第三幕第一場:緋く染まる海の底で~at the midnight 1~
※1頁目です。この頁は大丈夫ですが、2・3頁目は流血表現が多いので苦手な方はお控えください。
――照り輝く灼熱の炎原に身を焦がしながらも、鍛えられた鋼の鱗をもって突き進む。
天空には無数の星がある。星は古来より神々の住む宮殿があるため、どんなに文明が発達しても、人々は雲海よりも高き場所へ行ってはならないという『摂理』がある。その中の一つである太陽は、世界を支える七柱の神々の中で、活力と希望を齎す《救神》ランポールが受け持ち、今も世界に光を齎し続けている。
特に人々の救済を多く施したランポールは、自らが地へ降り立つ事もあれば、己の手足たる存在を使わせた事もある。神々が世界に己の意思を伝える天の御使い――レガンとも天使とも称される彼らは天駆ける翼を持つ事を許され、今でも様々な形で天と地を往来している。世界はこの太陽の周りを回るため、ランポールは炎原にある己の宮殿から休む事無く、世界の隅々まで見守り続けているという。
この伝承は、ある逸話と共に語り継がれている――遠い昔、地に降り立っていたランポールが空を仰いだ時、己の宮殿(太陽)と世界の間に、双子の妹神が住まう月が重なる光景、日食を目撃した。光が遮られて怯える人々を宥める事もいつもの務めであったが、遮られた月の向こうで紅き炎が立ち昇った様子を見て、『太陽が月を焼きつくそうとしている』と勘違いをしてしまい、慌てて太陽へと戻ったという。
しかしその正体は、彼自身が最も見慣れていた紅炎であった。絶えず立ち昇り消えゆく存在のため、月の裏側に隠れた時にあたかも燃えているように錯覚してしまったのだ。安堵したランポールだが、己の勘違いに救済をも中断してしまった事を恥じて、右手で立ち昇った紅炎を掴んで、『もう二度とこのような過ちはしない』と誓ったという。
その時、紅炎を掴んで焼き爛れてしまった右手から、一匹の竜が生まれた。竜は彼の傷ついた右手に巻きつき、癒えるまでの間は籠手となって彼の務めを手伝った。その働きに感謝したランポールは、この竜を己の御使いにさせ、名を与えた。紅炎から生まれた鋼の竜――『レニムコープ』。人々からはその眩い姿から『未だ染まる事無き照る日の竜の使い』と謳われ、御子島の『陰陽道』という教えに置いては『初入紅炎竜使』という名がつけられ、そして――。
「……こんな時に懐かしむくらいなら、さっさと天に帰れ」
維新咲夜は呻きながら、背中を擦る。通気の良い服を着ていたせいで、潮風に当たってさらに痛みが増してくる。だがこんな時に手当てなぞ出来るはずもないので、結局痛みに耐えるしかない。
マデューテ連邦六十五都市の一つたるプラッター市は、南東のカヒア大陸の最南端に位置する。古くから漁業が盛んであるため、船の出入りが特に多い港の街でもある。かつてのように遠洋漁業は難しいが、魚自体は今でも食べられているので、邪魔な概念生命体を追い払いながらの養殖業が営まれている。
海は昔から、全ての命が生まれ出る所として、敬い、そして恐れられていた。天は神が住まい、地は人が統べる。それ故に新たな脅威はこの海から襲いかかると信じられていたからだ。しかし長年の不安は的中しなかった。確かに大災害後に現出した人類に敵対するもの、マーグロップは海から襲いかかったが、それは彼らの妄信がそのように彼らを象ってしまった結果である。マーグロップは俗に言えば、人々の妄想が具現化してしまったものなのだ。
そしてそれを自覚した今でも、長年の妄信を除去する事は敵わない。せめて人類の生存圏だけは守ろうと地に強固な障壁を作ったせいもあって、彼らは高山等の人里離れた秘境を除いて、大抵海から生まれるようになってしまった。
