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第一幕:紅く染まる空の下で~at the twilight~

※この作品群は第13回スニーカー大賞第一次予選通過作品『Elemental tales~The ugly duckling~』、及び第3回小学館ライトノベル大賞投稿作品『ソウランノスエ』を原作(両作品とも執筆者は、当作品群の執筆者である春明狐です)として再編成、執筆、公開したものです。





 東の空より昇る日に目を焼かれ、私の視界は瞬く間に紅に染まる。

 けれど彼女は蒼空の巫女。その先で健気に佇む姿を見るために、私は――。




「ん……?」

 ……寝不足、だろうか?

 誰も見ていないのを良い事に、こっそり目を擦る。微かに視界が赤く色づいたように見えたが、窓の外を見やれば、日が西へと傾き始めている。

 摩天楼の一角の最上階から眺める景色は悪くない。だが『良い』と言えないのは、遥か彼方にある地平線へと続く眼下の地は、原生林の緑でなく無機質な建築物の鋼色に染まっているからだ。とはいえこの十五年、故郷の変化をここで見つめ続けている男には、もはや怒りは無い。あるとしても、既に干乾びている。

 その『元凶』が籠る執務室の警備……それがウイノ=カリダの仕事である。

 今年で四十五になる彼のやるべき事もまた、それくらいしかない。家族は居たが、既に傍にはおらず、忙しい日々を淡々と過ごすばかりだ。

 その執務室の主はウイノの故郷を荒らし、その上に己の王国を築きあげた成功者であった。もちろん少しは学もあるウイノだから、そのような者が世界にたくさん満ち溢れている事は知っていた。そして己の故郷すら、かつての誰かの王国であった事も。

 無論そんな当たり前のような摂理も分かっているから、ここに居ても何も思わない訳では無い。単純に、彼には生きる術はあっても、雇い主がいなかった。以前働いていた所は、今はもう王国の下で朽ち果てている。

 かつての自然豊かなイスア大陸――母たる地神ラスタの寝床を守る、巫女にして侍女イスアの名を冠したその地は、温和で慈悲深い彼女の性の通り、何処よりも穏やかな気候であった。たくさんの実りに恵まれ、豊穣を寿ぎ神々に感謝し、多く神話と伝統が生まれ、今日にも広く伝わっているのだ。

 だが文明の進化にともない、そうした古き良き伝統を捨てる者も増えている。かつてのウイノ少年はそういう家庭で育った。神々は確かにここにいて皆を守り救うのだと、学校の先生すらそう言っていたが、『その救いも時として人の力で行わなければ手遅れになる』という持論はついに捨てなかった。

 その根拠としてウイノ少年は、その持論を持って学校を優秀な成績で卒業する、という事で確立しようとし、見事に成した。他の大陸の上級学校へと進み、同じ持論を持つ友人をたくさん持ち、多くの知識と技術をその身に収めて故郷へ戻った。

 その頃になれば、『自分は正しかったのだ』という頑固な主張こそ愚かだとも理解している。古い伝承に浸りたければそうすればいいと、半ば投げやりな思いを持ちながら故郷で職に就いた数年後、彼は一人の女性と巡り会う。

 長く続いた伝統を深く重んじ、神に敬愛を抱く美しい女だった。容姿だけでなく、彼はその気高さと柔軟な心に惹かれた。

 『柔軟』というのは、彼女は神々の中で、父たる天神イヴァンユズアを奉じる者――世界でも中央に座し、ラスタの聖地とすら謳われるこの大陸で生まれたというのに、他の者と違う信仰を持っていたからだ。

 彼女は空に祈りを捧げながら、歌うように言っていた。『イヴァンユズアとラスタは夫婦神、この自然は彼らが作りあげたのだから、どちらが欠けてもならない。同じように、古き言い伝えと新しき教えも、一つとなってこれからの世界を作りあげているのだ』、と。

 家事手伝いばかりして、ろくに学校も行っていないのに、彼女は自然から真理を得ていた。ウイノが奉じる新しき教えも何もかもを受け入れて、彼女は穏やかに笑うのだ。この天も地も一つであれ、感謝はその全てに捧げよと。

 ウイノの家族は元々伝統なぞどうでも良い性質だし、彼女の家族も少しは恵まれた家に嫁げるのだからと、とりあえず二人の結婚は祝福に満ち溢れたものとなった。妻となった彼女はウイノの生活を穏やかにさせ、ウイノもまた一層仕事に熱心になった。

 ウイノはこの自然に住む生物の生態を研究しながら、それらを狙う密猟者達を狩る武装学芸員だった。伝統までとはいかないが、ウイノはこの地を愛していたから、この地に戻ってきたようなものである。妻もまた、密猟を妨害しようとして男達に襲われている所をウイノが救ったという顛末だから、その仕事に理解を示してくれる。

 全てが順調だった。幸せだった――奴がこの地に来るまでは。




 ――それで幸せだったの?本当に?




 虚空から響く声に、ウイノは頷く。間違いなく幸せだったのだ。程無くして生まれた娘も、それは可愛いものだった。あどけなくもしっかりした面構えは母にとても良く似ていた。今でも瞼を閉じれば、すぐそこに――。

「カリダ、私は少し出かけるから、留守を頼む」

「……承知しました」

 と、己の耳の鼓膜に直接叩かれた声に気がついたウイノは少し体を動かし、静かに頭を垂れる――本当は長時間の直立不動のせいで立ちくらみを起こしていたのだが、仕事に慣れた彼に隙は無い。そんな彼を特に気にする様子も無く部屋から出てきたのは、上等な生地の服で身を固めた主である。

 名はフローレン=サウ・ブルーダ。他の大陸から渡ってきた男だ。その地では上流階級の者であり、『サウ』はその五段階のうちの三番目に偉い階級の家の出だという事を示している。ウイノも留学中にそういう者がいると学んだが、実際に見たのは彼が初めてだ。

 見目麗しい金髪青眼……かつてこの大陸を開拓した者もまた、外から来たこの人種である。彼女の言う『新しい教え』に最初に帰依した彼らは、瞬く間に勢力を広げてこの現代社会を作ったという。

