第二幕:朱く染まる道の上で~at the dawn~
「かつて父たる天神が設え計らった図を元に、母たる地神は世界を作りました。そして原初の海神が産んだ七柱の神々は、その世界を支える役目を負ったのです」
小さな灯火の下、少年は少女の耳元でそう囁く。元より小さな寝台一つ、身を寄せなければどちらかが落ちてしまう。
仄かに熱の籠った声であったが、口調は冴えた氷のようにどこか冷たさを帯びる。そのくすぐったさに少女は目を細めながらも、熱心に聞き入っていた。
「七柱の神々のうち、旅人を加護する導神マーシェは誰もが安全に旅が出来るように、街道を敷きました。やがて世界の六つの大陸を繋ぐ海路や空路も開かれ、各地の人々は自由に往来するようになると、それと共に世界に新たなる流れが生まれたのです」
「ながれ?」
少女は顔を上げてつぶやく。少年はあやすように、その狐色の髪を撫でてやりながら、頷いた。
「数多くの人々の足跡、その意思の流れです。故に人々の意思から現出した生令達は、その通り道から生まれ出づる事が多いのです。覚えておきなさい」
「うん……」
少女がぼんやりと頷くと、少年は軽く目を擦る。その鮮血の如き緋色の目は、暗闇の中でも爛々と輝く。ただ眠い訳でも無いとばかりに。
「……そろそろ『起きてしまう』頃でしょうね。続きはまた後でお教えしますよ」
「どうして、教えてくれるの?」
気になって尋ねてみた少女に、少年は苦笑いをしてみせる。
「貴女の《石》が怖いからですよ。貴女とて、それを正しく使おうと心がけてくれなければ、『冴華』だけでなく、『私』とて焼けただれてしまう。彼にこう伝えておきなさい。『彼女が安定さえすれば、私も安定出来るのです』、と」
「……うん」
また頷くと、少年はそのまま静かに目を閉じる。
抱えられたままの体勢で何だかむず痒い。そう思った少女は、眠ってしまった少年――本当は彼の中にいる『もの』の腕から逃れて、寝台を抜け出す。未だ冷気漂う春の夜は暗い。だが遮幕の隙間から、淡い光が差し込んでいた。
「……朝」
世界の北西、マクレガス諸島の本島たるフランドクス島の海岸は、ようやく黎明を迎えていた。微かに聞こえる波音に、少女の心も少しは和らぐ。寒くても、胸中にほんのりと熱が灯る。
しかし気がついたらここに居たようにも思えて、ふと不安を覚えてしまう。少女は揺らぐ心と共に膝を抱えながら、外を見つめ続ける。
生まれて間も無く眠りにつき、ようやく目覚めたのはわずか二ヶ月前の事。何処へ行こうとも初めての場所である。
「……海」
すっかり冷えてしまった腕を撫でながら、またつぶやく。初めは唇すらもまともに動かせなかった。ようやく言葉を発せるようになったのは、ついこの間である。それまでは、まず自分の力で歩けるようになりたかったから、後回しにしてしまったのだ。
それでも今とて上手く歩けない。少し歩けばすぐに躓いて転んでしまう。なけなしの体力も尽きて倒れてしまう。しかしようやくこの小さな空き家に辿りついた時、嬉しくてつい涙ぐんでしまった。やっと私は自由になれたのだと。
「……違うの」
だが今思えば、違うのだ。少女はしばらくここで日常生活を送るための訓練を受けなければならない。それは自由と呼べるのだろうか。多分違う。
傍で眠る少年と共に、今日もまた新しい一日が始まる……その前に、少女は窓を支えにして、立ち上がる。
「行かなきゃ」
そのまま、入口まで歩いてゆく。寒いから何か着るものが欲しいと部屋を見渡すも、丁度良いものは無さそうだ。
「くぅ」
と、その時だ。足元で何かが鳴いた。
「……クゥ」
