髭期
ある朝、鏡を見るとあごに髭が生えていた。
最初は見間違いだろうと思い、寝ぼけた眼をなるべく開き、もう一度鏡を見た。生えていた。
ははあ。私は思う。これは、夢か。なにしろ私のあごに立派な髭が生えているのだ。リンカーン大統領みたいに。私は社会の教科書の、あの顔を思い出す。威厳に満ちた、あの外国のおじさんを。夢の出口というのがどこにあるか分かればいいのだけれど、私には見当もつかないので、とりあえずいつもの手順通り蛇口を捻ってみる。じゃあと水が出る。リアルな水感。触ってみる。鉄のように冷たい。指先が火傷したみたいに、火照って痛い。おかげでなんだか目が覚めてきたような気がするけれど、夢でそういうことってあるんだろうか。手の中にきんきんの水を溜めて、顔にバシャっとかける。冷たい冷たい。いつもの朝みたいだ。もう一度鏡を見る。顔を伝う水滴が、ふさふさの髭に集まって、ぽたぽたと垂れた。私はおかしくって、もう一度顔に水をかけ、ぽたぽたを味わう。水の重量を髭で感じる朝。あはは。タオルで拭う。
そろそろいいんじゃないでしょうか。私はよく知らないけれど夢を司る脳の部分があるとすれば、そこに向かって話しかける。そろそろ覚めてもいいんじゃないでしょうか、と。そうしながらリビングに行く。
リビングにはお父さんと、朝食が並んでいる。いつもの朝を上手く再現している。お父さんの質感、つまりおじさんの枯れた肌の質感なんかも実にリアルだ。
「は」
お父さんが言った。引きつった表情だった。そうそう、お父さんは驚いたときこういう表情するよね。脳は細かく覚えているもんだな。
「お前なんだ、その、髭」
お父さんが箸をベーコンエッグの目玉焼き部分に突き刺しながら言った。目玉焼きの中央から、とろりとオレンジ色の黄身が白いお皿の上に流れ出す。
「髭、生えてきて」私はやや得意げに言いながらも、少し不安になってきた。夢がなかなか覚めない、もしくはなにか別の場面、例えば急に煙突の上に立っているとかそういう場面転換が無い。
「いずみの分もできたわよ」
背後からの声はお母さんだ。フライパンから、じゅうじゅう言う目玉焼きを、お皿に滑らせる。それから私の顔を見た。まじまじと見つめ、笑顔で訊いた。
「おはよういずみ。なに、その髭」
「夢じゃない」私は思ったことを呟いた。ここに至って私はどうもこれはおかしいと気づいた。何しろ、私の目はもう覚めていた。五感がはっきりと働いている。現実というものがどれくらい強度の高いものかは分からないけれど、今いるここはどうも現実らしいとすべての感覚が告げている。
「やばい、髭生えてる!」
私は悲鳴のようにそう言って、もう一度洗面所に走る。鏡には相変わらずもっさもさの黒々した髭が存在感たっぷりに生えていた。え、これ、本当?夢じゃないのマジで。だって、昨日まで普通につるつるだったあごじゃないか。なんで。
私は鏡の前で混乱の限りを尽くした。それからリビングに戻った。二人の視線を感じながら、椅子に座る。
「……生えてる?」
二人が頷く。よし、分かった。分からないけど分かったことには、私は髭が生えている。
「お父さんの髭剃り貸して」
私は言った。「あとシェービングクリームも」。
髭剃りは案外と難しかった。お父さんのは6枚刃だから大丈夫だ、という謎の声援を受けながら私はクリームを泡立て、T字髭剃りの刃を大胆に入れた。ざりっと音がしてみりみりみりと髭が薙ぎ倒されていく。我が家恒例の、真夏の庭の草刈りを思わせる。クリームの海がモーゼのように割れて、その部分だけいつもの私の肌が戻ってきた。それを繰り返す。洗面所の流しには泡にまみれた黒い毛たちが溜まっていく。
すべて剃り終わった。けれど、黒い根っこの部分が角度によっては、それは主に斜め下から見たときに、気になった。でももう仕方ない。出勤時間が迫っていた。私は化粧ポーチを取りに寝室へ走った。
