28
歩哨の目をかいくぐり、近くの貴族屋敷の屋上に上る。
軽く助走距離を取り、領主屋敷に向かって飛んだ。
いつものジェットエンジン仕様だとさすがにバレるので後ろから風魔法で身体を押す。
どうにか領主屋敷の敷地内に着地することができた。
転がって衝撃をやり過ごし、目の前で驚いて呆然としている敵兵の口を塞いで魔法で眠らせる。
「……危なかった。もうちょっと慎重にいこう」
眠る兵士を見えない影に引きずって、移動を開始する。
できるだけ音を消して領主屋敷の屋上に上る。
バルコニーに降りて部屋の中を覗く。
数名の将校らしき敵が談笑していた。
どうやら将校の軍服は他のものよりも華美なようだ。
違う部屋も外から見て回る。
暗い部屋があった。
暗くてよくわからないが、敵はいないようなのでドアノブを魔法で分解して扉を開ける。
どうやら領主夫妻の寝室のようだ。
豪華な家具が並んでいる。
天蓋つきのベッドはキングサイズだ。
「……だれ?」
思わず臨戦態勢をとって目を凝らす。
「もしかして、王国の兵隊さん?」
一人の女性がベッドに裸で横たわっていた。
聞き覚えのある声だ。だが、誰だろう。思い出せない。
「あなたは――」
「ハロルドさん?」
どうやら俺のことを知っているらしい。
誰かと尋ねる前に女は言った。
「わたしです。エミリーです」
エミリー。
それはかつて俺がデートに誘った女性だった。
冒険者ギルドの受付嬢で、領主一族の有望株と婚約したはずだった。
思わず駆けよって顔を確かめる。
確かにエミリーだった。
だが、ひどい有様だ。
全身は打擲された傷跡で生々しい。
それに、この様子では……。
そっと布団をかけて隠してやる。
「今、治してやるから」
「――いいんです。もう」
「そのままでは傷が膿む。感染症なんかになったら大変だ」
「殺してください。あの人と同じ場所に送ってください」
「エミリー……」
エミリーの婚約者は帝国兵によって殺されたらしかった。
きっと、領主一族として最後までタッカ市に残って戦ったのだろう。
俺はてっきり西方軍と一緒に逃げたのだろうと思っていた。
今にして思えば、ゴードンはエミリーがタッカ市に残ったことをわかっていて、その不安を俺に見せなかったのだろう。
つくづく、かっこいい男だった。
「ゴードンさんと会ったよ。怪我をしていたが、大丈夫だ。今も帝国と戦うために斧を磨いてるはずだよ」
「叔父様が……ハロルドさん」
「ダメだ。お願いだから、殺してほしいなんて言わないでくれ」
エミリーは悲しむように微笑んだ。
「ひどいです。もう女としての幸せなんてなくなりました。このまま生きていても、きっと誰かもわからない男の子どもを産むんですよ。わかりませんけどね。たぶんそうなるんだと思います。帝国兵の子どもです。もしここから逃げ出しても、きっと……あはは。ひどいですよね。自分で死ねばいいのに、怖くてハロルドさんに頼むなんて、ほんと最低ですよね……」
「エミリー」
そっと、裸のエミリーに手を触れる。
冷たい。血の滲んだ傷跡が、俺をひどく冷徹にさせた。
「こんな傷物、いくらハロルドさんでも幻滅したでしょう?」
「――こんな傷、いくらでも治してみせる」
どんなに辛くても、どんなに死にたいと思っても、乗り越えられない苦難なんてない。
それは俺が師匠から教えてもらったことだ。
「ゴードンさんがいる。エミリーが死んだらきっと悲しむよ。何年経ってもいい。きっと元気になるから、前を向いて歩けるようになるから、だから、お願いだ。見えない傷だって、きっと治してみせるから」
エミリーは気力を失った瞳で俺を見つめていた。
「……その時は、わたしをもらってくれますか?」
「エミリーが望むなら」
「三十点です。そういうときはつべこべ言わず俺の女になれって言えばいいんです」
俺が答えるよりも先に、エミリーは自嘲するように言った。
「ふふっ。ごめんなさい、ハロルドさん。きっと他にやることがあるんですよね。まさかわたしを助けに来たわけじゃないでしょう? いいですよ。わたしがわかることならいくらでも答えます」
エミリーは強い女性だった。
強くて、けれどとても脆くて、儚くて。
愛する男を失っても、自分以外のことを考えられる。
とても、悲しい女性だった。
「師匠を……師匠を探しているんだ」
「うふふ。ハロルドさんにはもう他のめぼしい女性がいたんですね。あーあ、なんかちょっと残念です。もらってくれますか、なんて恥かいちゃいました」
「エミリー」
「地下室です。女の捕虜は全員地下室にいます。時々入れ替わりでこの部屋に連れ込まれるんです。アンジェラさんはかろうじて生きてます」
「……かろうじて、か」
「はい。何かの道具を背中に埋め込まれてるみたいで、力が入らないようです。一人では歩くのも無理みたいで……」
「そうか」
「早く……早く迎えに行ってあげてください。大切、なんでしょう?」
「ああ。教えてくれて助かった。ありがとう」
俺は立ち上がり、扉まで歩く。
ドアノブに手を掛けて、振り向かずに言った。
「エミリー。俺は君も助けるよ。だから生きて欲しい。殺してほしいなんて言わないで欲しい。帰ったら、俺と一緒に王都に行こう。新しい家を買ったんだ。そこで今は商売をしている。実は孤児を三人引き取って、おまけに訳ありの少女も一人匿ってる。毎日とっても騒がしくて、でも、とっても楽しいんだ。エミリー。君もきっと気に入ってくれる」
「優しいんですね、ハロルドさんは」
エミリーは何かを堪えているようだった。
「ちゃんと迎えに来てくださいね?」
「ああ。約束する。だから、少しだけ待っていてくれ」
「はい。待ってます」
俺は決意を胸に、扉を開けて飛び出した。
――もう、容赦なんてしない。