見やれば、赤い体の蜥蜴が、少年の上着を口に咥えて引きずってきた。これを着ろと言うのだろう。少女の顔が知らぬ間に微かに緩んだ。
「ありがとう」
『僕も連れてって』
つぶらな紅の瞳で見上げて、蜥蜴はまた鳴いた。今度はその『声』も聞こえてくる。
「駄目だよ、寒いもの」
腰を屈んで、上着を拾い上げる。それでも見送りならばと、蜥蜴も抱えて部屋を出る。出来るだけ静かに歩かなければと心がけるも、まだ上手く歩けない少女には、その足を動かすだけで精いっぱいだ。
「くぅ……」
『何処に行くの?』
そんな少女を見つめる蜥蜴が問うように、胸元にすり寄る。その『声』はあらゆるものと心を通わす少女にしか聞こえない。
「……外」
心の声を返しても良かったが、少女はわざわざ口を動かして答えた。外の世界に居られる事の幸せを噛みしめるように、精一杯。
「もっと、上を、見ないと」
眠っている少女を面倒見てくれた『あの人』は、最期にそう言った。『どんなに辛くても、空を見上げなさい』と。そのまま闇に消えた『あの人』を待ち続けたが、結局戻ってこなかった。
代わりに現れたのが、あの少年である。時に厳しい……いや、ずっと厳しいのかもしれないが、彼は少女を外に連れ出してくれた。そして外の事も色々教えてくれようとしている。
……気にかけてくれる人はたくさんいる。だが、ずっと寒いままだ。
「くぅ」
『寒いなら、僕が暖めてあげるよ』
名残惜しそうに、少女の幼い胸に顔を擦りつける。少し迷ったものの、自分の我儘に付き合わせるのは可哀想だからと、玄関の前に降ろしてやる。
少年の上着を肩にかけ、少女はようやく扉を開ける。黎明の涼風は部屋の中よりも冷たい。玄関でぐるぐると駆け廻っている蜥蜴が心配そうに、くぅと鳴いている。
「……大丈夫、だよ」
それでも衝動に抗う事は出来なかった。少女は蜥蜴に笑いかけながら、外へようやく一歩踏み出す。
窓越しの風景よりも、眼前に広がる海は美しく壮大なものだった。昇りかけている太陽が暗い藍の水面を照らし、絶えず押し寄せる飛沫を白く煌めかせる。思わず見とれていると、その小さな背を、さらに厚い何かが包んだ。
「そんなに薄いものだと、風邪を引いてしまうよ」
その声に、少女はびくりと肩を震わせる。ここに来てしまったのも、『呼ばれた』からだろうか。逃げようかとすら考えたが、毛皮の上着をかけてくれた者は、少女を強引に抱き寄せる。
「一度はきちんと話をしなければならないからさ。親子だもんね」
「……話、したくない」
どうせ一番聞きたい事も教えてくれないのだろうから。未だ顔を見られずに俯く少女に、彼は苦笑いをしてみせる。
「そうだね。まだ、君には早過ぎる事だから……座るかい?」
「……うん」
立ちっぱなしで足がしびれて来た事も感付かれたようだ。これでは逃げられない。結局少女は彼と共に、白い砂浜に腰を落ちつけさせる。
ゆっくりと藍、白、そして朱に染まる海。しかし夜明けはまだ遠い。手を伸ばそうとしてみても、その腕すら取られてしまう。
ならば見ない方が良いと、少女――神具院紅雛は目を閉じてうずくまる。嫌なものから逃げるように、視界を再び闇で満たす。
「僕の顔も見たくないと言うのかい?そうだね、君には辛い思いをさせてしまったのかもしれない」
紅雛は優しく頭を撫でてくれる者の顔を思い浮かべてみる。少し気弱そうに見えるが、中身はそれと全くかけ離れたものである。本当はどんな事を考えているのか分からない。分かりたくも無い。
「うぅん。そうだね、皆はそう思っているだろうね」
この彼は、己に力を与えた。森羅万象の核に触れる事が出来る力……と言われたが、紅雛には理解出来ない。今の所、紅雛はこの力で心を読んだり、物を全く違う物質に変えてみたりしたが、それでも良く分からない。