結局マスクをして出勤することにした。幸い季節は2月、皆何かの宗派のようにマスクをしている人の波のおかげで、街を歩いていても電車に乗っていても目立つことはなかった。というのは表向きであって、内心誰かが怪しんでいはしないかと、どきどきしながら辺りを見回してしまうのだった。
「あれイズミン風邪?」と声を掛けてきたのは総務課の同僚、マリモンだ。口元に黒子があるからマリリンモンローにちなんでそう呼ばれている。本名は田中直子だ。
「いやいや、予防」
「へー珍しいね、だってマスク意味ない派じゃん」
私はその時、日頃から言動には気を付けようと思った。特に派閥に属するような発言は軽はずみに言うべきではないと。宗旨替えだよあはは、とか言って適当に乗り切った。
昼休み、いつもの三人で集まってデスクで昼食を摂った。マスクをどうすべきか一瞬悩んだ。結局下にずらして食べることにした。
「マスク取っちゃえば?」今日のマリモンは余計なことしか言わない。いや普段から余計なことの合間に仕事してるようなもんだから同じといえば同じだけれどこっちのコンディションがなんせこうなので。
うん、大丈夫、と自分でもよく分からない返事をしてお母さんの作ったお弁当を食べる。可愛らしい二段の弁当を、今日は一秒でも早く平らげたい。
「メチコ、今日アイライン濃くない?」マリモンがメチコに訊く。メチコは蒲田未知という。
「え、わかります?」メチコが悪戯が見つかった子供のような振り付けで、言う。こういう女の子っぽい仕草がメチコは得意で、男受けよく、女受けしないのだけれど、よくよく付き合ってみれば可愛い後輩だ。
「今日合コンなんです」笑いながらメチコは言う。
「えー出た、先輩誘わないパターン」
「だってマリモンさん来たら男の子皆取られちゃうじゃないですか」
メチコはマリモンより明らかに可愛いし、マリモンもそれを分かっている。そしてそれを分かった上で、言ってもぎりぎり許されるラインをメチコは分かっている。
「メチコ、後で課長の靴下匂い嗅ぎの刑」
「ねぇ、髭ってどう思う?」私は会話に割り込んだ。もうちょっと上手くやれないものかと自分でも呪うタイミングだったがやりきるしか無い。
「髭って、あの髭?」マリモンが少しの間の後、言う。
「うんそうその髭。どう思う?」
「え、なにそれ、心理テスト?」マリモンが興味深そうに身を乗り出す。
「私、髭系男子好きです」メチコが言った。
「男子。うん、そう、男子だよね」私は複雑な心境で相槌を打つ。
「じゃあもし、明日あご髭が生えてきたとします」
「やっぱ心理テスト?」マリモンは心理テストが好きだ。
「心理テスト。さぁどうする?」
「はい質問」とマリモン。
「それって剃ってもまた生えてくる普通の髭ってこと?」
私はさっきトイレでこっそり確認した。朝よりも伸びていた。確実に。
「そう普通の髭」
「私死にます」メチコが笑顔で言った。私は引きつった笑いを浮かべる。
「死にはしないけど」マリモンが言った。
「女としては終わったと思うかな」そう言ってカツサンドを豪快に頬張った。
女として終わった私は、定時で脱兎のごとく職場を去り、病院へ向かった。何かがいいのか悩んだが、結局婦人科に行くことにした。自宅の最寄り駅近くの婦人科がまだ開いていた。
「あごに髭が生えてきまして」と言って、私は先生に向かってマスクを取ってみせる。「髭?」そう言いながら先生は私のあごを触る。
「本当だ、チクチクするね」先生は40代後半と思しき女医さんで、無駄に色気があると私は以前生理不順で来たときも、今日も思った。
「急になんです先生。これって何の病気ですか」
先生は腕を組んで、考える仕草をした。
「ホルモンバランスの乱れね、最近多いのよ、ほらストレス社会じゃない」
「乱れで。一晩で?」
