱という原動力で、次々に迫りくる事件や、時には立ちはだかる壁を、拳で打ち砕き生きてきた兄貴。そんな男が、髪が長い女性的に見える男に、やられたと言う。バーテンダーは不思議そうな顔をする。
「何すか? それ」
国の犯罪を取り締まる機関――治安省の花形――罪科寮で、敏腕刑事だった彰彦は彼らしい言い回しをした。
「お礼参り――ってか」
やられっぱなしじゃよ、フェアじゃねぇだろ。
らよ、オレもやってやって、同じ立場ってか。
一緒に住むんだからよ。
がよ――
何を言っても、今日の兄貴は止められない。そう思って、バーテンダーはガックリと肩を落とした。
「裏貸せよ」
魔除けのローズマリーの香りが立ち上って、スパイシーな刺激が彰彦の臭覚を刺激する。
酔わせたのは、オレの責任だからよ。
面倒みてやんねぇとな。
崇剛を支えたまま、兄貴肌の彰彦は葉巻を灰皿の上で離した。
「っ」ジーパンの長い足は高い丸椅子からスルッと斜め後ろへ出る。ウェスタンブーツのスパーが床に触れた衝撃で、カチャっと鳴った。男らしい腕は崇剛の線の細い体を軽々とお姫様抱っこをした。
ビューラーで巻いたみたいな綺麗なまつ毛と、中性的な少し柔らかな唇を間近で見つめ、彰彦は鼻でふっと笑った。
「オレの前で、無防備に酔っ払いやがって……」
カウンター席を横へ、重力に逆らえずに落ちている紺の髪がゆらゆらと運ばれてゆく。黒い暖簾のようなものが下げられている従業員オンリーの領域へ入り込んだ。
酸化した油の匂いが染み込む狭いキッチンの隅っこ。両腕がふさがっている彰彦は、足で丸椅子をいくつか並べ、その上に崇剛をそっと下ろした。
そうして今ようやく気づいた。罠にはまったのは、崇剛ではなく、自分だったのだと――。
鋭いブルーグレーの瞳はいつもよりも増して、刺し殺しそうなほど鋭くなり、優雅に気を失っている男に向けられた。
わざと酔いやがったフリしてんだろ、てめぇ。
可能性でオール図ってる野郎が得体のしれねぇモン、簡単に口に入れるわけねぇ。
によ、一気に飲まねぇだろ。
何飲んでも酔わねぇんだな、てめぇ。
まだ巻きついている筋肉質な腕の感触を背中で感じながら、崇剛は目を閉じ続ける。
わざとあなたのほうへ倒れましたよ。
私が瑠璃を愛した時、彼女に触れたいと思いました。
ですから、あなたも私に触れたいと願っている可能性が96.56%――