だが一番分からないのは、どうしてこんな力を与えられたのか、だ。顔を上げようとしたが、止めておく。どうせ答えてくれないだろうから。
「秘咲が実験を頼んだのかな?大昔にね、石を金に変えるっていう、『錬金術』が流行っていたんだ。単なる化学反応の実験なんだけど、秘咲は高校時代、これを《天換》で成し遂げちゃってね……あぁ、違うな。彼はこれを《地換》って言ってたか。それで一躍《極東の錬金術師》として有名になったんだよね。多分彼もびっくりしただろうなぁ。君の《石の欠片》なら、《地換》なんて大げさな事しなくても出来ちゃうんだから」
得意げに言ってみせる彼だが、紅雛は何も言わない。
確かにあの人、維新秘咲は驚いていた。だが紅雛は力を直接行使出来ないから、それを成したのは紅雛でなく、制御者の方だ。とはいえそれでもその辺に落ちていた石が、呆気なくキラキラ輝く金の粒に変わってしまったのを見ると、不思議で仕方が無い。何でこんな事が出来るのだろう?
「火は心情の象。触れれば二度と戻る事のない破壊、そして新たなる形への再生を司る。人の心も一度触れてしまえば、誰だって変わってしまうものなんだよ」
彼ですら、心を読んだかのように答える。
「それは、あの咲夜君もね……二ヶ月であんなに変わるなんて。秘咲が見たらどう思うだろうなぁ」
楽しそうに語る彼。何だか苛立ちすら沸き上がる。あの『彼』の事をそんな風に言わないでほしい。だがその反応に気付いて、笑い声はさらに高くなる。
「全く、君の方が惚れちゃうなんてね。でも、本当にあの子も良い男になったよ……『彼』が居たら、どう思うだろうね」
「その人、パパが……殺したんでしょ」
我慢出来ず、怒りに任せて囁く。だが顔を伏せたままだ。今はその言葉を聞いた彼が、どんな顔をするのか見たくないのだ。
彼がどんな顔をしたのか、分からない。だが声は少しだけ固いものになった。
「……そう考えるのは君の自由だよ。誰だって、目の前の者が何をしてきたのか全部分かるはずが無いんだから」
「私は、分かるよ。だって、パパがそうしたんだもん」
強く問い詰めようと、紅雛は声を荒げる。この彼は何も答えない。あの維新咲夜にすら、ついに真実を話してくれなかったという。ならば自分が聞かねばならないと肩を震わせた時、彼は再び耳元で囁く。
「それなら、僕にも聞かなくても良いんじゃないかな。『分かる』のだろう?」
してやったり、と言わんばかりのおどけた声だった。この彼の『声』だけは聞けないから聞いたのにと思いかけて、紅雛は伏せたまま顔を歪ませる。何も言い返せない。
「そもそも君はその力なんて捨てたがっていると聞いたよ。なのに使おうとしてるのかい?制御者の咲夜君に頼めば、その力を封じる事だって出来るのに。それとも彼もその《石》を使って真実を暴こうとしてるのかな?」
違う。彼は人の力に頼らない。だがこの彼の身内である紅雛を傍に置いておけば、機会を得られると思っているのだ。
だけどそれだけではきっと無理だ。紅雛はぎゅっと目を瞑って、体をさらに縮める。
「……紅雛。こういうのはね、とっても簡単に解けてしまう問題なんだよ。君だったらもっと簡単なのに」
そんな紅雛の肩を撫でてやりながら、彼は言う。
「だって僕達は親子なんだ。話してやらなければならない事も、たくさんあるんだ。だからそろそろ、顔を上げて欲しいな」
「……嫌」
ついそう言ってしまうが、薄々感づいていた事だ。親子なんだから、娘として父に聞けばそれで良いのだ。