先生は私の質問はろくに聞いておらず既にカルテを書き始めていた。そしてバランスを整える薬を処方しとくわね、とムンムンな声で言った。それだけで診察は終わってしまった。
「ホルモンバランス、ホルモンバランス……」
夜、私は自分に言い聞かせるように、天井を見上げながら呪文のように同じ言葉を繰り返していた。
「ストレス社会、ストレス社会・・・・・・」
それも言い聞かせておいた。私のストレス。課長の足が臭いこと。マリモンの豪快なくしゃみ。メチコのとりとめのない恋話。恋人のマナオがもうお互い30近いのに結婚してくれないこと。ストレス源を考えている内に、私は眠りに落ちていた。
朝、鏡を見ると髭が生えていた。
あご髭、そして、鼻の下、つまり口髭。それは三日月型の、立派な口髭だった。森鴎外みたいだ、と私は国語の教科書の、あの険しい顔のおじさんを思い出す。あごのリンカーン、口の森鴎外。
「また生えてきた、のか」
食卓で納豆を箸でかき混ぜながら、父は恐る恐るという口調で訊いた。
「また生えてきた、のね」
母は笑いを堪えながら言った。私は無言で、とりあえず朝食を食べることにした。
だし巻き卵を食べる。味噌汁を飲む。このとき、味噌汁に髭が浸かった。私はティッシュで拭く。納豆をご飯にかけて食べ始める。これが口髭に付く付く。
「あーイライラする!」
私は感情を小学生みたいに口に出していた。何がストレス社会だ。今この口髭で納豆を食べることこそがストレス源であって、森鴎外はこんな邪魔な物つけて、どうやって納豆を食べていたんだろうと思うと、鴎外にもストレスだ。
髭を剃った。どんなに丁寧にやっても青く残ったけれど、メイクでなんとか誤魔化そうと、コンシーラーを髭跡に多めに塗る。なんとか消えた。でもマスクは外せない。
昼休み、私はトイレで口髭跡に改めてコンシーラーを塗って、怖々マスクを外す。マリモンとメチコの反応が気になる。
「昨日観ました?」メチコが訊いてくる。特に髭に言及する様子はない。
「『王子様は九時に現れる』でしょ?観た観た」私は笑って返す。本当はそんなドラマを観てる余裕なんてなかった。
「メイク変えた?」マリモンの言葉に私の動作が止まる。
「え、変えてないけど」口だけ動かして咄嗟にそう返事をして目を逸らす。
「嘘だよ絶対変えたよ・・・・・・口紅」
ああ。口紅なら確かに変えた。
「正解!」私は妙にはしゃいで言った。
「でしょ。だっていつもよりグロッシーだもん。あれだ、今日マチオ君に会うんだ」
正解。関係ないところでマリモンは鋭い。
「あ、そうなんですか。マチオさんてどんな人ですか?」メチコがオムライスを食べながら訊いてくる。
「とりあえず髭は生えてない」
「何昨日から髭髭って。取りつかれてんの?」
そうかもしれない。マリモンはやはり鋭い。
「髭ってなに」
マチオのアパートで、私正直に打ち明けた。マチオのつるつるの顔が疑問符で埋まる。
「触ってみ」
私は言って、あごを出す。マチオが触って、うわ、と声をあげる。
「チクチクする」
「うわって言わない」私は怒る。
「ホルモンバランスの乱れなのよ。ストレス社会の犠牲者なの」
私は受け売りの言葉で諭す。マチオは納得したようなしてないような表情で私の口髭跡を触り、うわ、と声をあげる。
「マチオは生えないの髭」
「オレのは産毛みたいなもんだなぁ。一応剃るけど」
「羨ましい。私の青々してる」
なんだこの逆転した会話はと思いながら話していると、もうすぐいずみ誕生日じゃん、とマチオは話を変えた。
「前行きたいって言ってたホテルのレストラン、予約取れたから」
「本当に。嬉しいな」
私の気持ちも切り替わった。このマチオという男、細かいことは気にしないタイプの男で、そこがいい。私はマチオに抱きついてキスをする。マチオが、チクチクする、と言いながら笑った。笑いながら頬にキスをする。私も笑う。まぁ薬も飲んでるし、そのうち治るだろう、という楽観的観測が私にはあった。私も細かいことは気にしないタイプなのだ。
