出発
エルトピア共和国はユーグラッド大陸の北に国土を持つ商業国家だ。
国民投票によって選ばれた12人の評議員を中心に政治体制が敷かれ、ユーグラッド大陸では唯一の民主主義の国家である。
産業は主に酪農や農業が中心となっているが、都心部では魔道具の開発や販売も盛んに行われている。
また、地理的にも他大陸との玄関口のような側面もあり、貿易で他大陸の珍しい品が流通し、観光にも力が入っていて様々な種族や職業の人がやってくる。
『物探しも人探しもエルトピアの首都に行けば何でも見つかる』と言われているのは伊達ではない。
「と、パンフレットに書いてあることを簡単に要約するとこんな感じですね」
リュックサックタイプの収納バッグを背負ったエリルが、エルトピアについて書かれた小さな折りたたみ式の観光パンフレットを閉じる。
6人乗りのレンタル馬車に揺られながら、レクス達はリレットスノアの街の南門を目指していた。
「エルトピアに向かうのは構いませんが、2週間以上も出掛けることになってしまいますね」
エリルと一緒にパンフレットを見ていたリーシアが少し困ったように眉根を寄せる。
レクス達が向かうことになったエルトピアの首都は、大陸のほぼ中央に位置するグラヴィアス王国の王都より北に馬車で5日ほど。リレットスノア学園はグラヴィアス王国の王都より馬車で南に3日ほどの距離に位置している。
片道だけでも8日、往復だと16日である。さらにエルトピアについてから数日は滞在することを考えれば、とても7日の休みでは足りない。
「それについては秘策があるから問題ないわよ。そのためにわざわざ南門に向かっているんだし」
レクス達の向かい座席にミリスと老執事――名前はエドウィンと言うらしい――に挟まれるようにして座っているシェルミーが妙に自身たっぷりに胸を張った。
レクス達が荷造りをしている間に余所行き用のドレスから着替えたシェルミーは、タンクトップに大きめのショートパンツ、日が落ちて少し肌寒いのでその上からカーディガンを羽織るというかなりラフな格好になっている。おかげでシェルミーが胸を張るとエリルほどではないが歳相応以上に育っている膨らみが強調されてとても眼福だ。
「そうですか。それなら良いですが」
「というかアリシアとエリルは別に着いて来なくても良いのよ?」
「いえ、元々はレクスさんと旅行に行くつもりで準備をしていましたので何も問題ありません。行き先も決めかねていたところですし」
「ふーん。なら好きにすれば良いわ。アタシは別に縁談を断るときにレイクスを貸してくれればいいだけだし」
互いの利害が一致したからか、リーシアとシェルミーの不穏な空気は解消されていた。しかし、人を物扱いしないで欲しいところではある。
「さっきから言おうと思ってたんだけど、俺達だけのときは良いけど人前でレイクスって呼ばないでね」
「そういえば、なんでわざわざ偽名なんて使ってるのよ?」
「なんでって身分や正体を隠すためにだけど」
「なにそれ正義の味方みたいで格好良い!」
「ああっ、わかります! 仮面で顔を隠した正義の味方とか格好良いですよね!」
なぜかシェルミーが目を輝かせ、ついでにエリルまで同調していた。どちらも中身が子供なので感性が似ているのだろうか。
「レイクス……じゃなくて、レクスとリーシアだけズルイ! アタシも今から外では偽名を使うことにするわ!」
「あっ、うん。じゃあなんて呼べば良いの?」
「ちょっと待って。今、凄いのを考えるから」
凄い偽名ってなんだろう。口にするのも憚られるような単語なのだろうか。
「あのっ、レクスさん。私も偽名が欲しいんですけど」
「エリルは必要ないよね?」
「ガーン……!」
エリルがわざわざ擬音を口に出してショックを受けていた。
「シェリー……、ルーミ、シェミ……。う~ん、ルミルミ……ミルミー、ミル……、ミルシェ! 良いわね、ミルシェ! これにしましょう! 今からアタシのことはミルシェって呼んで頂戴!」
シェルミー改めミルシェが嬉しそうにミルシェと連呼し、その様子をエリルが心底羨ましそうに見つめている。そこまで偽名が欲しいのなら誕生日にでもプレゼントしてあげよう。
「エリルさん、そんなに偽名が欲しいのですか?」
「うぐぐ、だってレクスさんもリーシアさんも偽名なのに、私だけ渾名なのは少し仲間外れみたいな感じがして……」
「エリルさんを仲間外れにしたつもりはありませんでしたが……。そうですね、そこまで偽名が欲しいのでしたら誕生日にでもプレゼントしますね」
「誕生日プレゼントに偽名はさすがにいらないですよ!?」
同じ発想をしたリーシアをエリルが拒絶していた。危ない、プレゼントが被るところだった。
「皆様、着いたようでございます」
老執事の言葉と同時に馬車が止まった。どうやら街の南門に着いたらしい。
馬車を降りるとミルシェを先頭に街の外へと歩いて行く。前々から荷造りをしていたとはいえ、準備にそれなりの時間がかかったので街にはすっかり夜の帳が下りていた。