だが、それが出来ないから遠回りな方法しか取れない……涙ぐんでしまう紅雛に、それを知る事が出来ないはずの彼は苦い声でつぶやく。
「泣いちゃうほど嫌なのか……困ったな」
「……だって」
「別に、君を連れ戻しに来た訳じゃないんだよ。だけど本当に旅立ってしまう前に、せめて見送らなきゃと思って来たんだ」
「……だったら」
顔を浮かせて、また押し留まる。顔も合わせたくないのに、それでも聞かねばならない事が紅雛にもある。
「……どうして、私は……家に帰るのが、嫌なの?」
「さぁ……どうしてだろうね」
ようやくひねり出した問いに、彼ははぐらかすように答える。しかし紅雛が抗議の声を上げる前に、彼はぽつんとつぶやいた。
「きっと、君はそれが分からないから、帰れないのかもね」
怒りも悲しみもなく、ただ淡々とつぶやく。それでも肩を撫でる手だけは優しいものだった。
「僕もね、家に帰りたくない時がたくさんあったよ。友達の家に遊びに行った時とか、ね。知ってるよね。僕は体が弱かったから、家に帰ったらひたすら寝るか勉強するかのどちらかだったんだよ」
彼の境遇は少しだけ、かつての『友達』から聞いている。だがこの衝動は堪えようがない。自分でも良く分からないほど、その優しさを振り切りたくなってしまう。
「でも僕は家に居るのが嫌だっただけなんだ。それならとても居心地の良い家にすれば良いんだって、島一つ丸ごと買い取って広い家を建ててみたんだけどね……結局今居るのはフィオとまだ幼い藍雄だけ。来年になったらあの子も違う国に留学させる事になってるから、また二人きりになっちゃうな。漆離は《神託》を受けちゃったからマデューテにいるし、銀雅は世界を飛び回ってる方が性にあってるし。全く、本当にみんな僕に似ているよ……」
寂しそうに語る彼だが、今の紅雛にはどうすれば良いのか分からないまま、俯くしかない――いや、言わなければならない事がふと浮かぶ。
「……パパに似てるから、家に帰りたくないなんて、思ってないよ」
「そっか。そうだね……君は頑固だから、フィオの方が良く似てるよ」
苦笑しながらつぶやいたその名は、母のものだ。聞いた限りだと、子供どころか父までもほったらかして、家の庭園で花を愛でてばかりの人らしい。彼はそんな人に良く似ていると言う。だがその話をしてくれた長兄も同じ事を言っていた。『外見も中身もそっくりだ』と。
「銀雅もそう言っていたんだね……フィオを振り向かせる事はとても難しかったよ。頑なな人だったから」
未だに苦笑いしている彼は、懐かしそうにつぶやいた。その声は少し熱も含んでいる。そんな人でも本当に大好きなのだろうと思うと、何だか己まで照れ臭くなる。
「本当は《石》のために近づいたのにね……一目見て、そんな思惑なんて消し飛んじゃったよ。あれが、誰かを好きになるって事なんだろうね」
「……咲夜も、今は、そうなのかな」
元々、この『力』は母が保有していたものだった。だから母もこの彼が連れ出してくれるまでは、家に引きこもるしかなかったのだ。
そんな母の事を聞きつけて、良からぬ事を企んだ彼が尋ねに来た……その辺りは自分達も同じなのかもしれない。もうそれ以上責めないでくれと、苦い声で彼は問う。
「君は、そうあってほしいのかな?」
「……うん」
こんな自分でも、好きになってくれたらいい――でもまだ自分の事で精一杯、受け止め切れないだろう。困惑する紅雛を、彼は少し力を込めて抱き寄せる。
「まだ、君にあの子は早すぎる。でも傍に居てやれる事は出来る。君がそこに居たいのなら、納得がいくまで居れば良いよ。もう駄目だと思ったら、いつでも帰って来て良いんだからね」
「……うん」