 そして原住民であったウイノ――銀髪紫眼の人種を奴隷として人的搾取を行い続けてきたが、数百年も経てば少しは情勢も変わる。主達の下で虐げながらも学び続けてきた先駆者達が、己の故郷を資本とした事業を立ち上げ、次々と成功へ導かせた。今ではイスアで栄える企業の長の七割が原住民の血を引いているそうだ。

 しかし世界が商売相手の大企業となれば話は別である。別の大陸から圧倒的な資金を持って新しい事業を展開する親会社は今でも多い。そんな会社のうちの一つが、ブルーダ貿易商社である。世界から見れば規模はそこそこだが、イスア大陸の発展途上国を占拠するくらいなら造作も無い。

 ウイノの故郷たるその国は自然豊かな農業立国であるため、そこに目をつけたのだろう。商社は瞬く間に、国の交易すらも独占してしまい、今では政府の方が高い関税を商社に払っているほどだ。

 とはいえ元より自分達では交易すらままならない。それゆえに国は自らの資本の切り崩す羽目となる。真っ先に切り捨てられたのは、保護出来なくなった野生の生物達――商社の本来の目的でもある彼らだ。この商社が密猟者らの良き取引相手だと、ウイノが知ったのは勤め先が商社の圧力で潰された後である。

 『どうして抵抗しなかったのですか?』と、妻は何度も、悲しげに聞いてきた。しかしウイノはそれに耳を貸す暇などない。再就職先を探すのに必死だったのだ。学芸員なぞ、もはやこの国には必要ない。

 求められていたのは商社の水夫くらいだ。だが、同僚達も職を失った元凶に頭を下げるつもりなぞ無かろう……などと半ば茫然としていた矢先の事だ。別の大陸で出来た古い友人が、ウイノの境遇を見かねて声をかけてくれたのだ。

『お前の経歴なら、元学芸員でもブルーダの護衛になれるだろう。良ければ口聞きするぞ』と。

 その友人はどうやら、ウイノをブルーダのやり方に賛同した者だと見ていたようだ。その彼とて新しい教えの献身な信者であったがために、今や別の大手企業の幹部候補である。

 何であれ故郷の発展を優先すべきだ、と……外の者ならばそう思うのだろうか。

 では、己は――?




 ――貴方は、どう思っていたの?




 問いが重なる。しかし結局止む負えない状況に流されてここにいるウイノには答えられない。

 いや、きっと思っている暇すら無かったのだろう。ぼんやりする頭を軽く振ってみるも、不快な気分は未だに晴れない。

『主任……!主任!』

「……どうした?」

 だがやはり今回も状況が待ってくれなかった。物思いから数瞬立ち直ったウイノの耳飾から、苦しげな声が聞こえてくる。無論ただの宝飾では無い。

 イスア大陸は鉱物の産出国である。宝石も数多く産出する中、比較的最近掘りだされたのが、『チアニム』という鉱物である。

 金属の形状記憶効果だけでなく、制御記憶効果――その鉱物に制御命令や現象を記憶させる事も可能であるその鉱物の発見は、冶金だけでなくあらゆる産業に影響を及ぼした。それが今から約八百年前に起こった『産業革命』である。

 東方の国では『生きている塊』という意味の言葉を用いているらしいが、そちらの方が分かりやすいとはウイノも思う。

 ある研究では、人の声のように、チアニムも特別な波動を発しているらしい――その波動に乗った部下の声は、鉱物に刻まれた指示通りにどんなものすらも遮られる事もなく、ウイノの耳に届く。吐息すらも生々しく聞こえるから、彼の荒い声で何が起こっているのかはすぐに察しが付く。

「しゅ、襲撃、です……一人、ですが……かなりの、手練です……」

「……分かった。すぐにそちらに行く」

 顔を険しくしながらも、ウイノは冷静に手持ちの武器を確かめる。軽く右腕を上げて袖をまくれば、チアニムがはめ込まれた腕輪……形状記憶を利用して、普段は腕輪の形をしたそれに軽く触れて囁く。

「【展開】」

 指紋認証と音声認識、それらを受け取ったチアニムが予め登録された形状を成す。ウイノが武装学芸員だった頃から愛用しているものは、鉄甲――彼の両手首と両足首に装着していたチアニムの輪が、手足を守る籠手と脛当に変わる。だがこれはただ守るだけのものでは無い。格闘術も心得ているが故の装備なのだ。

「侵入者は何処にいる?」

『今はっ……二十階、と。既に、昇降機は、止まって……ますが……』

「おい、お前、怪我しているのか?」

 荒い息とはいえ、どうも様子がおかしい。非常用階段で慎重に降りてゆくウイノが尋ねれば、何処かにいるはずの部下は苦い声を漏らした。

『う、腕と腹、を……やられ、ました……今は、五階の、警備室、に』

「姿は捕捉しているのだな。映像を回してくれ」

 重傷だがそれでも職務は果たすつもりらしいと、あえて厳しい声で命じる。そして耳飾に軽く触れる。

「【展開】」

 同じ言葉だが、変化が生じたのは耳飾の方である。水色に色付けされたチアニムの結晶が薄く延び、ウイノの目を覆う。限りなく澄んだそれは透けてウイノの紫眼と混ざって藍と成し、その裏側に転送された情報を映し出す。

「……これは」

 フローレンの強行に反抗する者は多いから、これまでに何十人もの侵入者を、ウイノ達警備員が未然に排除してきた。しかし己が異変に気づく前に、二十階まで攻めているほどの強者は未だにお目にかかった事は無い……主が不在なだけ幸運だろうと割り切りたい所だが、逃せばまたやってくるに決まってる。

 その前にここで仕留めるべきである。だがその映像を見て、ウイノは険しい顔をつい緩んでしまった。

 正確には拍子抜けしてしまったのだ――そこに映っていたのは、まだ若い青年だからだ。

「……東の、者か?」

 今のウイノと同じく、映像投射用眼鏡で覆われているため顔は判別出来ない。ただ墨のような黒髪は、東方の大陸の原住民、黒髪緑眼人種の血を引く者の特徴だ。若いと見たのは、しなやかで引き締まった筋肉すら垣間見える、締め付けるような黒の防護服が良く似合うからだ。四十を越え、元より大柄で多少の脂肪も乗り始めたウイノでは到底着られないものである。