これに関して最も被害を受けるのは当然、漁業関係者である。彼らは未知なる生物と戦いながら生活する事を自然と義務づけられた。そのせいで島の者達の方が否応にも技術力を高めてしまった原因の一つになったものの、その様子は約四百年経った今でも変わらない。
際限なく現れる脅威……それはまるで海賊のようだと、ある者は言った。だが実際はこの海賊すらも存亡の危機に瀕していた。山賊に転向する者も当然居たが、海を愛する気持ちだけなら漁師らとなんら変わりない者もいたのだ。
そんな彼らはいつしか、マーグロップを一掃しようと志す戦士になり、保護団体にもなった――その筆頭こそ、原初の海神の名を冠した海洋保護団体【オーカス・フォース】である。
マーグロップ狩りの名手としても名高い彼らは、世界中に支部を置いている。だが海賊の末裔らしく、血は繋がっていなくても血の気が荒い。その上各支部での自治を認めているため、場所によっては聖人のように崇められている者もいれば、犯罪紛いの事をしでかす奴もいるのだ。
これを見ていられなかった国連も歴代の代表に散々警告したのだが、未だに聞きいれて貰えない。現代表、《凶荒の反逆者》シャルロッテ=ベルンにいたっては、『私達は人類の生存圏をほんの少しでも広げようと日夜戦い続けているのです。私を退きたいというのなら、私が差し向けた尖兵を全て下げましょう。あとは貴方達が勝手になさい』と、半ば脅しのような返答をする始末である。説得を諦めた国連は彼らを《要警戒指定団体》と指定し、危険だと非難するようになった。これを受けて、支部のある街でもオーカス・フォースの排斥運動が始まる事となる。
しかし最近、彼女の孫娘が歌手として有名になったお陰で、昔よりはほんの少しだけ和らいだという。シャルロッテの強硬な姿勢に絶望した娘が入水自殺を図ろうとしたものの、とある男に助けられ、その彼の間に女子を儲けたのだ――そんな経緯を持つ孫娘であるため、世界中で話題を独占している。
シャルロッテはそんな孫娘を歓迎する意向を示したようだが、『マーグロップと共存出来ればそれで良いではないか』という孫娘の意見には、幹部連中も頭を悩ましているらしい……。
「結局の所、またも尻ぬぐいか」
水平線を睨みつけながら、咲夜は毒づく。その孫娘エリザベータは、母が流れついた先の、ミエア大陸のジュエリア聖教皇国で生まれた。父親は代々国の長――ジュエリアが奉じる《審神》イズスの神官の長、《大法官》を支える一族の出身であるため公に出来ず、幼い頃からずっと母と二人で暮らしてきたという。しかしジュエリアでは長年鎖国をしており、異邦人の混血を許していない。この事を知って激怒した一族は、不当な罪をかぶせて母親を死刑にしてしまった。だがそれ以上にこの件で怒り狂ったのは、他ならぬイズスである。
審判と刑場を司るイズスは、己の信仰者達に《反逆者》の血を排斥せよと命を下しただけでなく、彼らの顔も見たくないとジュエリアの鎖国を決断したほど気の強い神とされている。彼は遥か遠き神殿から、神託としてエリザベータを神々に叛意を持つ者《反逆者》に落とし、北方のザーマク諸島――レナイル公国へと流罪にした。苛烈な決定であったが、昔に比べたらむしろ生ぬるいと言う専門家もいるらしい。
とにもかくにも、当時は幼かったエリザベータも十六になるまで軟禁生活をする羽目になったが、偶然巡り会った少年と恋に落ち、その助力を借りたお陰でこうなった……夢物語のようだが、聞いた話をまとめればこんな感じである。偏頭痛のような苛立ちを覚えてこめかみを抑えていると、脳内に直接か細い声が聞こえて来た。
『……その人が、イライザさんなの?』
