お礼参り/2
シガーケースとジェットライターは乱暴にテーブルに投げ出された。衝動でケースのロックがはずれ、赤茶の細長いミニシガリロが出番というように顔を出して、
「オレはジンのショット、オンリーでな」彰彦は葉巻を一本取り出した。
「強いものを飲むのですね」
十三度。
対
四十二度。
飲む酒の強さまでが違っているふたり――。
シガーケースが彰彦から崇剛へ差し出されると、
「ありがとうございます」神経質な指先で抜き取り、優雅にお礼を言った。
ジェットライターでミニシガリロにそれぞれ火をつけ、口にくわえる。青白い煙が一度上がると、バーテンダーの声がその向こうから聞こえた。
「どうぞ」
ルビー色で満たされたワイングラスと、結露ができ始めているショットグラスが出された。彰彦にはもうひとつ透明な液体の入ったグラスが差し出されそうになったが、
「チェイサーはいらねぇぜ、今日は。酔いてぇからよ。水はナッシングだ」
オーダーを聞き返してきたら、ナイフエッジ チョップをお見舞いしてやろうとしたが、バーテンダーはその攻撃から今夜は免れた。しかし、あきれた顔をする。
「またっすか? やなことでもあったんすか?」
その原因が隣に座っている男だと言うわけにもいかず、彰彦は噛みつくように吠え、
「うるせぇ!」シルバーリングのついたゴツい手で、小さなグラスをガバッとつかみ、クイっと煽った。
崇剛はガス灯の明かりを向こう側にして、赤ワインを透かし愛でる。次は香りを楽しみ、中性的な唇に高級グラスだとすぐにわかる薄い口当たりが広がった。飲む前から酔ってしまうほどの心地よさを感じながら、体の中へすうっとワインが染み渡ってゆく。
ふたりともグラスから口を離し葉巻を吸い、酒の香りと味がミニシガリロによって繊細でありながら、鋭く味覚と臭覚が翻弄される。崇剛と彰彦の視線は、真正面に置いてある酒瓶たちを眺めるばかり。酔いとミニシガリロの香りを、黙ったままふたりはしばらく共有していた。店内に流れる音楽とカツカツと氷を削る音が紡がれるだけだった。
お互いのグラスが最後の一口になる頃、崇剛がやっと話し出した。
「通勤にリムジンを使っていただいて構いませんよ」
「あぁ? そりゃ、官僚並み――っつうか、それ以上だな」彰彦は両肘をけだるくテーブルに乗せて、青白い煙を吐いた。
自転車が主流で遠距離の移動は馬車。国家機関の治安省でも、幾重にも重なる許可を突破しないと使えない代物――自動車。その種類がリムジン。政治家でさえほとんど保有していないもの。
「そうなのですか?」
屋敷からほとんど外へ出ない暮らしをしている崇剛は聞き返した。
男らしい頬で氷の刃という視線を受けていたが、彰彦も顔を向け、口につけていたショットグラスを離した。
「リムジンは持ってねぇだろ、いくら国の役所でもよ」
「そうなのですね」
千里眼のメシアを使う関係で、あの世に意識がとらわれがちな崇剛はある意味、世間を知らないのだった。
カラになったショットグラスをバーテンダーに見せつけるように、彰彦は揺らす。
「明日から、キャリア時間で出勤してやっか?」
丸刈りの男がすぐに寄ってきて、彰彦のグラスを受け取り、崇剛もカラのそれを渡した。
「同じものを」
「わかりました」
ふたりの間に張り詰めていた緊張が少しだけとけ、崇剛は聴き慣れない言葉に疑問を抱いた。
「キャリア時間とはどのような意味ですか?」
吸いかけのミニシガリロが、灰皿の上で消えてしまっているのを見つけ、彰彦はジェットライターを崇剛へと滑らした。
「お偉いさんはよ。遅れて出勤してくんだよ。十時とか十一時とかによ」
時間にルーズな国家機関。一秒のズレでも許せないデジタルな頭脳の持ち主は、葉巻を口へ入れようとした手を止め、くすくす笑い出した。
「おかしなところですね、役所という場所は」
「組織っていうのはお偉いさんが、いばり散らすところだろ」
縦社会の中でずっと仕事をして、最後は左遷された彰彦はあきれたため息をついた。
自身の国家機関の怠慢を前にして、崇剛は先進国のシュトライツを思い出した。その中でも、宗教のトップで教祖の思想を。