「武器は……剣、いや、刀、だったか」

 極東の国で作られるという反りのある剣は、主に剣術を重んじる者が良く使うと言われている。つまり近接戦に長けている――同じ長所を持つウイノにとって、なかなか楽しめる相手には違いない。

「楽しめる、か」

 そう思いかけて、ウイノはふと自嘲を漏らす。護身術程度にやっていた格闘術は、日頃の鬱憤を晴らすためにも悪くない趣味であった。それを職で使えるようになるまでには少しばかり苦労したが、自分の体作りを楽しみながらやれた事だから、上達は早かった。

 それは護衛にも即採用が叶う程度のものである。家族を養う身としても、雇い主が出してくれた条件はとても魅力的なものだ。それなのに――。

『どうして、どうしてそれを選んで、しまったの……?』

 低く、悲痛の籠った声音を思い出して、ウイノは思わず頭を振る。

「……全く、今更……あんな事を思い出して」

 今日はやけに昔の記憶が思い浮かぶ。しかしやる事など仕事しかないから、家に帰れば思い出に浸る時間の方が多い。未だに最愛の娘が描いてくれた絵を広間の良く見える所に貼っているくらいには、未練もある。

 彼女たちが遺してくれたのは、それと数枚の写真だけであった。入社が決まったその日、妻は幼い娘を連れて家を出て、数年後に亡くなった。貧しい実家を支えるべく小さな店の手伝いをしていたそうだが、店主の扱いが酷いせいで、過労で倒れたのだ。

 ――思いだせるのは、赤い空。もう彼女と見たあの青い空は思い出せない。

 瞼に焼きつく黄昏を振り切るように、目をそっと開く。

「……酷いな」

 現実は妄想よりもずっと酷いものなのは、学校に行けなかった妻もまた、嫌でも分かってしまっただろう。とはいえウイノが見続けて来た世界は、彼女の清浄な世界とは違う。妬みと痛み、そしてその果てにある惨状である。

 こんな所まで来たくは無かった。だが己は父たる空に仕えていないから、飛んで逃げる事など出来やしない。心身共に傷ついたまま荒れ地を彷徨い、それでもこの地に芽吹いた可能性という子を愛おしく見守り続けた結果、ここに辿りついてしまった。

「……お前は、何処から来た?」

 二十三階にある大会議室――椅子と机を丁寧に積み重ねて隅に退かしておき、己の領域を作って待ち伏せしていたらしい。映像の青年はたった一つ手元に残した椅子に座って、最後の一人であるウイノを出迎えた。

 だがウイノが容易に近づく事は叶わない。二人の間には大河が横たわっている。先に到着し、屠られ、倒れ伏した警備員の鮮血を水源にした大河が。

「【イスアの使い】だ」

 青年は低い声でぼそりとつぶやいた。その名は正しく商社や政府に対抗する、抗議団体――本来は自然保護団体になるべきはずだった古き教えに従う者達を指す。ウイノにとって、もはや馴染み深い刺客達だ。

「そうか……雇われたのか」

 彼らの中にここまでやれる手練なぞいないのは、彼らと戦い続けたウイノなら良く知っている。埒が明かないから、とうとう傭兵でも雇ったのだろうかと思いかけたウイノだが、青年は首を横に振った。

「違う。この間入った」

「この間、だと……それにしては」

 その淡々とした声に、軽率で早急なものも混じっている。察したウイノはつぶやくも、青年は椅子から降りて血だまりへと足を踏み入れる。

 ぴしゃんと軽い水音くらいは立てるも、かつてウイノが見た誰よりも、恐ろしく静かな足取りである。

「俺はこの地の情勢なんかどうでもいい。だが同胞の嘆きは聞き入れる」

 静かなくせに、その吹雪の如き激しく冷たい声音にウイノですら物怖じしてしまう。少なくとも場数はウイノと同等、もしかしたらそれ以上かもしれない。だがそれでもウイノとて自尊心はあるから、己を叱咤して無理矢理口を開く。

「……自然を愛するのは良い事だ。だが結果として人である私達が首を絞める事になるのだぞ」

 巡礼者のような立場なのか。何となく見通しは立ったものの、今知りたいのは彼の信じるものよりも力量の方である。警備員と言っても、今倒れている者達は元軍人や傭兵等の経歴も持つのだ。それをここまで呆気なく倒す彼の実力は底知れぬものだ。

 だが慎重に距離を詰めようとするウイノに対し、青年は鮮血の川を堂々と、しかし足早に横切る。その姿は巫女の使いより、命尽きた者を暗黒の世界に引きずりこむ悪神ノクサの手先のようである。

 その漆黒の影が、左にわずかに揺らめき、傾き――左に手にしていた鞘から刀を引き抜く。

「ふっ……ぐ!」

 放たれた刀は視認出来なかった。だが切り上げられた刀は手甲に当たってガキンと音を鳴らす。ウイノが長じるものはもちろん戦い抜いてきて得た経験という名の勘であるが、実はもう一つある。



 この世界にはかつて万能たる神々がいた。彼の御柱は己の似姿と意思、また生誕の祝いとして、己の万能たる御技の一つを享受する権利を授けた。

 神が消えてもなお、その権利は廃される事なく、生れ出づる全ての子供達に分け与えられ、御技を一つずつ戴いた。

 そして人は、天寿を全うした際に、神に御技を恙無つつがなく返す事が出来て初めて、生を終える事が出来るという。



 それが正しいかどうかは分からないし、確認する術も無い。だが少なくとも一つ正しい事はある。他人が一生かかっても実現出来ないのに自分ならば生まれてすぐに出来るものが、必ず一つあるという事だ。

 ウイノの場合、それは柔軟な対応力であった。人はそれを『お人よし』や『優柔不断』と悪い面でばかり捕えていたが、実際はそうではない。彼女の教えに同情したのでも、ましてやフローレンの野望に共感したのでもない。

 単に、それに対応出来るくらい、完璧で隙が無いのだ。

「くっ……!」

 反射神経が良い、空気が読める――だがフローレンが採用してくれたのは、隙が無いからこそ、己の護衛にすれば安心出来ると見ているようである。妻を引き止められない男をそんな風に過大評価するのはどうだろうと思ってしまうのは、自責の念も込められているからだろうが。