「そうだ……あの女傑シャルロッテが及び腰になるのも無理は無い。今やエリザベータ……いや、《露見の反逆者》イライザは神具院財閥の次期総帥の婚約者だからな。武装も完璧な大商人と交戦するには、海賊の末裔では荷が重すぎる。さすがのシャルロッテも、今は表向きだけでも親族として友好的に付き合った方が良いと打算したんだろ」
周りには誰もいないから、それを良い事につぶやく。だがただ一人、そのつぶやきを聞いていた『少女』は、声に僅かな怯えを混ぜる。
『……その人と、戦うの?』
「シャルロッテに依頼されたのは、先走った連中の締め上げだ。ついでにお前の実力も見たいらしいが、そんなものは皆無に等しいから余計な事はしなくていい」
凪いだ海の波形が歪になる――ようやく船らしいものが近付いてきたようだ。咲夜は軽く息を整えながら、浜辺へと向かう。
エリザベータが出会ったのは、自身の父親に匹敵するような、とんでもない少年であった。レナイル公国に留学していた世界有数の大財閥、神具院財閥総帥子息のアイユ=トレジャリーである。その名は戸籍に記載されたから本名と言うべきものであるが、咲夜にとっては『神具院藍雄』の方がなじみ深い。現在行動を共にしている神具院紅雛の次兄だからだ。
今回の仕事も当然ながら、その縁でシャルロッテ本人から受けたものであった。その独自の情報網は正に卓越したもので、名も公表されていなかった紅雛の事まで、ある程度把握していたのだ。
そんなシャルロッテでも頭を抱えざる負えない問題が、孫娘イライザの行動とその余波である。藍雄はマーグロップ保護派であるため、【オーカス・フォース】の意義とは真逆である。それは当然イライザも同じだ。
この揺らぎを幹部達も察しているため、一部では暴走すらも始まっている。元々自由気ままで、それをシャルロッテが鼓舞する形でまとめるだけの団体である。ましてやいよいよ老いた彼女にもその勢いに陰りも見せ始めているのだ。側近達も彼女を気づかってある程度の『締め上げ』はしているようだが、それもそろそろ限界が近付いている。
そこでひねり出された案が、神具院を飛び出した妹の紅雛への依頼だった。請負の仕事を咲夜と始めた彼女の手を汚させ、イライザ達に現状を見せつけて牽制する魂胆のようだ。駆け引きとしては悪くない手だが、もちろん咲夜とて快く思っていない。
しかしそれでも受けたのは、仕事だからだ。理由はただ一つ、まだ始めたばかりなのに、折角舞い込んだ依頼を拒否する訳にもいかない。
『……私も、行く』
覚悟を決めようとした時を見計らったかのように、紅雛がつぶやいた。こういう女だと言う事は嫌というほど知っている。咲夜は怒りと共に声を押し殺して囁く。
「お前は出るなって言っただろ。兄弟喧嘩するのはまだ早い。下手したらお前も表に出ざるを得ない。そうしたら最悪俺の『問題』にも絡んで面倒な事になる」
『……でも』
「これで三度目だ……今度言ったら大翼の所に送り返すぞ」
その脅しに紅雛の『心』は激しく荒ぶった――所謂、精神感応は彼女の『力』ならば朝飯前だ。それどころか、混沌と化した今の現実をも制する技術さえも成し得ないだろう精神感応とて、あの『力』の本当の使い方とは決して言えないものだ。
それでようやく黙り込んだ紅雛に、もう意識を傾ける事はしない。咲夜の揺らめく深緑の双眸は、今はまだ遠き船の方へと向けられている。
生来の弱視ではそもそも船すらも見えないのだが、捉えてはいる――そちらへと、ゆっくりと歩み寄る。潮風は歪ながらも徐々に穏やかになる。どうやら一時停泊するようだ。迷わず、その一歩を踏み出す。
咲夜には『親』というべき者達が何人もいる。その中の一人、『乳母』の近江が教えてくれた『道術』は、今の己に無くてはならない術となっている。