少し迷ったが、頷いてしまう。本当は寒くて辛くてどうしようもないから、自分の気持ちばかりが急いてしまうのだ。
「……勝手な事を親子で吐かすな」
そこで、違う声が響いた。はっと我に帰って背後を見れば、家で寝ていたはずの少年が静かに立ちつくしていた。
この少年は怒りすらも静かだ。闇夜に粛々と降る雪の如く、静かに浸み入るような殺意を覚えて、紅雛は震え上がる。その歳で躊躇い無く人を殺せる者だという事を、すっかり忘れていたのだ。
「そんな照れなくてもいいのに」
しかし彼、己の父たる神具院大翼は激怒する少年にすら、朗らかな笑みを浮かべていた――と、すがりつくように見上げてしまった紅雛は己の失態に顔を引きつらせる。
「あぁ、やっと顔が見れた……でも今はそうでもいいんだよ。怖いものがあるのなら、強い者にすがればいい」
悠然とした笑顔を見せながら、父は紅雛の頬を撫でる。
「とは言っても、君はいつまでもそんな風に誰かにすがって生きる事になるのだろうけどね……火は何かを燃やさねば存在出来ないのだから」
「違う……」
必死になって否定しようとしてみるも、父の笑顔は少しも崩れてくれない。
「いや、そうあるべきなんだよ。火を独りにしておいたら、ろくな事にはならない。だったらせめて、誰かの役に立つべきだ。例えばそう……花も開くほどの静かな夜道を照らす灯火になる、とかね」
「俺は女を世話出来るほどの甲斐性なんて無いぞ」
すかさず釘を差す少年に、父はようやく苦笑を見せる。
「甲斐性なんて無くてもいいさ。僕もその辺は人の事言える立場じゃないから。ただ一つ、父として望むなら……この子には君のような冷静さを持って欲しいのさ。今のままじゃとてもじゃないが灯火にはなれない。松明じゃ時代遅れも甚だしいしね」
「そいつはまだ松明でもない。獣を呼ぶ焚火だ……この目を見てもまだそう言うのか」
朝焼けの中でさえぎらつく緋の目を向ける少年に、大翼の苦笑は深まるばかりだ。彼とてまだ十五歳、幼いはずである。なのにあんなにも父を困らせる事が出来るなんて……。
「困るだけなら君もそうなんだけどね」
一言ずばりと言われてしまったから、紅雛はまた蹲る他が無い。だが顔を伏せようとした時、ふと止まる。
「あ……れ?」
違う。止まってしまったのだ。強張った顔はそれ以上動く事は出来ない。しかしその中途半端な姿勢のお陰で、少年の目を見る事も出来なくなっただけ良いのだろう……彼は真っ直ぐとこちらを睨みつけている事だけは感じ取れた。
「縮こまって人の手ばかり借りてる奴なんか、この世界の何処にもいない。人はいつか成長する。俺のようにだ」
父の言葉を否定するように、彼――維新咲夜は、はっきりと告げる。
「明けぬ夜も無いように、いつまでも雛のままの鳥もいない……雛が独りで飛べるようになるまで育てるくらいなら俺だって出来る。それなら引き受けてやる」
「そしていつか僕を殺す刀にする……と?」
未だに茶化すようにつぶやく大翼に、咲夜は顔を緩ませる。だが決して笑みにはならない。
「お前を殺す刀はこの俺だ……俺が成ると決めたんだ」
それはようやく来たるべき時に到ったという、安堵にも似た歓喜だ。
「『父上』はそんな事を望んではいない。多分それは『親父殿』でもだ。だからこの復讐は俺自身がお前だけに向けたものだ。そのためにも俺はお前の娘を独りでも生きていけるようにしてやる。父親が、家族がいなくなってもな」
「それじゃちょっと勘定が合わないね……結果的に益を得るのは紅雛だよ。君はこの子をそこまでして悲しませたくないのかな?せめてそこにある打算だけは教えて貰いたいな」