 正に神がかった反射神経が、青年の猛攻を防ぎにかかる。その性質通り、防御に長けたウイノであるが、青年の剣術は思っていたよりも凄まじい。

「……まだ、受けられるのか」

 青年の声は表情と同じく乏しいが、勢いだけは違う。血だまりの跳ねすらも厭わぬ突進は、盤石な体勢で受けたウイノですらも押し負けて、後ろへと退く。

 それなのに青年は想定外とばかりにそう言うのだ……若造のくせに、と呻きたくなるのを堪えて、言い放つ。

「【強襲】!」

 ただしその言葉は青年への罵倒でなく、己のチアニムへの指示だ。人と自然を繋ぐ媒体とも言われるチアニムは、かつて世界に留まっていた神々の加護の欠片が降り積もり、三千年もの時間をかけて鉱物と混ざり合って生まれたとされる。その媒体の役割を果たし、神々の力を顕現させる事も可能という、正に神々の加護の結晶たるそれを武器として使うのは、ウイノもあまり気は進まない。

 だが有効なのは確かである。籠手は瞬時に加速器を生やし、人一人の力では届かない高速を持って、青年に殴りかかる。

「はあぁっ!」

 渾身の力を込めて、反発する大気すらも押さえつけるように拳を振るう。神がかった反射神経を持っているからこそ、ウイノはこの速度を制御する事が出来る。先手必勝とは良く言ったもので、これでウイノは数々の敵を屠ってきた。そしてこれからも、老衰で体がついていけなくなるまで、これで凌げると思えるのだ。




 ――貴方はそこまでして、自分を傷つけようとするの?




 か細くも凛とした声が脳裏に響く。

 だがそれでも止まらない。止められないのだ。

 例え、青年に届く一歩手前で、見えない何かに当たったかのように拳が弾かれても。

「なっ……!」 

 感触は無いが、ただの不可視の障壁という訳でも無さそうだ。勢いを殺されてがくんと垂れたウイノの拳をかいくぐり、青年は一気に間合いを詰める。

「うっ……!」

 しなやかに伸びた腕が、刀が、ウイノへと迫る。防護用の上着とて、この刃の前では血だまりに沈む者達のように、やすやすと斬り裂かれてしまう代物である。

 もはや避けるしかないと、生存本能が勝手に体へ後退を命じる。一歩では足りないと、二歩三歩四歩五歩……初めて対峙した時と同じ位置まで、ウイノは逼迫ひっぱくしながらも軽く調子のついた足取りで飛びのく。

 ぱしゃんと、部下の血が飛沫になって跳ねあがる。だがウイノはそれに懊悩おうのうする暇も無い。

 代わりに眉を寄せたのは青年の方であった。

「……早いな」

「……お前こそ、何なのだ、それは」

 動揺で乱れた息を整えつつ、ウイノは改めて青年を注意深く見つめる。

 防護服は見せかけ、本命の『装備』はそれよりも分厚いものだったらしい……彼が刺客として選ばれた理由は良く分かった。ウイノの反射神経をもってすれば、遠距離攻撃はほぼ無意味である。近距離攻撃に長け、かつ絶対的な防御が出来る――正に同じ種の彼ならば、ウイノに対抗出来ると考えたのだろう。

 しかし実際は違う。彼は自ら突進を厭わぬほどの攻撃性と天性の感覚を持つだけでなく、防御も完璧だ。当たればどうしようもない己と比べれば、少し気を抜いても――。

『少しお休みになって……たまには気を抜いても良いのに』

 まだ幸せだった頃、妻は良くそう言っていた……違う。己がずっと張り詰め過ぎていたのだ。

 家に帰っても学芸員の仕事として資料ばかりに構い、偶の休みで家族に旅行に出かけても、現地の害獣指定の生物の生息情報ばかりを眺める有様だ。そんな己を慮って、色々と苦心してくれたというのに。

「……さぁな」

 そんな物思いなぞどうでも良さそうに、青年はつぶやいた。何ともぶっきらぼうな物言いである。

 思っていたよりも幼い――拍子抜けした心地を覚えた途端だった。それを逃すまいと、青年が距離を詰めて来たのだ。

「ちっ……」

 青年は忌々しく舌打ちする。咄嗟に片腕で受けとめられたから良いものを、青年は確実に己の呼吸を掴み始めているようだ。苦々しい顔をついしてしまうウイノは、改めて集中する。

「面倒な奴だな……」

 青年のつぶやきに、ウイノはつい苦笑を漏らす。

「お互い様だ……お前は戦いにくい」

 世界には多くの言語があるものの、チアニムの耳飾が自動的に翻訳してくれる。同じように翻訳した言葉を聞いたのか、青年は口元を歪ませる。

「それでは駄目なんだ……」

 何で?と言いかけようとするも、結局それは叶わない。青年は再び刀を打ち付けて一歩退くと、血だまりでも力強く踏みつけて突進する。

 若いとは羨ましい。うっとりと溜息すら漏れそうになるも、それを堪えてウイノも迎撃すべく腰を低く落として構える。




 ――どうして貴方は、ここにいるの?




 再び聞こえてくる問い掛けの声。

 留学していたと言ったら、妻は不思議そうにそう言った。己の事を理解してくれたから、余計に奇妙だと思ったのだろう。だがそれに腹を立てるはしない。そんな質問は過去に何度もあったからだ。

 味気ない都会の高層建築物に見慣れてしまっても、己の心はいつまでも故郷にあった。そして興味のある事が思い切りやれる所でもある。でも本当の所は良く分からない。義務でないのだから、違う所でもやれたはずなのに……。




 ――違うよ。どうして貴方は、今『ここ』にいるの?




「今……?」

 思わず漏れたつぶやきもまた、青年は逃さない。

 だがそれは、先程とは全くの別物だった。遮二無二に駆けだした彼に余裕は見当たらない。

 状況は先程とは変わっていない。では変わったのは青年の方……時間切れか?

