幸福の味
彼女に恋をしなかった僕だけが一人生き残った。
僕が生まれ育ったのは小さな小さな村だった。
村人はみんなお互い赤ん坊の頃からの付き合いで、もう誰と誰が親戚かとか血縁かとかなどわかりはしなかったし気にするものもいなかった。羊を飼うものは羊毛を、牛を飼うものは牛乳を、鶏を飼うものは卵を、畑を耕すものはその四季折々の収穫物を、日常に必要なものは村人同士で交換した。
週に一度若者の誰かが村の収穫物をまとめて荷台にのせ、村を囲む山のうち、西の方角にある少し険しい道のりの向こうにある町で開かれている市場に向かった。売り上げは商品を出した人にそのまま戻される。ずっとそうしてきて揉めたことなど一度もなかった。
売りに出る者は売り上げをごまかすことなどなかったし、売って来てもらったものは心ばかりのお礼として、次の物々交換のときにより美味しいものや質のいいものを交換した。
外から旅人が立ち寄れば誰かがもてなしたし、旅立ちのときは誰かが弁当を持たせた。そんな穏やかな村に、そのまま住み着く者も少なからずいた。人間だから、全くいさかいや揉め事がなかったわけではないし、気の合わない者同士ももちろんいる。けれども何かがあれば誰かがなだめ、妥協点を提示し、お互いがそこそこ納得して譲り合えるよう計らった。
村で生まれた子供達は、村の大人全員がその子供らの名前と性格を把握し、悪さを見つければ叱りつけたし汗だくになっていれば水を飲ませた。
本当に、本当に穏やかな村だった。
東の山は切り立った崖を覆う木々が鬱蒼と繁る薄暗い森で、山の向こうにはさらに山がふたつ続いていたから余り立ち入るものはいなかった。道とは名ばかりの獣道としかいえないようなものしかないために、山を越えてくる旅人もほとんどいなかったにも関わらず、誰がいつ建てたのか村一番の年寄りすら知らない崩れかけた古城があった。
よく晴れた日に高台にあがるとその城の一部が木々の隙間から見える。いたずらが過ぎた子供は、一度は必ずその城にほおりこむぞと脅されたものだった。僕もその子供のうちの一人だ。子供は釣りの合間の怪談に、大人は酒場での酔いの肴に、その城に住み着いているかもしれない魔物の話を囁いて背筋を冷たくさせあい愉しんだ。
ある晩、その森の奥の古城に明かりがついていることに気づいた者がいた。
酒場を盛り上げた推測は、次の朝には僕ら子供の耳にも入った。住み着いたのは、肌のくずれた魔物でもなく、ぼろぼろの黒衣をかぶった死神でもなく、艶やかな黒髪を腰までまとわせ頬に薄い陰を落とすほど長い睫毛が縁取るすみれ色の瞳をもつ女だった。
彼女は、村の女たちが年に一度の祭りでしか身につけないようなドレスよりもデザインこそ飾気はないけれどはるかにやわらかな絹で仕立てられたドレスを着こなし酒場に現れるようになった。
同じ年頃の友達と家を抜け出し酒場の窓を外から覗いたとき、友達はその姿にいっせいにため息をついた。暗がりから覗き込んだ部屋は橙色の灯りに染まった空気に満ちて、昼間僕を怒鳴りつけたおじいさんも、僕の頭をはたき「そろそろうちに帰りな」と高らかな笑い声をあげたおばさんも、みんなあからさまに彼女に視点を定め、うっとりとした表情のまま彼女をもてなしていた。彼女を中心とした水槽に住む魚の群れみたいだった。
部屋の中からは夜の闇にまぎれた窓の外の僕らは見えないはずなのに、彼女はこちらに顔を向け、微笑んだ。僕は、あの森を抜けてきたのにドレスの裾に土ぼこりの一粒もついていないことが不思議でしょうがなかった。
父が収穫した林檎を詰めた籠をふたつ、ひとつは父が、ひとつは僕がもって広場にいった。
その日は市場に行商へ向かう日だったのに、行くはずだった人が来なかった。大人たちは顔を見合わせたがその行方を誰も探すこともなく、代わりの人が名乗りをあげ荷台をひいた馬を連れて村を出た。いつもなら誰かが、様子を見に家まで訪ねていったのに。彼はどうしたのかとの僕の問いに答える大人はいなかった。
穏やかな穏やかな僕の村。争いごともいさかいごともなく、ただ一人、また一人と村人が姿を消し、そのことに触れるものも誰もいなかった。
僕の友達ですらも、村人が消えていく事実をすんなりと受け入れていて、理由を知らないのは僕だけのようだった。誰に尋ねても、僕が尋ねている理由がわからないといった風情で首をかしげた。母も、父も。
最後に残ったのは僕と父。母は先週から戻ってきていなかった。
「ああ、行かなくては」