本来なら明日の朝から出発する予定だったのだが、エルトピアはさすがに遠いのでその日の内に出発することになったので仕方ない。
「エルトピアまでこれに乗って移動するわ」
「これは……、魔動車か」
街を囲む大きな塀沿いにしばらく進むと、これまた大きな魔動車が1台停めてあった。
魔動車は馬の代わりに魔力で走る魔道具だ。馬車の数倍の速度が出る上に、魔力さえ供給できれば疲れ知らずで走り続けることができるので長距離の移動にはかなりの便利な魔道具である。
最近、富裕層の間に普及しつつある代物だが、速度が出すぎる故に街中などでの使用は禁止されている。
「私、魔動車に乗るのって初めてです」
「わたくしは何度か乗ったことがありますけど、ここまで大きな魔動車は見るのも初めてですね」
「凄いでしょ。何せこれはアタシの国で最近開発されたばかりの最新式の魔動車なんだから。中は二階建てになってて馬車とは比べ物にならないぐらい快適なのよ」
ミルシェが得意満面の笑みを浮かべたところで魔動車のドアが開き、中から1人の女性が出てきた。
「お嬢様、お戻りになられましたか」
「ただいま、エイダ。ちゃんとレイクスを連れてきたわよ。今はレクスだけど」
エイダと呼ばれた女性は20代半ばほどの羊型獣人族のようだ。頭に特徴的な巻き角が生え、髪の毛がくせ毛でフワフワとしている。
ただし服装はピッチリとしたスーツに身を包み、少し屈んだだけで魅惑のデルタ地帯が見えてしまいそうなほど短いタイトスカートから覗く太股が眩しい。
「お嬢様、『今はレクス』というのは……?」
「正体を隠すための偽名よ! 格好良いからアタシも外だとミルシェって名乗ることにしたわ」
「なるほど、大体わかりました」
その説明でわかるのか。むしろ慣れてるのだろうか。
「初めまして。シェルミー様の家庭教師をしております、エイダと申します。よろしくお願いします」
「どうも、レイクスです。ですが外ではレクスと名乗ってます。こちらこそよろしくお願いします」
差し出された右手を握り返して握手を交わす。女性らしい手ではあるが、それなりに鍛えられているようだ。さすがは王女の家庭教師といったところか。
「エイダは凄いのよ。何せ、アタシの家庭教師が1ヶ月も続いてるんだから!」
「なにそれ凄い」
もちろんエイダが凄いと感心したのではなく、家庭教師が1ヶ月も続いてると自慢げにしているミルシェに感心してである。
レクスと同じようにエリル、リーシア、ミリスの3人とエイダが挨拶を交わすと、魔動車に乗り込んだ。
1階は小さなリビングのようになっていて、簡易ではあるが台所やトイレまで付いていた。運転席と助手席には2人の騎士が座っていて、この2人が交代で運転をしてくれるらしい。
レクスが1階の隅っこにボストンバックタイプの収納バッグを置くと、エリルとミリスもその横に並べるようにそれぞれの荷物を置く。
「うわぁ、凄いです! 2階の天井部分が窓になっていてお空が見えますよ!」
「しかも座席ではなくベッドになっていて寝転びながら見上げれるようになっているのですね。これはロマンチックです」
早速2階部分を見に行ったエリルとリーシアが大興奮してはしゃいでいた。
「でも魔動車を使っても、ここからエルトピアまで行くとなったら片道で4日か5日はかかるんじゃ?」
「ちゃんと抜かりはないってば。え~っと、まずは……。エイダ、どこに向かうんだっけ?」
「まずはここから南に向かいベルネア領に入った所で東へ向かいます。3時間も走れば魔導転移門がありますので、そこからエルトピア領へと転移します。当然ながらゲートの使用許可は得ていますのでご安心ください」
魔導転移門は2つの場所を繋げる超大型の転移魔方陣が描かれた施設である。使用にはその魔導転移門を管理している国双方の許可が必要であり、普段は腐りやすい食料品などの運搬に利用されている。
「エルトピア領に入りまして2時間ほど走ればシーブレックの街に着きますので本日はそこでお休みいただき、明日の朝からエルトピア共和国の首都レムセレスを目指せば昼前には到着するでしょう」
車内に設置されていたテーブルの上に地図を広げ、エイダが一息に説明してくれた。さすが家庭教師というだけあって説明はわかりやすかったが、一気に説明したのでミルシェの頭にはハテナマークが浮かんでいた。
「なるほど。フェイザック卿との面会の予約は?」
「明日の午後2時からですので着替えなども十分に間に合うと思います」
「ほんとに抜かりがないようで安心しました……」
エイダは本当に優秀なようだ。ぜひとも後で個人授業をしていただきたいぐらいである。科目はもちろん保健体育で。
「レクスさんには後でわたくしから特別な授業をいたしますね?」
「すみません、なんでもありません!」
またリーシアに考えていることが読まれてしまった。そんなにわかりやすい顔をしているのだろうか。
「それじゃ話も纏まったみたいだし。いざ、エルトピアを目指して出発よ!」
ミルシェの威勢の良い掛け声と共に、レクス達を乗せた魔動車は走り出した。