 とはいえどんな理由であれ、ウイノはここを死守するだけである。部下の復讐もそれで事足りると冷静に割り切れるくらい、己は決断力も優れている。

 ただ一つ、引っかかる事はあった。己は何故、『ここ』にいるのか――そういえば、その質問をされたのは初めてである。

「さぁ、何でだろうな」

 答はコイツの後、ゆっくり考えよう……いや、今、コイツを倒すためだけにここにいるのかもしれない。

 フローレンの留守居を務めている身だからこそ、そろそろここで決着をつけるべきである。青年の若い猛攻を年と共に重ねた経験で受け、攻める。

 踏み出して猛攻を弾き飛ばした反動で、青年の体がわずかに浮く。その隙をもウイノは逃さず、青年の腹に思い切り拳を叩きつける。

「がふっ……!」

 今度こそ拳は青年の内臓へと衝撃を与えた。口から胃液と鮮血を吐き出して、自身が作り出した大河へと叩き落される。

 加速も付いた拳である。防護服があってもしばらくは動けまい。仰向けで倒れた青年は意識があっても、呻きを漏らす。

「く……本当に、隙が、ないとは……」

「これが神の加護だ。悪いな……」

 ふと血だまりを見やれば、衝撃で耳から外れた耳飾が目につく。それこそチアニムの結晶だからか、あったはずの眼鏡が無かった。その下の素顔は、やはりうら若い青年である。二十歳前後、と言った所だろうか……。

「……な」

 そこでウイノは初めて気がついた。苦痛に歪む青年の瞳の色は、黒髪にはつきものの緑では無い。

 彼が身を沈める血の大河と同じく、毒々しい緋色だったのだ。

「お、お前っ……『憑かれ者』、か?」

 この大陸ではそう呼ばれているが、学術的には『憑依体エンカート』と、呼ばれている事を、かつての留学生のウイノはもちろん知っている。

 約四百年前に起こった大災害――その時に仮想空間から湧き出てしまった『意思無き存在』、『生きている命令』、とも呼ばれる『概念生命体マーグロップ』こそ、現存する有機生命体を脅かす脅威である。彼らの体は二次元の情報から出来ており、あらゆる生物に影響を及ぼし、変異を起こしてしまうのだ。

 エンカートとは、そんな彼らに自身の遺伝子情報を『喰われた』者を指す。大抵は無抵抗な胎児の頃に外部情報として成長のつもりで取り込んでしまい、その多大なる影響が生まれついての外見的な特徴にまで変化が生じてしまう。無論、上手く適合出来ずに死に至る退治も少なくはない。

 ただし、マーグロップは自身に敵対しない限り、人に害を与えない。すなわち人に積極的に干渉して害を与えようとするものは、危険な悪霊に違いない……といった差別意識は今でも根強い。

 そんな思い込みがなくても、既にある神の加護の他に、さらなる恩恵まで貰えるなんて『ずるい』と思う者もいて、特に義務教育期間での校内差別はなかなか減らないのだ。

 ウイノとて今更差別意識は無いが、こうして実物を見るのは片手で数える程度である。だが驚きはあった。あの【イスアの使い】は彼のような悪霊つきとも言われる者を受け入れているとは到底思えなかったからだ。

 何故ならばエンカートが悪神ノクサの信者であるという昔からの噂話は、宗教関係者ならば良く聞くからである――しかしそういえば、彼は『同胞の嘆きは聞き入れる』と言っていた。

 なら、この彼は……と声を漏らそうとした時である。




 ――悪霊なんかじゃない。精霊イラフも、生令マーグロップも、皆この世界で生まれたのに。




 そのつぶやきには、生々しい嘆きが込められている。それをウイノははっきりと感じ取った。

 もしや、さっきから聞こえてくるこのつぶやきは、己の追想でなく他の誰かの『声』なのか……しかし今更気がついても、ウイノはそれを振り払う事は出来なかった。

 『皆、この青空の下で生まれたのにね……どうしてなのかしら……』

 密猟者の凶弾に当たって息絶えた小動物を抱きながら、妻は涙ながらにそう語っていた。彼女は密猟者すら同じ人だと認めていたくせに、どうして商社に入った己を責めたのだろう。そんな疑問も今更沸き上がるが、既に……いや、遅くは無い。

 何かとてつもない思い違いをしていたようだと、ウイノは青年が未だに起き上がらない事を良い事に、チアニムでフローレンの行方を探してみる。

 生存確認くらいなら、フローレンが持つチアニムの反応を見ればすぐに分かる。そしてその反応は、会社から少し離れた料理店にある……フローレンは自社の異変なぞ知らずに、早めの夕食を楽しんでいるのだろう。