パンと野菜スープの夕食の途中で父が立ち上がった夜。どこに行くのか、どうしてなのかと問う僕に、父はやはり何故訊かれるのかわからないといった顔で答えた。
彼女が空腹だと自分を呼んでいるからだと。
世話をしなくては立派な林檎は実らないに決まっているだろうと当たり前のことを説明しているかのような口調で、僕の頭をなで、ふらりと家を出て行ってそのまま戻らなかった。
村人は、彼女の食事になっていたのだ。自らの意思で、彼女が空腹になるとその身を差し出しに城へ向かっていたのだった。
僕はたった一人の村人になった。
庭のトマトをもいだ。
3軒向こうの家の牛の乳を搾った。
隣の家の鶏から卵をもらった。
怒る人は誰もいないけど、焼き立てのパンと交換してくれる人もいなくなった。
荷台と馬を引いて山を越えるには、僕の身体はまだ小さすぎる。山を越えたところで知っている人は誰もいない。どうしたらいいのだろうと考えているところに彼女が現れた。
「行くところがないなら、うちに来なさい。坊や。城の手入れをする人が必要なの」
僕は、父を殺した女を主人として働いた。
僕はまだ村から出たこともない子どもだったのだ。広い城は、床を磨くだけでも一日で終わらなかった。それでもその合間に、村へ降り、牛や鶏にえさを与え、父の畑の手入れもした。
彼女はいつも気だるげで、城にいる時はぼんやりと窓から空を見ていた。
そして夜になると出かけていく。
城には僕と彼女しかいないはずなのに、食事はいつのまにかテーブルに並んでいた。毎晩。
酷くまずい肉ばかりだった。
それでも育ち盛りの僕には肉が必要で、なんとか水で流し込んだ。村から運んできた卵や野菜は、僕が食卓に並べたけれど、彼女は口をつけず、ワインと肉だけを食べていた。
どこかの国の女王のように美しい彼女には、そんな肉は似つかわしくないように思えたけれども、どんなに美しくても、彼女は僕の父も母も殺した女なのだ。
彼女の背を追い越す年になっても、僕は彼女に恋はしない。いつか殺してやると決めていた。
なぜ人を食べるのと一度聞いたことがある。
彼女はただ、どんな生き物だって何かを食べるでしょう、と答えた。
「人間なら誰でもいいの? それなら何故僕を食べないの」
「あなたは私に恋をしていないから」
ばかな。
僕が彼女に恋するなどと。
でも確かに父も含めた村人たちは、時折村のはずれで見つめあっていた恋人同士のような目つきをしていた。
「なぜ自分に恋した人を食べるの」
「美味しいからよ」
彼女の微笑みはとても美しく、その残酷さにふさわしいと思えるほどだった。
何年かすぎ、僕は彼女の背を越した。
床磨きだけではなく、庭の手入れにまで手が回るようになり、もういつでも村を出て行けると思っていた頃、時々視線を感じるようになった。
振り返ると、窓から彼女が僕を見ている。目が合うと、ふいっと部屋の奥に姿を消してしまう。僕が彼女に恋をするのを待っているのか。ありえないことだとわからないのだろうか。それまで彼女に恋しなかった人間はいなかったのならわからないのもうなずける。
彼女は出会った頃と寸分違わぬ若さと美しさだったけれども、夜に出かける回数は徐々に減っていった。
それからまもなくの晩、僕が城に来てから初めてテーブルに食事が載らなかった。
僕は酷く腹をすかせていて、どうして食事がないのか彼女に聞いた。彼女はワインを口に含んでどうしてかしらねと笑った。最近は彼女は殆ど食事をとらず、ワインばかりを飲んで過ごしていた。わけがわからないままだったが、いつもどおりサラダと焼いた芋を食べることにした。
食卓での会話など当然いつもない。かちゃかちゃと銀器がふれあう音だけ。それが毎晩の食卓だった。
「ねぇ、貴方のお父さんは本当に美味しかったわよ」
彼女が突然そう言った。僕が彼女のその細い首に手をかけた時も、その笑顔は消えることはなかった。
彼女の肉は、それまで食べたこともないほどに美味しかった。ナイフなど必要もなくフォークのみでほぐれ、舌の上で甘くとろけた。
「お味はいかが?」
テーブルの上の彼女の首が笑う。素直に感想を伝えた。
「そう、良かった。全部食べてね」
例えようもないほどに幸福そうな顔で彼女は目を閉じて。
何年も同じ城に住んでいたのに、その美しさは十分知ってはいたのに、それでもなお、どの瞬間よりも美しい笑顔だった。
僕はその時初めて、父たちは幸せに死んだのだと知った。
穏やかな穏やかな僕の村に住む人たちに、ふさわしいほどの幸せだったのだと。