「ダルレシアンの考え方とは正反対ですね」
あの漆黒の長い髪を持つ男は、地位や名誉よりも、国民の自主性と解放を第一に願って、この国へとやって来たのだ。
「あの野郎、何だってよ?」
「密かにみなさんの軍師となって、腐敗していた王族制を廃止させたのです。本人ははっきりとは言いませんが」
「ノーマルはそうなんだろ。おかしなやつが混じってっから、世の中おかしくなってんだろ」
「そうかもしれませんね」
崇剛は曖昧な返事を返した。おかしくなっているように見えるのは人間の狭い視野からの見解であって、神からすれば、それは意味のあることなのだろう。何千年も何億年もの未来には、今起きていることが必要なことだったと、人はあとになって気づくものだ。
ジンの高いアルコールが喉をジリジリと炙る――サディスティックな遊び。
家で飲むのとは違うが、赤ワインの華やかな香りとミニシガリロが混じることで生まれる、また別の味わい。
青白い煙に包まれながら、崇剛と彰彦の距離感は少しずつ埋まってゆく。
「それから、あなたのことはファーストネームで呼び、丁寧語は使わないようにと、涼介には注意しておきました」
ジーパンの長い足は椅子の上で組み直され、ウェスタンブーツのスパーがカチャっと鳴った。
「サンキュウな。今日からホームだからよ、ベルダージュ荘が。らよ、苗字で呼ばれたり、お前さんみてぇな話しかけられ方すっと、リラックスできねぇからな」
「そうでしょうね」
あくまでも丁寧語で決めてくる崇剛。彰彦は口の端でニヤリとし、言葉で軽いジャブを放った。
「お前さん、いつから、丁寧語で話すようになったんだ?」
小さい頃から、ですます口調だったのか。自身のことを私と呼ぶ――どうにも想像がつかない。
「十八歳の時からです」そう答える崇剛の脳裏では、
十四年前の十二月十九日、火曜日、十六時十七分五十秒――からです。
きちんとインデックスがついていた。
「そん時、何かあったのか?」
「丁寧語で話したほうが罠が成功する可能性が82.00%――を超えたからです」
しれっと答えてくる優雅な男は、どこまでもデジタルだった。
彰彦は鼻でふっと笑って、「お前さんらしい理由だな」ショットグラスを一気に煽った。
「ありがとうございます」
執事の前で言うように、崇剛は優雅に微笑んだが、彰彦はカウンターパンチを喰らわした。シルバリングをつけたゴツい手が、崇剛の腕を軽く叩きながら、
「おかしなこと言いやがって」
お礼を言うところではないのに、言ってくる。そんなことが時々あった。あれは何かの罠かと思ったが、素直に述べているだけなのだ――彰彦は今頃気づいた。
ふたりの距離がまた少し縮まる。
「ガキの頃、てめぇのこと何っつってたんだ?」
「僕です」
「生まれた時から上品でいやがる」
住んでいる世界が違う――
「学校には行かなかったのかよ?」
大富豪のラハイアット家だ。家庭教師でも雇っていたのかと、彰彦はにらんだ。
「最初は行っていましたが……」そこまで言ったが、崇剛は瞳を曇らした。
らしくないことをする――。
冷静な水色の瞳は、他の誰よりも物事をよく見ることができる。敏腕刑事と呼ばれて、数々の事件の裏に隠された人の心の闇に出会ってきた、彰彦には予測がついた。
「仲間はずれにされたってか? メシア持ってっから、人と違うってよ」
「そうかもしれませんね」
ルビー色のワイングラスを傾ける男は、全てを記憶する頭脳も持ち合わせている。過去の辛い出来事も昨日のように覚えている。
ラハイアット夫妻のたくさな愛の元で、大きな屋敷で生きてきた。社会へ出た途端、幽霊を見たと言えば、嘘つき、気味が悪いと言われる日々。何度も挑戦し続けたが、人の恐怖心を、人間である崇剛は拭い去ることはできなかった。
激情の獣が胸の内で牙を剥き、雄叫びを上げているだろうに、崇剛は冷静という名の盾でしっかりと抑え込んだ。
「そのクールな考え方はガキの頃からか?」
「そうですね」神経質な指先で取り上げたミニシガリロを、崇剛はひと吹かしして、
