23
タッカ市陥落の報せが届いたのは、珍しく風が止んだ冬の午後だった。
まだ春にはほど遠い真冬にも関わらず、商人たちの情報網を通じて、王都中がその噂で持ちきりだった。
酒場で知り合った衛兵に尋ねたところ、西方軍の通常編成は歩兵連隊と弓兵部隊の混合で、兵数にして凡そ三万ほど。率いる将軍は猛将というよりも都市防衛の専門家とも言われる将らしい。名前は聞いたことがなかったが、軍内部ではとくに下士官以下の兵士たちに人気が高いそうだ。
無駄な消耗を抑えつつ、攻勢と撤退の好機を弁えたその戦術は、意気軒昂な軍人からすれば臆病に見えるらしい。だが、一兵卒からすれば頼りがいのある将なのだという。
つまり、そのような将軍がタッカ市で玉砕するはずがないので、撤退を余儀なくされるほどの兵力を帝国が用意した、とその筋に明るい人たちは考えているらしい。
「少なくとも西方軍三万が都市防衛を諦める戦力だ。五万といわず倍の十万だとしても驚かんよ」
衛兵はそんな風に言っていた。
そんな報せが舞い込んだせいか、貴族との取引も今はそれどころではないと全て延期になった。
宮殿の政の方が忙しいらしい。
クレマンに紹介してもらった貴族の屋敷では「戦争が終わった頃にまた」と門前払いされてしまう始末だ。
寒空の下を歩いて帰る。
シャーベット状になった雪が踏む度にしゃくしゃくと音を立てた。
首元が寒くて外套の首回りを左手で寄せる。
タッカ市は王都よりも寒い。今頃は積雪で大変だと思うが、師匠は大丈夫だろうか。
まさか一般兵に負けるとは思えないが、帝国も魔術師を抱えているはずだ。
師匠がそう簡単に他の魔術師に負ける姿も想像できない。
俺があげたスカーフをつけてくれているのだろうか。
気に入ってくれたみたいだから、もしかするとタンスの奥にしまったままかもしれない。
ところで、よくよく考えるとあれだ。
タッカ市が陥落してしまった以上、領主一族もタッカ市を逃げ出しているはずだ。
となるとエミリーもいない。エミリーがいないということは、彼女の旦那もいない。
めでたく俺の貸し付けた聖金貨十六枚は露と消えたわけだ。
倉庫にしまってある債権の証書がただの紙切れになったのだが、そこまでの落胆はない。
正直なところ、あれはどうにも使い道のない金を運用するつもりで融資しただけで、なかったならなかったで別に構わない金なのだ。
いや、惜しいのは惜しい。こんなことになるなら色街でぱあーっと使えばよかったと思うぐらいには。
「ただいま。ああ、ニック。ご苦労さん」
「おかえりなさい、師匠!」
玄関を開けるとニックが迎えに来てくれた。
軽く肩に積もった雪を払い落として外套を手渡すと、彼は綺麗にハンガーを通して壁にかけてくれる。
「みんなは?」
「居間にいるよ。暖炉の前から離れられないんだ」
「アリスもか?」
「アリス姉が一番離れないよ」
「そっか」
居間に行くと、エルとチャドがソファーに座って本を読んでいた。俺の顔を見ると「おかえりなさい」と元気よく声をかけてくれる。うむ。良い子に育ったもんだ。といっても、まだ三ヶ月程度なのだが。
アリスは……猫か。
暖炉の前で寝転がっている。だらだらしすぎだとは思うが、きびきびされても困る。
「アリス、調子はどうだ? 無理してないか?」
「極めて良好。痛みは多少あるが、問題ない」
三日ほど前にようやく痛覚を戻した。
日常生活には問題ない程度の痛みらしい。
「ハロルド」
「おう。なんだ?」
「何かあったのか?」
「いや、別に」
「そうか。気のせいならいい」
顔に出ていたのか。
クソガキトリオはともかく、アリスは案外人の表情に敏感だ。
師匠の安否を知りたい気持ちはある。
だが、かつての俺ならばともかく、今の俺には守るべきものが多すぎる。
クソガキトリオもまだ誰かに預けられるほどじゃないと思うし、アリスなんてもっと無理だ。
今は師匠が生きていることを願うしかない。
不安はもちろんある。
手紙の返信はまだない。
「あっ、師匠。さっき人が来て、ハロルドさん宛に手紙でーすって」
エルがものまねをしながら手紙を渡してくれる。
送り主は……アンジェラ。師匠だ。
「少し工房に籠もる。そうだ、夕飯は何がいい?」
「あったかいの!」
「お肉!」
「……汁系」
「オートミール」
エルとニックはともかく、チャドは独特の感性だな。
そしてアリスは気に入ったものをとことん重用する性格のようだ。
まあいい。
「じゃあ、今日はビーフシチューにするか」
アリス以外の三人はソファーの上で飛び跳ねて喜んだ。
叱られてしゅんとするまでが秒速だったが。
ちなみにアリスは何も言わなかったが、うつ伏せになってブツブツ言い始めたので無視した。
工房に入るとひんやりとした空気に背筋が震えた。
作業机の前に座って手紙の封を切る。
表の文字からして明らかに師匠の字だ。
封筒の中身は便箋が一枚。それ以外には何も入っていなかった。
「ハロルドへ。
あなたの愛してやまないアンジェラよ。
タッカ市と王都は遠く離れていても、心配しないで大丈夫。
わたしはハロルド一筋だから、浮気なんてしていないわよ」
なんちゅう出だしだ。
そもそもいつ恋仲になったんだよ。師匠は師匠だよ。愛情はあるけど師弟愛だよ!