 だが安堵は浮かばない――この彼の力量なら、つい先程外に出たフローレンを暗殺してもおかしくないのだ。なのに彼は今、ここにいる。

 ならば、そもそもの目的は何なのだ。己ですらもようやく納得した疑問を手に入れて、ウイノは青年に詰問する。

「お前は、何でここにいる……何が目的だ!」

「う、ぐ……」

 余程打ちどころが悪かったらしい。腹に手を当てて呻いている青年の胸座むなぐらを掴みたい所だが、用心に越した事は無いと近づくのを躊躇ってしまう。

「フローレンならここにはいないぞ!どうして、お前はっ……私と戦おうと……!」

「……フローレンが、死んだら……この国は、終わる」

 一瞬の沈黙の後、青年はやや声を詰まらせながらもそう答えた。情勢なぞどうでも良いなどと言っていたが、現状はそれでも把握していたようである。

「分かっている、のなら……もしかして、ここに用があるのか?重要なものなら、フローレンが……」

「奴が持って行った、と言うのか……普通なら、庇う、だろ」

 ようやく痛みが落ちついたのか、青年は血だまりから起き上がる。声はまだ詰まっているが、苦しそうな表情はもはや無い。

「それともお前は……奴が死んでも、いいって言うのか?」

 青年は柘榴色ガーネットの目をおかしそうに歪めている。嘲りすらも含まれる余音の残る声に、ウイノは拳を握りしめて睨みつける。

「そうではないっ!お前は、何をしにここに来たと言っているんだっ!」

「……殺しに来ただけだ」

 劣勢ながらも、真っ直ぐと見つめる青年の目は迷いも濁りも無い。だからこそウイノは改めてその目が恐ろしいと思ってしまう。

 最初に仕事だからと短く言い切った青年の視線の先には、己がいる――。

「……まさか、私を殺しに来たのか?」

「そうだ」

 己を殺すと言われて、ウイノはただ目を見張る他が無い。

 いつもはフローレンが標的だから、彼を守らなくてはならないという手間がある。だが今回は己を守ればそれでいい。

 そう、いつもより簡単では無いか。しかも今、この凶手は負傷もしている。彼を倒せば全てが終わる。

 ――なのにどうしてか、気持ちが落ち着かないのだ。

「……お前、何でも他人事だったんだな」

 年下の彼は、腹を撫でていた手で、再び刀の柄を握りしめている。

「恨みも妬みも全部、他人に任せきりで……そんな人生で良かったのか?」

「その分軽くて、動きやすかったがな」

 そういえば今の仕事も友人が斡旋してくれたものであったなと、自嘲じみたものがこみ上げる。

 とはいえ流されてきたつもりも無かった。留学も己の意思で決めてきたし、この仕事とて最終的には己が決断した事だ。

 それによって家族と別れたが……しかし物思いはそこで終わる。青年の殺気はいよいよ強まってゆく。

「……羨ましいな。何処にでも行ける奴は」

「何を言う……地は何処までも続いている。そして続いている限りは何処までも行けるものだ。お前とて、遠くから来たのだろう?」

 納得した所では無いが、己はここにいる。留学しても戻ってきて、故郷の発展に尽くした。

 時には不慣れな地で彷徨う主の案内人にもなった。異国の風景に見慣れたフローレンですら、この地を美しいと言ってくれたから、それはそれでとても嬉しくて、誇らしく思えた――そんな彼が、ただ異国の地で暴虐を尽くすつもりなどなかったのだ。

 少なくとも、彼との仕事は学芸員と同じくらい、やりがいはあった……それを汚すなら、許しはしない。

「……その終着をここにしたいのなら、私が労ってやっても良いぞ」

 腰を低くして、身構える。彼の刃は己の拳よりも軽い事はもう知っている。初撃を凌げば大した事は無い――。




 ――何処にも行けないんだよ。だって、何処であっても、同じ空の下だもの。




 何処からか、悲しげな声が聞こえてくる。いや、それは先程から聞こえてくる声と同じだ。

 しかしそれは何処かで聞いた言葉でもあった。あの彼女が言った言葉では無い。

 それでも、涙ぐみながら、叩きつけられるように言われた言葉だ――。

「そう、だろうな。結局私は、ここにいる……」

 何処に居ても、故郷の地が懐かしかった。地の風景は違っても、天を見上げれば同じ光景だと気がついたのも、故郷を離れた時である。そしてあの彼女とも、空を見上げて語り合ったものである。

 故郷の地がどんなに変わっても、空だけが不変だった。まるで彼女が、変わりゆく己を嫌っていたかのように……。

「……あぁ、そうだったのか」

 理解してみれば、簡単な事だったのかもしれない。だが長年、それを思い直す事は無かった。




 ――空は、変わりたくても変われないの。どんなに色を変えたって、自分の好きなように変われないんだよ。




 その言葉すら、胸にすっと入りこんでくる。思わず視線は会議室に設けられた小さな窓へと向けられる。

 

『……私はこの黄昏は好きじゃない』

 そうごねる彼女に、己は良く言ったものだ。

 仕方ないだろう、それが自然の摂理だ。今度、あの日は別の所を照らしに行くのだよ。

 彼女は昼の青空が好きなようで、夜の星空は好きでは無かったようである。あれはあれで綺麗だから夜の逢瀬としゃれこみたいと良く思ったものだが、暗くなれば彼女はすぐに寝てしまう。実家が貧乏で灯りが手に入れにくかった故の習慣だろうが、彼女は思っていた以上に頑なな性格だったようである。

 それでも己は彼女が良かった。どうにも出来ない彼女が良かった。

 彼女さえ幸せなら何だって出来た。本気でそう思っていた、はずなのに……。


「……そういうのは、ずるいな」

 青年の声は、一層低く聞こえた。だがどういう意味で言っているのかは分からない。

 視界が赤くなる。夕焼け空は思っていたよりも赤い。

 だが彼女が好きなのは、その空の色では無い。いや、そもそも彼女が好きなのは蒼空だったのだ。

 それを一人占めにしたかったのだろうか……問いかけるものの、もはや彼女はいない。




 ――何処にも行けなくても良かったんだよ。いつも変わらず傍にいてくれるのなら……。




 ……一度行って帰ってきた己なら、もう何処にも行かずに、傍にいてくれるだろうと。

 そんな理由で選んだのなら、彼女は浅慮で世間知らずだと笑いたくなってしまう。

 だがそれでも選んでくれたのに、私は、私は……。




 見つめた先にある残照も、どんなに歩いても辿りつけぬ地平線の向こうへと落ちてゆく。

 ……それもまた摂理だと割り切れたはずなのに、一瞬早く視界が闇に包まれたのが、とても歯がゆく思えた。







「……これで、終わり……です」

 上手く言えただろうか、と。この仕事にはそろそろ慣れてきたはずなのに、いつだって緊張してしまう。

 おずおずと伏せた目を上げれば、目の前の彼女は沈痛な面持ちでそれを見ていた。

 水色のチアニムの耳飾……それは外で待っている『彼』が持ち帰ったものだ。目の前の彼女、ミィナ=カリダにとっては、つい昨日死んだ父の形見である。

「……ありがとう、ヒナ。サイカさんにも伝えておいてくれると、嬉しいわ」

 穏やかなその笑顔には、父の面影は無い。彼女はどちらかと言えば母のメティ=カリダに似ているという。

 しかし中身と才能は父から貰ったようで、十八になった彼女は姉妹都市の交換留学生として、この春、他の大陸へ行く事が決まっているという。彼女にとって、それ故の『依頼』である。

 それでも命を奪うまでは無かったのにと、居た堪れない気持ちになりながらも、ヒナこと神具院紅雛じんぐいんくれすには文句を言う権限も無ければ、彼女の苦しい立場も理解は出来ている。