「ですが、幼い頃は可能性の導き出し方をよく間違って、失敗していましたよ」
数々の子供らしい失態を思い返して、優雅な笑みが戻った。
完璧なまでに、彰彦の恋心を情報として持っていって、デジタルに切り捨てた男が、誤って立ち止まったり、痛い目にあっているとは――。
「失敗か……。無縁に見えんのにな、お前さんにはよ」彰彦は青白い煙を吐いた。
「そんなことはありませんよ。今でも失敗することはあります」
神ではあるまいし――。口外しないだけで、可能性の導き出し方など間違えることはある。ただ、年々、訂正の仕方が上達してきているのは確かだが。
「あなたはどのような子供だったのですか?」
優雅な心霊探偵からすれば、心霊刑事はミステリアスだった。
「オレか?」灰皿になすりつけていたミニシガリロを置いて、彰彦は崇剛の顔を見た。
「えぇ」
崇剛に促されて、彰彦はショットグラスを少しだけ傾けた。カウンターの奥に並ぶ酒瓶を眺めながら、しゃがれた声で言う。
「オレの家はよ。放任主義――今考えりゃ、育児放棄だったんだろうな」
「そうですか」
素っ気ない相づちだったが、親の愛情を知らない、崇剛とダルレシアンに、彰彦。共鳴する感情が視界をにじませるが、どこまでもクールに崇剛は切り捨てた。
太いシルバーリングは過去をたどるように、ミニシガリロに伸びてゆく。
「まぁ、ガキの頃から野郎どもには好かれてたからよ、何とかやってこれたぜ」
「えぇ」
何か困ったことが起きても助けてくれる大人がいない。食べ物がない。着る物がない。暖を取るものがない。生きてゆくために必要なものが手に入らない。そんな幼少期を過ごして、彰彦の心はすさんだ。
「ずいぶん憎んで恨んだぜ、親のことをよ」
崇剛の細い指先はコースターの丸みをなぞる。
「そうですか。本で読みましたが、子供は十歳までは手がかかるそうです。それより前に手がかからなくなり、『いい子』になるのはもうすでに何らかの理由で傷つき、心を閉ざしてしまった子だそうです。そのような幼少期を送った人は、心が欠けたまま大人として生きてゆくことになるそうです」
彰彦が望むのなら、崇剛は故ラハイアット夫妻からもらった愛を分けようと思った。
他人と同じスタートラインに立てないまま、がむしゃらに生きてきた三十八年間。憎しみも悲しみも全て噛みしめるように、彰彦はジンの熱を体の中へ落とす。
「そうか」
だが、そんな自分を救ってくれた人物がいたのだ。彰彦は真正面を向いたまま珍しく微笑む。
「がよ、お前さんがいつか言っていやがっただろう?」
「どちらの言葉ですか?」
聖霊寮の応接セットにやって来ては、必ず説教をして帰る聖霊師がいたのだ。
「何にでも意味がある――ってよ」
「えぇ」
最初に会った時――
去年の五月七日、金曜日、十四時四十七分十八秒以降の話ですね。
赤ワインの酔いに浸りながらも、デジタルにインデックスを崇剛は引っ張り出した。強烈なパンチでも食らったように、彰彦は盛大にため息をつく。
「あれが心に響いてよ。親も神様じゃねぇ、人間だ。子供の育て方を間違えることもあんだろって思って、許せるようになってよ。ほったらかしじゃなかったらよ、ここまでオレはフリーに生きてなかったんだろって気づいてよ。過保護だったら、今のオレじゃねぇだろ。たらよ、憎しみも恨みもなくなっていやがって、心が軽くなったぜ」
悪の感情の中で、もがきにもがいて生きてきて、谷底から自力ではい出し、見つけた空は何とも言えない美しいもので、縛り付けられていた鎖の重さからも解放されて、それがどれほど重かったのか、彰彦は思い知った。
「人を恨むってよ、意外とエネルギー使うんだよな。しなくなって気づいたぜ」
「そうですか。あなたはやはり強い心の持ち主ですね」
隣に座っている男はやはりタフだ――。たった一言、教えられただけで、谷を登ろうとするバイタルティーと、頑丈な鎖を自身の手で切ってしまったのだから。
「弱ぇと思ってるやつが、強くなれんだろ」
「そうかもしれませんね」
確かにそうだ――崇剛は思った。強くなるのが目的なら、自身が弱いと認めて、直すことが理にかなった努力のし方だ。