ようこそ
笑い声や愛の言葉を砂糖とするならば、罵倒や怒号はきっと塩だ。
多すぎてもダメで、少なすぎてもダメ。
たまに冗談や嘘のエッセンスを織り交ぜて、飽きがこないように味を変えよう。
「こんにちは。今日は、どうされましたか」
くつくつくつ。ほのかに湯気が立つ小鍋の中身を、くるりとかき混ぜる。
そうして甘酸っぱい匂いを胸いっぱいに吸い込んでふわりと笑い、首をコトンとかたむけて、コトコさんは振り向いた。
コトコさんのちいさなお店は、入り組んだ森の少し開けた場所に建っている。クリーム色の円筒型の周りにツタがひたひたと這っていて、パッと見ただけでそれがお店だとすぐには分からない。それでもここには、毎日いろいろなお客さまがやってくる。
悩みを抱えた、お客さまだけが。
コトコさんはお気に入りの、丸いみかん色の椅子に座って、ふんふんといろいろな話を聞く。
「こんにちは。今日は、どうされましたか」
それがいつもお決まりの挨拶。そうやってお客さまの話を聞き、コトコさんは少し何かを考えたあとキッチンに行って、世界で一つの、その人のためだけの料理を作る。
「妻と、喧嘩しまして」
振り向いたその先にいたお客さまは、少し曲がった背を更にちいさく丸めて、悲しそうに呟いた。白髪だがふんわりとした柔らかな髪が、パラパラと顔にかかっていた。
「喧嘩してしまったのですか。それはお辛いですね」
皺の刻まれた優しげな顔が、くしゃりと歪む。
「僕が悪いんです。妻にあまり構ってやれなかったから」
「ふむ。構ってやれなかったから、ですか。なぜあまり構ってあげられなかったのでしょう」
コトリと首をかしげる。
「最近、近所に学生時代の友人が越してきたんです」
お客さまは、小さな目をしぱしぱさせて、ゆっくりと話し始めた。
―学生時代から仲の良かった友人でして。奥さんを亡くして、子どもも独り立ちして、今は家に一人で暮らしているんです。落ち着いたこの街で余生を送りたくて、越してきたんだとか。僕としては、そうですねえ、中学から一度も会えていなかった友人なので、ええ、そうなんです、だからいろいろな話もしたいし、一人でいるのは辛いんじゃないかと思って。連日その友人の家に泊まって語り明かしたり、ゴルフに行ったりしていたんです。
その間、妻にはずっと留守番してもらっていたので…。きっと妻には、はい。おっしゃる通りです。寂しい思いをさせてしまっていたのではないかと。今はただ申し訳ない気持ちで。友人と同じような気持ちにさせてしまっていたのだろうと思います。だから、謝りたくて。でも妻は、別の友人の家に行ってしまって、電話だけかかってきたんです。私も自由にさせてもらいます、と。ですので、お恥ずかしい話ですが会いにも行きづらくて。
え、それだけか、ですか。…そうですね、これからは、妻と友人と三人で出掛けるようにしようかな、と思います。そんな思いはもうさせたくないので。
話し終えると、お客さまは潤んだ目をごしごしとぬぐった。
「お客さまは、奥さまに謝りたいのですね」
「ええ、そうです」
「そして奥さまと仲直りをしたい」
「ええ、ええ」
繰り返し確認するコトコさんの言葉に、何度も何度も頷く。
コトコさんは口の中で繰り返しながら、カタリと立ち上がって、椅子の周りをゆっくりぐるぐる歩いた。謝る。仲直り。奥さま。友人。コトコさんの周りを言葉がくるくると舞う。
コトコさんはそのまま、後ろにあるキッチンへと足を向けた。
「どうぞ、こちらへいらしてください」
そこは、コトコさんの一番の仕事場で、一番のお気に入りの場所だった。
三つのちいさなコンロの上には両開きの吊り戸棚があり、その中にはまるで虹がかかっているかのようにカラフルな調味料がたくさん置かれていた。赤、緑、ピンク、白、青。一体何に使うのだろうと、お客さまはきょろきょろと首を動かして見ていた。コトコさんは先ほどまでかき混ぜていた小鍋の中身が冷めているのを確認したあと、それをコンロから移動させた。そうして小鍋の中身をスプーンの先っちょでほんの少しすくい、お客さまに差し出した。
「まずはこれをどうぞ」
差し出されたスプーンを受け取り、恐る恐る匂いを嗅いだあとで、お客さまはぱくりとそれを咥えた。甘酸っぱく、優しい味が舌の上に広がる。
「…美味しいです…。これは何の味でしょうか…。柑橘系ではあるけれど、何か少し違った味もする…」
「その通りです。みかんとお砂糖が入っています。少し甘酸っぱいでしょう」
「ええ、ええ、本当に。とても美味しいです、他には何が入っているんですか」
「それはですね、お客さま。突飛な話だと思われるかもしれませんが、“言葉”なのです。“気持ち”や“感情”と言ってもいいかもしれません。これには、絵描きをやってらっしゃる方が自分のお子さんに向けた言葉、感情が入っているんです」
「言葉や気持ち…ですか」
不思議そうな顔でお客さまは繰り返す。この味はそこから出ているのだろうか。
「そう。その通りです。怒り、悲しみ。喜び、感謝。数え始めるとキリがありませんね。こうした様々な感情を、言葉を、私は少しお裾分けしてもらって、料理をつくるのです。お客さまのためだけの料理を」
コトコさんはいつも通りそう話した。
「まあ、そうは言っても信じ難いでしょう。みなさん最初はそうなのです。実際に見てみたら分かってくるはずですよ」
「作るのですか。今から」
「そうです。今から」
コトコさんは歌うように繰り返す。
「それでは、もう一度だけ簡単に話していただけますか」
「同じ話でいいのですか」
「同じ話でないと駄目なのです」
―あなた自身の言葉、感情でないと。