感情すらも勘定の内に入れる大翼が、腕の内にいる娘を慈しむように撫でる。どちらが怖いのか、紅雛はもう分からない。
それでも咲夜は突き放すように言い切るのだ。
「打算も何も、元よりそいつが一番大損だろ。独りで生きていけるという事は、愛する喜びも知らない。いつか俺だって要らなくなる。何にせよ元から俺を愛した所で無意味だがな……俺はもう自分の道を決めている」
「無意味、か……まぁそういう事にしとくよ」
大翼は苦笑しながら立ち上がると、そのまま紅雛から離れる。
「君達の旅を助力するのは余計なお節介かもしれないけど、紅雛も僕の娘だ。財閥の凍結株……保有株全体からみるとたったの五パーセントだけなんだけど、譲渡は済ませておくよ。基本的に僕は子供達のお小遣いをその配当として出してるんだ。四半期毎だけど効率良いし、仰々しくしとけば無駄遣いさせずに済むからね」
「そんなものを預けて親父殿に使われたらどうするんだ」
咲夜は睨みつけるも、大翼は笑みを湛えたままだ。
「君は秘咲をそういう者だと思っているのかな?それに管理者は彼じゃなければ務まらないよ。こんなの世界に知られたら、紅雛の周りに色んな輩が集まる事になるんだからさ。どのみちやり方なら君より詳しいよ」
図星だったか、咲夜もついに押し黙ってしまう。それを見た大翼はにやついた笑みを見せる。
「子供達はいつだって親の気を知らないけど、それは親のせいだっていうのは僕も十分思い知ってるよ。でも君が今こうしてここにいるのも、君の力だけじゃない事は知っておいてほしいな。誰だって支え合って生きている。君も『彼』に導かれて、その道を歩いていけるのだから」
「それは……」
咲夜がなおも言い返そうとした時、もう父はいなかった……注視していたのは紅雛も同じだが、本当にいつの間にか、まるで元からそこにいなかったかのように消えていたのだ。砂浜には足跡すらない。
それでもあの手の温もりだけは本物だったのに。未だに茫然としたままの紅雛へと、咲夜は歩き出す。
「……俺も親父殿も、お前の信用に応えられるほど甘くないぞ」
そう吐き捨てながら、紅雛に手を差しだす。その言葉は父に向けているはずだが、彼は紅雛を見つめている。
「俺が好きで着いてきた訳じゃないんだろ。恋愛を期待しているなら他の男を当たれ」
「……ごめんなさい」
手を取れば、酷く冷たい。彼は寒さが苦手なのに、わざわざ冷気残る明け方の浜辺まで来てくれた。気がつけばもう東方に日が昇り、辺りには車の駆動音すらも響く。他の者達はもう新しい一日を始めているのだ。
「何で謝る。俺はお前の好意に応えられないって言ったんだ。でも例え無意味でもどう思おうがお前の勝手だろ」
そのまま紅雛を立たせるために、力を込めて腕を引く。だが彼の言葉には一片の慈悲もない。
「……私の、かって、なの?」
出来れば誰かの傍にいたい。それは好きでいたいと、そう思う事なのかと思っていた。でも違うのだろうかと尋ねれば、彼は頷く。
「そうだ……だから俺の道をお前の色に塗りかえたければそうしてもいい、っていう事だ」
「え?」
びくりと震えてしまうのは、後ろめたさもあるからだ。己の力は人の心を操れるから、容易に人を狂わせてしまう事が出来る。二ヶ月前、そのせいで大切な人を失ってしまった――。
「人はそんな力が無くたってな、誰かの心を変える事も出来るんだ。良い方にも悪い方にもだ……」
見上げれば、咲夜は呆れた顔をしている。
「そんな力を使わなくても、独りで生きていけるようにしてやるって言ってるんだ。その結果俺の道を変える事になっても、俺が怒るじゃないって事だ。分かったか?」
「……うん」