認識を間違えていた。コトは全然細かい問題ではなかった。翌朝、頬にも毛が生えた。昨日マチオがキスしてくれた頬すら髭に覆われた。
毛むくじゃらの私を見て、さすがに父も母も驚きの表情を隠さなかった。
「漂流者みたいだな」父が言った。
「帰還兵みたい」と母が言う。
「うるさい」私は一言だけ言って食事を終えると、髭を全部剃った。近所のコンビニで、一番大きなマスクと髭剃りを買って出勤した。
さすがに人の目が気になった。というか、私はマスクをしている女性たちを眺めながら、このうちの何人かは、髭を隠しているんじゃないだろうかと疑った。皆澄ました顔をしながら、その実、じょりじょりと毎朝剃って出勤しているのではないだろうか。こうやって電車に乗ってる他人のことなんてひとつも分からなくて、自分と比較して相対的に推し量るしかないのだから。なんてもっともらしいことを言って、本当はただ私以外にも生えていやがれという希望的観測だ。
その日の昼休み、私は食事を抜いてトイレに籠もった。個室に入りお弁当を食べた。なんだかいじめられている子みたいだ。
マリモンが一日声を掛けたそうにしていたけれど、結局特に話し掛けては来なかった。
日に日に髭は濃くなっていく。なんか、腕毛も濃くなった気がする。私は毎朝お風呂で全身を剃るのが日課になった。電動髭剃りを買おうかどうか家電量販店のチラシを見ながら真剣に考えていた。
「オレは全然平気だよ」
ホテルのレストランでディナーのステーキを食べながら、マナオは言った。
「本当に?」私は訊く、だってぼうぼうだよ。
「だってそんなことでいずみの何かが変わるわけじゃないもん」
マナオ。私は思った。愛してる。
デザートまで堪能し、気分が盛り上がったところで、マナオが部屋のカードキーを出してきた。マナオ。愛し合おう。
スイートルームではなかったけれど充分に広いベッドで私たちはキスをした。そうして、興奮してきたマナオが私のワンピースを脱がす。
そこでマナオの動きが止まった。
「なんだこれは」
マナオが、無意識にという感じで声を出していた。私も瞑っていた目を開ける。
「なんだこれは」
私も呟いた。胸毛だ。二つの乳房の上、立派な胸毛が、胸毛がT字に生えている。ヒュージャックマンだ。こんなの、朝は生えていなかった。それからすね毛。もじゃもじゃのすね毛だ。もはや良い例えすら浮かばない。
「マナオ」私は名前を呼び、再び目を瞑って顔を近づける。
「いやムリムリムリ!」
マナオが叫んで飛び退いた。私は時間が止まったようだった。
「さすがにこれは!」
マナオは弁解する。私はそれを聞けば聞くほど涙が込み上げてきそうだった。転びそうになりながらワンピースを着直し、部屋を出た。マナオは追いかけてきてはくれなかった。
その日から私は引きこもりになり、会社を休んだ。心配したのか、マナオから何度も電話があったが、私は出ることができなかった。
ある日、部屋のドアをお母さんがノックした。
「会社の同僚の方が見えてるわよ」とドア越しに言われた。
「誰?」
「田中さんて方」マリモンだ。私は、なんだか無性にマリモンに会いたくなった。部屋まで案内してあげて、とお母さんに頼んだ。
「こんなことだろうと思ったわ」
マリモンは私の毛むくじゃらの、男性感丸出しな姿を見て言った。
「いや嘘、ここまでとは思ってなかったけど」訂正した。
私は今までの経緯とマナオとのことを話した。マリモンはうんうんと頷いて話を聞いてくれた。わざわざ会社を休んで来てくれて、こんな良い友達にどうしてもっと早く相談しなかったんだろうと私は悔やんだ。
「なるほどね。体毛か」
「体毛です」
「でもね、毛が濃くて悩んでる女性はたくさんいるよ。私も眉毛濃いのコンプレックスだったし」