はあ。最初から気が抜ける文面だ。
「心配しているかもしれないけれど、わたしは元気よ。
ハロルドという手のかかる子がいなくなって毎日のびのび過ごしているわ。
具体的に言うと、毎日お風呂に入らなくても誰も文句言わないし、
適当に洗濯をして干して、ぐちゃぐちゃにタンスに詰めても誰も怒らないわ。
いくらでも研究に時間を割けるし、時間になったらベッドに追いやられることもない。
ハロルドがいなくなって本当に毎日が楽しいわね。
でも、唯一残念なのはハロルドの淹れたお茶に特製のお菓子、それからお手製の料理が食べられないことね。
心配性のハロルドのことだから色々と気を揉んでいるんでしょうけれど、大丈夫。
あなたにもらったスカーフだけは毎日首に巻いているから、しわくちゃにはなっていないわよ。
ただ、最近ちょっと汗のにおいがきつくなってきたわね。
でも、出会ったときのあなたのにおいに比べたら平気よ」
案の定じゃないか。
俺がいなくなった途端に生活が破綻してやがる。
というか、手がかかるのは俺じゃなくてあんただ!
まあいい。それは覚悟していた。
それにしても汗でくさくなるって、どんだけスカーフつけっぱなしなんだろう。
「ハロルド。
いいかげん、恋人はできた?
友達はできたかしら。
あなた友達いなかったものね。
師匠として心配だったのよ。
王都で家族ができたみたいでわたしはとっても嬉しいわ。
本当によかった。
そういえば、あなたが冒険者ギルドのエミリーを好きだったこと、
実はかなり前から知っていたのよ。
知らないでしょうけれど、あなた寝言が多いのよ。
どんな夢を見ていたのかは知らないけれど、あなた『エミリー、ちゅっちゅっ! だいしゅきぃー』って毎晩言っていたわよ。
ちなみに冗談よ」
余計な冗談を入れるな!
そんな夢見た覚えないわ!
「本当はわたしがどれだけハロルドを愛しているかについて素晴らしい証明を発見したのだけれど、余白がないから以上よ」
終わりかよ!
というか、どんな締めくくり方だよ!
どこの数学者だよ!
紙が足りないなら買えよ!
余計なこと書いてるから足りないんだ!