《導神》マーシェの信仰が厚い北東のソテア大陸には、古来より目に見えぬ森羅万象の源、『鬼』の流れを行使する道術が伝えられている。いずれ地上へと立ち昇る現象『霊』となり、精霊らの糧ともなるそれを行使する術は、かつての『魔術』とは違うから、神々にもその使用を許されている。元より鬼は地脈を巡り、結果的に自然の循環を作り出す存在なのだ。
故に本来は禁忌であった精霊信仰にも寛容的な所であれば、似たような術はいくつもある。その中で、マーシェが奨励する学問の分野から、基礎体系を早くから整理して完成させた道術が世界で最も広まっているのだ。そしてこれがあったからこそ、今日技術で必要不可欠な鉱物の構造の解析も容易になったとも言える。道術を知らぬ者にとっては鬼こそ神々の奇跡の残骸であり、それが降り積もって鉱物と化したものが生塊なのだ。
その流れは地だけでなく、海をも越える。マーシェとその信仰者が開いた海路は、幾億幾兆もの人々が往来し、やがて交わされた思念と奇跡が織り込まれた道となる……それこそ道術という名の由来でもある。人々の足で踏み固められる事で地に刻まれ、船で漕ぎ出でる事で海に拓いた『道』は、容易に消えやしない。例え何千年経とうとも、そこにすらも人々の想いと神々の恵みは宿るのだから。
咲夜も正に今、それを辿ろうとする――ただし、己の足でだ。
『器用なものです……もう《地換》とやらを会得したのですか』
「今まで試す機会が無かっただけだ」
つぶやきながらも、疾走は止まらない。海面の揺らぎは波の震えのみに留まり、咲夜の足で踏み荒らされる事は無い――咲夜は今、海原を走っているのではない。『道』を走っているのだ。
ただし熟練した道術の使い手、所謂『道士』であればこの程度は容易いかもしれないが、咲夜は道術の奥義を全て会得したという訳ではない。かと言って、靴に何かを仕込んでいるのでも無い。
しかしこんな事が出来るまで、それなりの時間はかかっていた。申告通り実用は初めてだが、試用は既に何十回も行っている。
「馬鹿共は海に本物の『橋』を掛けようとするが、海を少し渡るくらいなら『氷』で十分だ……鬼を多く含んだ海なら、むしろ川よりも『足場』が多いからな」
リン、と。響いたのは刀の鞘に下げられた深い青の水晶。チアニムの一種であるそれは、特殊な波動を発して『鬼』を直接刺激する。道術での発想ならば鬼を固めて『橋』を作りあげるのが普通だが、そもそも鬼は概念上の存在でしかない。今でこそ情報残滓として具現化もしているが、それとて恒常的に存在出来ぬほど脆いものだ。
だがこの世界で存在が確立している生物――中でも己自身を使えば、より安全かつ効率的に事が成せる。地の女神の贈り物たる肉体にも、地脈と同じ『流れ』が存在する。『鬼』が同じ『鬼』であれば触れられるように、己も『鬼』であると勘違いさせる事が出来れば、理論的には『流れ』を外さずに行く限りは、決して『道』から落ちたりはしない。例えそれが、海の上であってもだ。
同じ原理で、周囲に蜃気楼による光学的迷彩をも張れば、もう船からも海岸からもその姿は捕えられない。後は船に潜り込むために、マーグロップ避けの防壁を上手く突破すれば良いだけだ。
『その通りです。希望の通りにいかなければ、作れば良い。しかし……かつて『生塊』というものが無かった時代は違う。彼らは自然にある恵みを享受していたのです』
内なる声は自然の誤作動を目の前にして、嘲笑う。その声は幽かで冷たいが、底知れぬ所から響く呪詛の如きもの。
『それこそ神の恩恵……なのに無断でかすめ取ろうとするなんて、《極東の錬金術師》も大それた事を考えるものです』
「それでも世界が滅ぶよりは良いだろ。 実際に形あるものを作って、後世の誰かがそれをそのまま利用するのは悪くない。だが残したって仕方が無いものは、自分の手で処理出来るよう最初からそう設計すべきだ。親父殿はかすめ取ったのでは無い。文明の進化に『工夫』を齎しただけだ」