 ウイノ=カリダはこの国の一部の民衆にとっては売国奴と等しい扱いであり、その家族であった母と娘の差別も酷いものであったという。そして母が過労で亡くなった後、行き場を無くしたミィナを引き取ったのが、自然保護団体【イスアの使い】の幹部が営む孤児院である。交換留学生というのも、その幹部の多少の配慮もあるようだ。

 ただしそれは十八の彼女にとっては、過酷な『取引』もあった。【イスアの使い】は長年このウイノによってフローレンの暗殺、妨害活動を阻まれていたのだ。娘ならば父の弱点くらいすぐに分かるだろうと皆は思っていたようだが、わずか三歳で生き別れたミィナが分かるはずがない。

 その頃にこの大陸にやってきたのが、あくまで観光のためにやってきた紅雛と『彼』である。一仕事終えた後の休暇であったが、仕事熱心な彼だから、その仕事を見つけるのも早かった。

「貴方達のお陰で……少しすっきりしたわ。本当に、感謝しているのよ」

「い、いえ……その、もっと、上手く、やる事が出来れば……」

 少しうるんだ目でも、はにかみながら言った彼女に、紅雛は軽く会釈を返すも、そのまま俯いてしまう。

「……ウイノさんを、殺さずに……済んだのに」

「ヒナ、それは違うわ……父とてそんな事はきっと望んではいない」

 ミィナは少し腰を浮かせて腕を伸ばすと、俯く紅雛の頭を軽く撫でる。見た目は十歳にも見えるくらい幼い紅雛だが、実は十四歳であるのは、きっと彼女も知らないだろう。指摘した所で空気も悪くなるし、何より関心は別の所にある。

「ウイノさんも、覚悟を決めていた……という事ですか?」

「きっと、私と母から離れる時に、ね。父はこの大陸の外を見て来た人だから、フローレンの良き相談相手にもなっていたでしょうね……それなりの責任感も無ければ、留守も任せられるほど信用されなかったに違いないもの」

 声はやや誇らしげに弾んでいたものの、表情は暗い。父の道のために犠牲になったのが彼女自身だからだ。

「……でもね、そんな事は、全然関係無いのよ。父の死は必然じゃなくて、復讐なのよ。あの人は私達から、幸せを奪ったのだから」

 苦労の痕は化粧の下に隠れているが、その『心』には癒えぬ傷跡がある――紅雛はそれを『見て』、痛々しそうに目を歪ませる。


 紅雛が生まれもった『もの』とは、正に『それ』である。心情、精神、思考、意志……人では上手く触れられないそれらを、容易く扱える事が出来る。扱えるという事は、見る事も、聞く事も、操る事も出来るという事だ。

 ウイノ=カリダという、生まれついての熟練の戦士には、経験則だけでなく本能という第二の絶対的な感覚がある。それを突破しなければ攻撃は全て防がれてしまう。

 ならば一番簡単で手慣れた方法を使うのが良いだろうと、紅雛はウイノに『語りかける』事により、油断させようとしたのだ。しかしただ油断させるつもりは無い。それが今ミィナに語った事である。


 記憶を読みとる事も当然朝飯前である。ちょっとした話なら事前に聞いていたが、彼の心はやはり複雑でもどかしいものであった。それでも決断して、彼は彼の務めを果たしたのだ……紅雛はちらりと、建物の十階から見える風景へと視線を移す。

 外は見事としか言えないほどの、銀の摩天楼が広がっている。この大陸では唯一の繁華街とも言えるそこは、国を挙げての貿易政策が成功してしまったがために、多くの外国人と大量の貿易品が集まる交流の場となっている。

「……もう、この国は元には戻らないわ。この先フローレンが去ってしまっても、ここには勝手に人と物が集まってしまうもの。これからますます発展するでしょうね」

 他人事のようにつぶやきながら、ミィナもまた、眩しげに摩天楼を見つめる。夕日を受けて、それらは柔らかい銀朱の光を放ち始める。

 それを彼女も素直に美しいと思っている事に、紅雛は心の底から安堵をしてしまう。

「そう、なんです。最初から、フローレンさんは……この国の発展だけを、望んでいたのです」

「……だけ、を?」

 意を決して言った紅雛に、ミィナは苦笑いをしてみせる。

「密猟者達とも取引してたのに?結果的にこうなったとしても、それだけは……」

「違うんです。ウイノさんはそれを、商社に入って初めて知ったんです……フローレンさんの事を」

「私とて、フローレンの事は知ってるわ。彼は変わった人だって。自分の金を使って美術品の修繕をしているとか……でもそれとこれとは」

 唸るミィナだが、紅雛の表情が変わっていない事に気づいて、押し黙る。最初に会った時、紅雛の力を見せつけられている手前、それを否定するのは難しいと見ているのだ。

 それくらい信じてくれる彼女に、紅雛は小さく頷く。

「はい。フローレンさんはとても変わった人なんです。たった一度きりこの国に訪れただけなのに、この国の民も救おうと思っているのです……知っていましたか?フローレンさんが取引で得た動物達は、以前からこの国にちゃんと返されていたのですよ」

「……え?」

 ミィナは目を丸くしている。紅雛は彼女の手にあるチアニムを指さす。

「きっと、それを裏付ける内部情報も、その中にあると思いますよ。ウイノさんは学芸員でしたから、ずっと観察を続けていたはずです……」

「どういう、事なの。そんなの、【イスアの使い】の皆は、言ってなかったわ」

「誰にも知らせないようにしていたんです。フローレンさんは密猟者達と『わざと』取引して、摘発していたんです。もちろんウイノさんは、最初は知らなかったんですけど……」

「そんな、事が……本当、なの?」

 もちろんそんな事は簡単に信じては貰えないだろう。とはいえ紅雛も読みとっただけで知識は追いついていないので上手く説明が出来ない。

「その、私は良く分からないんですけど……密猟者によって、市場が荒れて……とか何とか……」

「密猟者による市場の価格変動は困るから、フローレンが『囮役』を買って出た……みたいな感じかしらね?」

「う……そう、だと思います……」

 視線をずらして呻く紅雛に、ミィナはやや呆れたように目を細めるも、その胸の内は穏やかだ。

「それが本当なら……そうね、調べれば分かる事ね」

 そして再び己の手の中のチアニムを見やる。

「……あの父とて、自分の目に見える事しか信じないでしょうし」

 ぎゅっと握りしめ、溜息じみた声でつぶやく。とはいえ彼女の心に後悔の念は無い。

 父の死は自分で望み、決めた事だからと、強く奥歯を噛んでいる――それはウイノもかつてやった仕草だ。心を覗いた時、その思い出の中の彼は、全てを飲みこんでフローレンに協力しようと決めたのだ。