「でもそういう次元じゃ」
「いやイズミンのはそれのちょっと凄い版だと思えばさ」
「でもリンカーンに森鴎外にヒュージャックマンなんだよ」
「それはちょっと分かんないけど。とにかく、引きこもってても良いこと無いよ。外に遊び行こう」
マリモンが強引に誘ってくれたおかげで、全身の毛を剃った私は外に出ることができた。どこに行きたいと訊かれ、私は家電量販店と答えた。電動髭剃りを買わせてください。
私は一番高い電動髭剃りを買った。これで安心だね。マリモンが言う。私も見たい物あったんだと言って、二人で洗濯機を見に行った。店員さんが近寄って来て、洗濯機お探しですかーと声を掛けてきて、マリモンがこういうタイプを探してて、と話し始めたので、私は適当に洗濯機を開けてみた。
中にびっしりと毛が生えていた。
私は蓋を閉じる。いやいや。まさか。もう一度蓋を開ける。ふっさふさだ。私はパニックになり、隣の冷蔵庫コーナーに走った。後ろからマリモンが声を掛けたが聞いていなかった。冷蔵庫を片っ端から開けていく。毛。毛。毛。毛。恐る恐る触ってみた。太くて硬い。これは髭だ。髭、髭、髭が生え。だ。店員さんとマリモンが寄ってきて、中を見る。
「なんだこれは」
店員さんとマリモンが口を揃えて言った。私は逃げ出していた。どこまでもどこまでも毛が追ってくる。私を、毛むくじゃらにする。
気が付くと公園にいた。座っているベンチの下にはぼうぼうに生えている。鉄棒にも、ジャングルジムにもシーソーにも生えていて子供たちの、なんだこれは、が聞こえてくる。
日が暮れてきた。子供たちは帰って行く。けれど私には行くところもない。どこへ行こうとも毛は追ってくる。いっそこのまま……。そう思った時、後ろから声が掛かった。
「いずみ……」
振り向いた。スーツ姿のマナオだった。私は無意識にマナオのアパート近くの公園に来ていたのだった。
マナオが私の肩に触れようとした。
「触らないで」私はそれを振り払った。
「私はもう以前の私じゃないの。マナオもこんな私は愛せないんでしょ?」
マナオが膝をついた。
「いずみごめん! オレ、大事なものを見失ってた。君はどれだけ毛に覆われていようと君でしかないのに。外見に惑わされて……オレもようやく君の気持ちが分かったんだ」
そう言って頭を下げた。マナオ。私も込み上げるものがあった。
「もういいから。部屋、入れてくれる?」
私が言うと、マナオは顔を上げ、泣き笑いの表情で頷いた。
部屋の玄関をマナオが開けた。ワンルームのアパートはぼうぼうだった。壁から台所からカーテンから窓から、髭が生えてきていた。オレンジの日射しが差し込んで、毛むくじゃらの部屋を照らしていた。
私は無性に腹が立って来て、こんなものこんなもの、と買ったばかりの電動髭剃りで毛に立ち向かった。じょりじょりじょり。マナオも、こんなもの、こんなものと言いながら力尽くで抜いていく。
二人の格闘は一時間以上続いただろうか。半分ほどの毛を抜いたところで、疲れて畳の上に座り込んだ。抜けた髭が私たちの傍らに落ちている。
肩で息をしながら、私たちは向き合った。そしてキスをした。それからきつくきつく抱きしめ合った。マナオの腕に男らしい力が込められ、私は彼の胸に顔を埋めた。
彼の胸に。マナオの、柔らかい胸に。ちょっと離れ、マナオの顔を見上げる。
「言っただろ、君の気持ちがようやく分かったって」
そう言って服を脱いだ。
推定Dカップの胸が現れた。フリルのついた、ブラジャーをしていた。
「オレ、胸が出てきた。日に日に大きくなってる」
「病院行った?」
「うん。そしたらホルモンバランスの乱れだって。ストレス社会だからな」
少しの間ぽかんとして、それから私は笑い出した。マナオもつられて笑った。もう一度私たちは抱き合う。あはは。ふふふ。あはは。ふふふ。
私たちは黒く染まった畳の上、いつまでも笑っていた。