『工夫、とは……物は言うよう、というものですか』
「それが正に《地換》というやつだがな」
つぶやきは波の音に掻き消される。しかしその声の持ち主にはきちんと届いている。本来は声を出さなくても良いのだが、癖みたいなものである。
そうだ、癖だ。内なる『彼』と区別するために、言葉をあえて外部(声)に発しているだけだ……胸中で断言しながら、左手首の調子を軽く回しながら確かめる。悪くは無い。
「もうすぐ船だ……『お前』は黙ってろ」
『それは私でなく、彼女に言うべきでしょう』
声は依然として冷たいが、嘲りは一層濃くなった気がする。確かに紅雛――今は何処かの隅っこで震えているだろうあの彼女と関わらなければ、こんな所にはいなかった。それだけは認めると、左手首の腕環に備えていた鉄線を放つ。
その先端の鉤爪が軽い音を立てて、間近の船の縁に引っ掛かったのを感触で確かめてから、疾走から跳躍へと切り替える。道術で言えば『水遁』とも称されるであろうその術は、さすがに空中では出来ない。甲板へと登るには、結局は命綱に頼る他が無い。
「……見張りもろくにいないのか」
外から来るはずのマーグロップ避けの『結界』こそ成されていたようだが、人の侵入に気付いた様子は無い。上からは笑い声。停泊したのは昼間から酒宴でもするためだろうか。
『違うの。向こう側で、もう……』
そんな事を思っていると、紅雛のか細い声が聞こえて来た。視認こそは出来ないが、『こういう事』に関してはそんなもの必要ない。咲夜は思わず舌打ちをしてしまう。
「……そうか、やってるのか」
そもそもこの『粛清』は、シャルロッテですらも恐れる兵器を強奪された事が発端だ。【オーカス・フォース】は武闘派であるが、海に関する事ならば造詣が深い。かつてマーグロップに侵された海を奪還せんと、ある者がマーグロップを消し去ろうとする『毒』を開発したのだ。
ノイテレッド因子と名付けられたそれは、確かに塵すらも残さず消えた個体もあったが、生き残ったマーグロップ達は学習し、その毒に対する抵抗力を高めてしまった。そして結果的に、彼らは人の武器では容易に倒せぬ頑丈な生体構造を手に入れてしまったのだ。
それからというもの、ノイテレッド因子に連なる技術は全て国際技術連盟によって禁術指定とされた。しかし一部の技術者はそれでもなお究極の毒を求めようと研究している。そのうちの一つこそ【オーカス・フォース】だ。十数年前、彼らはかつてやりかけて成就しなかった成果を挙げてしまった。それこそシャルロッテの娘、マチルダ=ベルンの出奔にも繋がったほどの成果だ。
『赤い……海が、赤くなってる』
気づいてしまった紅雛の『声』が、恐怖で歪む。だが咲夜は慰める気など全く無い。それよりも早く、ある一つの単語が胸中に浮かぶ。
「赤潮、か」
何らかの影響で大量発生した養分を微生物が求めて一箇所に集まる……その様は、あたかも海面が赤く染まったかのように見えるから『赤潮』という。しかしノイテレッド因子にとって、『養分』こそがマーグロップそのものである。【オーカス・フォース】はノイテレッド因子に指向性を持たせて、生物兵器に改造してしまったのだ。
マーグロップを食らうだけの存在であれば、毒のように一過性では無くなるし、無限に増殖出来るかもしれない。だがそれを実行するには些か遅すぎたのだ――鉄線を伝って登りながら、咲夜は溜息混じりにつぶやいた。
「誰だって未知のものは怖い。それでもいずれは慣れて、愛着すら持ってしまう。今はマーグロップを愛玩用に改造出来るくらいだ……生まれてしまったものを完全に排斥するなど出来るはずが無い」