「……はあ。なんかどっと疲れたな」
手紙を出したのはどこだろう。
タッカ市で出したのだろうか。
今日届いたということは十日以上前に出したってことだ。
この国にはまだ郵便局みたいな機関がないから、王都に行く商人に金を払って届けてもらったのだろう。
だとすると、商人は各宿場で商売をすることもあるから、倍はかかっていそうだ。
二十日以上前だとすると、俺が送った手紙が到着して程なくして返事を書いたということになる。
その頃はまだ帝国との戦争が始まっていない。
帝国からの宣戦布告まで数日の猶予があったはずだ。
おそらく到着から返信までに一週間から十日ほどの時間があったとみていいだろう。
師匠のことだからろくに郵便受けをチェックしてなかったんじゃないか。
一丁前に郵便受けを柱に取り付けているくせに、週に一度もチェックしないのは知っている。
なにせ俺が毎日チェックしていたぐらいだ。
確実にずぼらな師匠が見ているわけがない。
もし仮に俺の手紙を心待ちにして毎日チェックしていたとしよう。
だとすれば、師匠の性格からしてこんなにもいつも通りなことがあり得るだろうか。
その場合、師匠からの手紙は俺への罵詈雑言で溢れているはずだ。
というか、たぶん「待っていたのに手紙を書いてくれないなんて王都の女がそんなによかったの!? この浮気者!」ぐらい書いてくると思う。
師匠だもの。間違いない。
ということは、だ。
完全な推測だが、師匠は手紙を出すギリギリまで郵便受けをチェックしていない。確認して読んですぐに返事を書いた。
だが、それがもし俺の都合の良い憶測で、師匠に事情があって返信が遅れたのだとすると……やはり戦争に参加するための準備をしていたから、としか思えない。あるいはタッカ市が早々に陥落することを見越して財産整理をしていたか。
いずれにせよ、杞憂で終わってくれるならそれでいい。どの推測も、あくまでも推測なのだから。
だが、そうだな。
一応俺が手紙を出してから二ヶ月は経っていないとはいえ、ギリギリだ。
まるで図ったように二ヶ月ちょうどの前日に来るなんて、こんな偶然が許されるのだろうか。
いや、師匠のことだからあり得るな。
「……とりあえず、メシの準備するか」
手紙を封筒にしまって、気づく。
また取り出し、便箋の裏面を見た。
そこには確かに小さな文字で書かれていた。
――さようなら、あなたはわたしの誇りよ。アンジェラ。
思わず立ち上がってしまい、椅子ががたんと倒れた。
頭の中が真っ白になった。
確かに師匠は稀に真面目なことを言う。
けれど、けれど、こんな風に最後を締めるようなことは絶対にしない。
いつだって真面目に振る舞ったあとには冗談で終わらせたり、素っ頓狂なことを言ったりして、なかったかのようにするのに!
二度と帰るな、とも言われた。
けれど、あれは師匠なりの冗談だと思っていたし、事実そうだと思う。
けれど、師匠は「さようなら」なんて言わなかった。
俺に子どもができたら抱っこさせてと言っていたんだ。
それを「さようなら」だなんて……言うはずがない!
「――ハロルド?」
居間に通じる扉からアリスの声が聞こえた。
「どうかしたか? なぜそんなに魔力を乱している」
「……そうか」
知らないうちに魔力が乱れていたのか。
アリスはそういう察知が得意なようだ。自分でもそんなに漏らした覚えがない。
「三兄弟も怯えている。少し落ち着いてほしい」
「そんなにか……」
どうやら覚えがないのではなく、取り乱していたから気づいてなかったようだ。
悪いことをした。
ようやく冷静さが戻ってくる。
深呼吸をひとつして扉を開けると、アリスが不安げな顔をして立っていた。
「……アリスもそんな顔をするんだな」
「さすがにわたしでもハロルドの魔力の揺らぎは不安にもなる。魔力量が倍以上違うから」
だが、と彼女は続けた。
「ハロルドの顔もひどい。そんな顔をしないでほしい」
顔をぺたぺたと触ってみる。
そんなに顔に出ているのだろうか。
「心配かけたみたいだな。でも俺はだい――」
「ハロルド」
固まってしまった。
アリスが俺に抱きついたから。
そんなこと、アリスは絶対にしないと思っていたのに。
「ハロルド、わたしはどうすればいい? どうすればハロルドが元に戻る? そんなに怖い顔をしないでほしい。不安そうにしないでほしい。わたしは……わたしはハロルドの笑った顔が、好き。とても、安心する」
「アリス……」
やっぱりアリスは人形なんかじゃなかった。
こんなにも温かくて、こんなにも優しくて、こんなに……。
「お、おい、アリス姉がついにいったぞ!」
「どうなっちまうんだ!」
「……ぶっちゅーしちゃえー」
ばっちり聞こえてるし、がっつり見えてるからな、三兄弟め。
けれど、自分でもおかしくなって笑ってしまった。
「……ぷっ! はっ、ははっ、はははははっ! ったく、おまえらってほんと! あー、もう! お前らすげえな!」
急に笑い出した俺を三兄弟は不思議そうに首を傾げながら見ていて、アリスは少し嬉しそうに微笑んでいた。
大丈夫。俺には〝家族〟がいる。
こいつらがいれば、なんでもできる。なんでも乗り越えられる。
もちろん、その中には師匠もいる。
きっと許してくれると思う。
だって、俺の幸せの中には、師匠の笑顔も入っているんだから。




