251◇一合
時間の流れが緩やかになる。無論錯覚だ。同時に現実でもある。
思考が高速化するあまり実時間とのズレが生じているように感じられるのだ。
一秒に十秒分の思考が可能になった場合、体感で十秒が経過した頃にようやく実時間が一秒進むという状態になる。結果、時間が引き伸ばされたような感覚に陥るのだ。
迫る聖剣が遅い。
まだ視えない。
どれだけ目を凝らしても――いや。
重大な勘違いに気づく。
綻びを視るとはいっても、視覚だけで捉えているとは限らない。
ヤクモがヤマトであることや彼の戦い方を見るに、あの能力は暗闇の中で手に入れたもの。
闇夜において両の瞳は頼りになるとは言い難い。彼は聴覚や魔力感知など使えるものを総動員して対象の全体像を掴み、そこから綻びを捉えた筈だ。
武器なら?
魔力以外による構造物にも同様に綻びは存在するが、魔力感知が使えないならどうする。
考える。頭を回転させ、思考を加速し、可能性を模索する。
それが在ると分かっても、自分の認識に合わせて呑み込めるとは限らない。魔法を使えぬ人間に魔法を使う感覚は分からない。闇夜しか知らない人類に青空の美しさは伝わらない。
理屈の上では分かっても、綻びを視る技術の真髄に至ることは容易くない。
遠峰夜雲という剣士の半生、その極地を模倣しようとすること自体が無謀。鍛錬の末に技を盗むならばまだしも、その成果のみを瞬間的に盗用しようというのだから、ある意味で冒涜とさえ言えるかもしれない。
それでも。
必要なのだ。
――引き出させてもらう。
目の奥が灼けるように熱くなったところで、何かが瞬いた。閃光のような煌めきがもたらしたのは、解答。
《偽紅鏡》も人間だ。そして彼ら彼女らの精神状態は武器性能に直結する。それは何も、大きな感情の揺らぎに留まらない。戦闘中も《偽紅鏡》の思考は途切れない。《導燈者》と意思疎通が可能。精神が活動中ということ。
常に、完全に、安定している人間などいない。
呼吸一回の間だけでも、『揺らぎ』はあるものだ。人の精神を線に描こうとすれば波打つだろう。
どれだけ微細であっても、変化は常にある。
ならばその波を読み、最も隙きの大きいその瞬間を狙えば。
武器に刃を通すことが、叶うのではないか。
視覚を中心に物事を捉えるのをやめる。
アークトゥルスを通して、聖剣の精神を読もうと試みる。
気配という語は、錯覚あるいは第六感に類する感覚と捉えられがちだ。もしくは比喩か。
だが、正確には違う。元々は五感を通して明確に感じ取られた情報・対象の言行を観察することによって受けた印象・推察される過去の痕跡などを含んだ。
そういった意味が失われたのは、実感の問題だろう。
大半の人間は、たとえば視界の外に人の気配を感じた時、吐かれた言葉の真偽を看破出来た時、その理由を明確に説明出来ない。
無意識が拾い上げた情報が時に、漠然とした不安として意識を刺激することや、瞬間的に答えを出すことがある。
それが、実感のある者なら?
空気の揺らぎ程度の違和感さえも『貴重な情報』として扱うような人間ならば?
気配は、失われた意味で用いられる。
アークトゥルスの反応は素早かった。ゆっくりとこちらを向く顔には、焦りを思わせる表情が浮かんでいる。傷を負わないのであれば、泰然と構えていてもいいだろうに。
アカツキの追撃に焦っているわけではないだろう。性質がアカツキ側にあらかじめ知られていたこと、それをヤクモ達他都市の人間や、地上で生きている騎士達に見られたのがショックなのか。見る者が見れば『治癒』でないことは明らか。中途半端に目の良い者の場合、魔人の再生能力と錯覚するかもしれない。そうでなくとも、人間に許された奇跡ではない。
奇異の視線は避けられない。
これ以上ボロを出さないようにか、無傷の保証にも限度があるのか、彼女はアカツキに聖剣を振るおうとしている。細腕に似合わず剣筋は確かで、剣の重量に引っ張られる様子はない。『加護』にあぐらをかいた愚物でないのはこれまでの動きからも確かだが、肉体の限界には抗えない。
聖剣の中身は。湖の乙女、その精神はどうなっているだろうか。
適格者の状態に何を思うか。
アークトゥルスの表情が。
ほんの僅かに。
一瞬を更に幾つにも分割したその一つでしか表れなかったが、確かに変化が見られた。
僅かに険がとれる。《導燈者》にこういった変化が表れるのは、経験上パートナーとの関係が良好な場合のみだ。
つまり、声を掛けられたのだ。
アカツキも経験がある。比べたことはないが、ミミは騒がしい方だと思う。ヤクモの表情が引き締まる時は、おそらくパートナーの一声があるのではないか。
とにかく、湖の乙女はアークトゥルスに声を掛けた。
意識がアークトゥルスに向いたということだ。
であれば、自身は疎かになっている筈だ。
視る。掴む。いや、捉える。
遠峰夜雲が辿りついた武の深奥を完全に模倣することは困難と判断。
アカツキは自分なりのアプローチで、結果を再現出来ないかと試行。
互いの剣が接触しようという、その時。
――そこか。
未知の感覚を、掴む。
それは一瞬後、時の流れが戻ると同時に失われてしまった。
意識的な潜水は元来人間に備わった機能ではない。アカツキは意思の力だけで己に『此処が火事場だ』と強く思わせた。自分自身を謀ることで集中力を瞬間的に高めたわけだが、ズルは長く保たないらしい。
集中力の持続時間は、僅か一合の間のみ。
無理が祟ったのか、頭蓋が割れるような痛みに襲われる。
それでも、結果は出た。
「――――」
聖剣が半ばから斜めに断たれ、分かたれた剣身が落下を開始。
その途中で人間状態に――戻らない。
『はぁっ!?』
ミミの驚く声。
だがアカツキは驚かない。可能性はあった。
《騎士王》と、この都市において円卓と称される上位騎士の更に一部が扱う武器は、《偽紅鏡》ではない。
伝説の武器の名を冠するそれらは、そもそもが接続者の子孫ではないのだ。
違う存在だから、形を似せても常識が通じない。
彼ら彼女らはあくまで、当世の人類に合わせて在り方に融通を利かせるだけ。
《准神装》と、アカツキの主は呼称していた。
武器破壊されても、壊れた状態のまま存在を維持出来るという特性も違いの一つ。
ただ、それでも。
壊れていることには変わりない。損なわれていることには違いない。分かたれた現実からは逃れられず。欠けた事実はそこに在る。
「さすがの加護も、緩むんじゃないか」
幼いアークトゥルスの肉体下腹部やや右、魔力炉を剣で貫く。
『吸収』を発動。
膨大な魔力が、剣身に吸い込まれていくのが分かる。
違和感。
アカツキの策は、これ以上なくうまく嵌った。
だというのに、何故か悪寒がしたのだ。
「捉えたぞ」
――あぁ、なるほど。
魔力に刃を突き立てられ、その負傷を無かったことに出来ずにいるというのに。
アークトゥルスが、笑っていたからだ。
その笑みの理由も、すぐに判明する。
小さな手のひらで、力いっぱいにアカツキの左肩を掴んでいる。
己の中にある途方もない魔力を、調整もせずに暴発させようというのだ。
だがこれでは、彼女自身も無事では済まないだろう。
「これならば、逃げられまい?」
血の気の引いた顔で、それでも小さな王様は勝ち気に笑った。
魔力が――。