自覚出来るほど諦めの籠った声に、咲夜は口元を歪める。咲夜の祖先は化物退治を成し遂げて有名になった男の息子だ。しかしさらに遡れば、始祖とも言うべき者は赦されざる存在を守るために、あえて自らを火種にし、世界に未だ終わらぬ戦を齎しているのだ。
祖先を敬うまでとはいかないが、この己こそ存在すらしてはいけない者だ。誰かを排斥する権利なぞ最初から無い。
「……だが仕事なら話は別だ」
【オーカス・フォース】もまた、そうである。海賊の末裔でなくても、誰かが彼らの代わりをする事になるだろう――そんな者達を止めるなんて、実際切りの無い話である。
それをも心得ている上で、咲夜は割り切ってしまったのだ。どのみち己は一振りの刀。その刃の先を向けるのも事を成すのも、全て依頼者の責任だからと。
「いいか、紅雛」
請負は客の要求に何でも答える仕事である。その対価は莫大であれ、時として大切なものを失う事となる。だからあの幼い彼女には最も過酷な仕事であり、彼女自身の意思を育てる修行にもなる。持ってしまった力が制御出来ないのなら、その意思をきちんと正しい方へ向く事が出来るだけでも、結果は変わるはずである。
「俺は全てを救う事なんて出来ない。あの『赤潮』だって、一度散布してしまえば、除去するのも相当時間がかかる。お前の力ならすぐに何とか出来てしまうだろうが……それこそ大翼の思うつぼだ」
彼女の動揺は未だに収まらない。少しは落ちつき始めたが、大嫌いな父にまた誘導される所だったと知って衝撃を受けたせいで、元の数値に逆戻りだ。
「大災害の時だって神は全知全能の力をそう容易く行使しなかったし、過ぎた力を間違った方に向けたせいで大失態を犯してしまった。それほど今の世界の環境は混沌に満ちているんだ。自分の思い通りになる力が、誰の制御で動いているのか神ですら知らぬ世界でまともに通じるとは思うなよ。もし大翼が本当に全知全能だったら神具院家は今頃、一つの家で平穏に暮らせる幸せを手に入れてただろうな」
『……家族って、一緒にいる事が幸せなの?』
何も知らない紅雛は、苦い呻きを上げる。十年も独りで眠り続けた末に家族を拒否してしまった娘に対して、咲夜はこみ上げた怒りを堪えながら答えた。
「家族は血の繋がりだけの関係じゃない。共に日々を過ごす事が、家族として当たり前なんだ……その当然の事が出来ない者には何より羨ましく思えるから、『幸せ』に見えるだけだがな」
幼い頃からたくさんの者に囲まれて育ったものの、誰一人として家族とは思えない。咲夜にとって『家族』と思えるような人物は、既にその地――御子島神国から追われた養父と母、そして生まれる前に亡くなった実父くらいだ。
結局咲夜もまた、一年前の『乱』で追放された身である。どうせなら身を寄せれば良いとも思えたが、紅雛は実父を殺した男、神具院大翼の娘だ。養父はそれでも面倒を引きうけてくれたが、母は今でも怒っているらしい。こんな状況では家族団欒なぞ夢のまた夢だ。
あの島(故郷)を取り囲む海を越えれば、そんな当たり前の幸せすら手に入れられると思っていた。しかし現実はそうもいかないのだと、あの『神』も語ってくれたというのに……後悔こそ無いが、何も知らなかった頃に引き返せなくなった事実には何度も打ちのめされてしまう。
「……それでも、親が身を削ってまでくれたものまで憎むな。大翼の思惑がはっきりするまでは、奴に感謝してろ。《石の欠片》が無かったら、お前は『そこ』にいられなかったんだ」
少しでも己の心に譲歩すれば、紅雛は家族と共に過ごす事が出来たはずだ。だがそもそも彼女が持ってしまった力、《石の欠片》のお陰で離れる事も出来てしまったと、咲夜は今でもそう思っている。己自身が彼女の力に屈してしまったのかは未だに考えたくも無いが、周りがその力を恐れて二人を止められなかったという理由も確かにあるのだ。