怒られる事が怖かった紅雛は、それでも震えが止まらない。だが咲夜がその肩を撫でてやると、少しだけ震えも緩やかになる。
「風邪引くぞ」
「……うん」
寒さだけでもないはずだが、少し気も楽になったような心地である。それでも立ちつくしていた紅雛を、咲夜は溜息をついてから抱き上げた。
「ふえっ……?」
「こんな冷たくなるまで外に居たら、ろくに動けないだろ」
そのまま咲夜は家の方に歩き出してしまう。もうそれ以外の道から遠ざけるかのように。
「……こんな様で俺の心を変えようとするなんて馬鹿げてるな」
溜息じみた声でつぶやく彼の目は、もう赤くない。少し暗い緑の、彼の本当の瞳の色だ。だが遺伝性の弱視であるその瞳には、何も映っていない。多分無様な姿の己もだ。
こんなどうしようもなく弱々しいから、何時まで経っても力を捨て切れずにいる。本当に独りでも生きていけるのだろうかと不安に駆られたが、制御者である咲夜はその特権を行使して、紅雛の胸の内すら読んでしまう。
「不安になるのはまだ早いだろ。俺達はやっと大翼からも認められて旅だったばかりなんだぞ」
「……そうなの?」
「そうだ。お前はアイツから離れたい、俺はアイツを殺す。俺の傍にいたいのなら、最後まで付き合えよ。俺からの条件はそれでいい」
「う……うん」
ぎこちなく頷くと、咲夜は紅雛を下ろす。紅雛の母方の親戚が手配してくれた家は、二人がしばらく滞在するのには広くも狭くもない十分な広さである。ここでまずは、日常生活に慣れていくのだ。
「それ以上の事はお前次第だ。何だってやってみなければ分からない」
扉を開けながら、咲夜は紅雛の背を軽く叩く。
「例え目の前が暗闇でも前に進むしかないんだ。灯火は真っ先にその道を探し当てるだけだが、それでも無いよりはずっといい。お前は自分の行きつく先、その果てに続く道を見つけるんだ」
少しよろけてしまったが、咲夜は何もしようとしない。
だが倒れまいと、無意識に自分の右足が前に出る。
「それを見つけて突き進むには色々と準備する必要があるんだ。俺が出来るのは精々、進むために必要なものを揃えて、その道にある障害物を掃う程度だ。自分で見つけた道くらい、自分の力で歩け。いいな?」
「……うん」
何とか体を支えて、もう一歩前に踏み出す。やっと揺らぎと震えが止まった所で、紅雛は頷いた。
未だに何がしたいのか分からない紅雛には、その道も見えない。だが見たいもの、願いはあった。いつか心休まる所に、誰かと共にいたい。その誰かが咲夜であるのなら、尚の事良いだろう……。
「……お前、何で俺がいいんだ?」
そこで咲夜は、最大の疑問とばかりに言い放つ。
「私利私欲で《石の欠片》を使わない善人は俺の他にもたくさんいるはずだ。それもアイツの思いこみかもしれないだろ」
「……分からない。でも、あなたがいいの」
父の思惑である可能性が高いのは、紅雛も承知している事だ。咲夜は明らかに父の望むべき男だ。それを都合の良いように操作されているのは疑って当然だ。何せ己にこんな力を与えたのだから。
「……でも、傍にいたいの」
それでも離れ難くて、咲夜の袖を掴んでしまう。
「出来るなら、ずっといたい。そんな道を探しちゃ、駄目?」
「……出来るものならやってみろ。さっきも言っただろ」
だが咲夜はその手をすぐに振り払う。
「ただしその便利な力を使わずに、だ」
「うん……」
分かったと、紅雛は頷きながら、また袖を掴む。本当に分かっているのかと咲夜は顔をしかめる。
だが今度は振り払わずに、ゆっくりと腕を引いて家の中に招き入れた。
今は迷わぬよう、導いてやるように。
<了>
●神無暦二五七一年四月・マクレガス諸島
黎明、そして旅の始まり