凄まじい力は時として牽制にもなるが、制御も出来ねば意味が無い――その制御をする羽目になってしまった咲夜には実際の所、これは完全に己の手に余る事項である。果たさねばならぬ事はまだまだたくさんあるというのに。
「何も知らない方がいい事もあるのに、お前は知りたいんだろ……だったら大翼の本心をも受け入れなければならない。どっちにしろ、お前は一度家に帰るべきだ」
『でも……私、は……』
「嫌なら俺の事を考えてみろ。俺は立場的には、もう帰る家も無いんだ」
『……でも』
我ながら卑怯な手だと思いつつも、彼女の煩悶を宥める時間は無い。ただの暇潰しがすっかりこれだ――甲板では宴も酣、そろそろ突入の頃合いか。
『貴方も家が恋しいのですか?』
そんな時だった。静まっていたはずの『声』が響く。嘘をついた所でどうしようも無いからと、咲夜は口元を歪めながらも答える。
「……花は元々、その地に根付くものだ。俺だってもういい加減腰を据えてもいい頃なんだ」
『帰るくらいなら、貴方とてすぐに帰れるでしょう……それとも今は鳥に運ばれる種として、自由を謳歌したいのですか?』
「……自由、か」
確かにこの旅は、紅雛無しでは実現しなかった。咲夜を引きとめようとする者まで牽制してしまったのだ。肝心な事を思い出せば、思わず苦笑いが漏れてしまう。
「俺もいつかは帰る。だから今のうちに、島を取り巻く全てを見ておきたい。それが分からないままでは【朝廷】の存続もままならないはずだ……父上の暗殺が世界にとってどれほど衝撃的だったのかも知らなければな」
『無明は無謀にも、首相の暗殺すら企てたそうですから。それを制したのもあの秘咲とか。あの極空も、その話を聞いた時は失笑したそうですよ』
「……そういえばお前、その時は大割に居たんだったな」
弾んだ声を叱咤するように、咲夜は呻く。
「……何でお前は祖父上に手を貸したんだ?」
『前から言っているでしょう?それは今の貴方には教えられないと。けれどそれ以外の事でしたら、助力は惜しみません』
「ただし『腹が減ったから早く食わせろ』、か……堕ちた天使と罵られるのも無理はないな」
『事実だから仕方ありません。そもそも私は《救神》の血を受けて具現した存在ですから』
「あぁそうか。最初からお前はそういうだった奴か……」
『十六年も付き合って、今更そう言うのですか?』
「……確かに今更だな」
短い会話を打ち切って、綱を引く。
全くもって今更な話だ。守るべき島を囲む海の底にある事実を隠すために、咲夜はその身すらも堕とさねばならない選択を、今まで何度も強いられてきた。
しかしそれを他人に共有するのは良くないと悟る程度には、成長もしている。紅雛の怯えはまだ拭いきれていないようだが、今は我慢して貰わねばならない。
我慢すれば、本当に危ない時に少しは楽も出来る。
『……気を、つけてね』
それを『聞かれて』しまったか、紅雛のか細い声が響く。マーグロップ以上の化物を宿す己の身を気づかう言葉をかけてくれる者は、そう多くは無い。だから咲夜は一瞬だけ、躊躇してしまった。
「……さっきのは、気にするな」
返答は何だかぶっきらぼうな言い草になったが、それを聞いた紅雛の心はようやく穏やかになり始める。これで最後の不安はぬぐえただろうと己を無理矢理納得させながら、確認するように己のやりたい事を口に出してみた。
「俺はこれから、今のまやかしの平穏をぶち壊しに行く……その上で、俺とお前の行く先を探そう」
『うん』
悲壮な決意かもしれない。だが希望がある限りは、己の手を汚してでも切り開かねばならない。覚悟を決めた咲夜は、船の縁を蹴りあげて勢いをつけると、迷わず甲板へと舞い上がるように躍り出た。
<続>