「この国は自然を保護するあまり、国民の保証を疎かにし勝ちだって、フローレンさんが気付いたんです……だから、交易で商業も、発展すれば豊かになるって、政府の人達ともお話して……」

「そのための町作りで公共事業も増えるから、人々の生活も良くなる……って?全く、そんな事……どうやってみんなに伝えれば良いのよ……」

 ろくに勉学も出来なかった同胞達の事を考えたか、ミィナは頭を抱えている。だが少なくとも頭の良い彼女は、理解してくれるようである。

「政府から金を取っていたのも、あくまで助成金って所かしらね……でも発展のために、大切にしてきたものを失うのは本末転倒じゃない」

「それも、大丈夫だと思います……もうすぐ、新しい自然公園の建設計画が公表されるそうで……これの原案は、ウイノさんがやっていた、そうですよ」

 全てを知ったからとて、付き合う義理はウイノには無かった。だがそれ以上関わろうとした理由は、正にそれである。ウイノは元学芸員として、フローレンの仕事にも助言をしていたのだ。

 ミィナの予想通り、護衛としても助言者としても、フローレンにとってウイノは最高の仕事仲間だった。そしてウイノもまた、命がけでフローレンと共に同じ道を歩もうと決めたのだ。

「その計画は知ってたけど、関わっていたなんてね……それで、父の汚名が雪がれると良いわね」

 だがミィナは他人事のようにつぶやくだけだった。どうしてと、心を覗こうとした紅雛に、彼女は先回りするように苦笑いしてみせる。

「私には選択肢なんて最初から無かったわ。だからこれから外の世界でこれからの選択肢を作りに行くの……って言っても、またここに戻って、父と同じ学芸員になりたいとは思っているけれどね」

「ミィナさん……」

 これから彼女は新しい世界へと旅立つから、父の名を聞く時にはここにはいない。だから彼女にとって、その苦くてもはっきりとした笑みが、最高の答えだ。

「【イスアの使い】もそのうち気付くわ。自分達が求めるべきものは、もはや争いでは無い事にね。だからきっと貴方達は必要無くなるでしょうね」

「いいんです、それで……私達は、元々立ち寄っただけですから」

 紅雛はそうつぶやいて、立ちあがる。ミィナが父の形見をしっかり握っている事を見届けて、慎ましく微笑む。

「行く前に、ウイノさんの家にも立ち寄ってあげてください。貴女が昔描いた絵も、飾っているそうですよ」

「えぇ、きっと行くわ。ありがとう……あら?」

 その目に僅かに後悔を滲ませた涙を湛えながらも、ミィナは頷く。

 しかし再び目を合わせようとした時には、紅雛の姿はもう何処にも無かった。




「ごめんなさい、遅くなって……」

「行くぞ。もうすぐ時間だ」

 慌てて駆けて来たのに、彼はぶっきら棒に言って二輪車に跨る。その姿はあの時の防護服でなく、合成繊維で出来た上下を身にまとう、何処にでもいるかのような青年である。もう春だから厚い上着も既に旅行鞄の中に押し込んでいるらしい。

「あの、【イスアの使い】の方は……もういいの?」

「また何処かで『使う』事もあるだろ。在籍希望はもうしてある」

「そう……」

 仕事の早い彼――サイカこと維新咲夜つなよしさくやは保安帽を紅雛に押し付けると、さっさと発動機を始動させる。長い狐色の髪の上から保安帽をかぶって、紅雛も後部座席に跨る。

 世界には四つの人種があると言われるが、紅雛の母は金髪青眼ジュエリア人種と銅髪藍眼マクレガス人種、そして黒髪緑眼セラトンの混血である。父は黒髪緑眼人種の純血だが、結局受け継がれたのは母方の特徴だったらしい。やや赤みがかった金の髪が、その疾走の風に乗ってなびく。

「……あの人、強かったの?」

「あぁ。まぁな……」

 咲夜は苦々しくつぶやく。それでも腹の痛みも大分収まったようで、紅雛がその脇腹にしがみついていても、痛そうな素振りは一切見せない。

「何もかも捨てられるから、あんなに身軽で隙が無かったんだ……きっとあれこそが奴の『加護』なのかもしれないな。捨てるべきものを捨てられる決断力、迷わぬ事が出来る奴も早々いないものだ」

「そう……」

 この広く何も無い大陸で真っ直ぐと繁栄への道を迷わず歩いていけたからこそ、彼はあれほど己が持つ《力》に抗う事が出来たのかもしれない。

 だがあまり思い出したくないから、紅雛はぎゅっと目を閉じる。とはいえその光景は未だ脳裏から離れない。




『彼女でなく、故郷、を……選んで……』

 己の思い違いに気がついて一瞬動きを止めたウイノを切り捨てる事くらい、咲夜にとっては造作も無い事だった。

 だがウイノはずっと、食い入るように小窓から見える夕焼け空を見ていた。己の血が流れようとも、そのせいで崩れ落ちようとも、見上げたまま真っ直ぐと。

『……結局、そういう風にしかなれないのか』

 ぽつんとつぶやいた咲夜の声音に、揺らぎは無い。死にゆく者への瞑目も無い。

 半ば夢心地で空を見続けるウイノの瞳は赤く染まり、そしてゆっくりと瞼を閉じる。

 静かに倒れ伏した彼の顔は空虚だった。何もかもやり尽くしたという満足感は無い。

 ――しかし絶望感も無かった。



「……ウイノさんは、最後に、分かったんだよ」

 ぽつりとつぶやく紅雛に、咲夜は不機嫌な声で返す。

「それが正解だとは限らないだろ。お前は死人の記憶まで見れるのか?」

「それまでは、無理だけど……でも」

 チアニムは紅雛も持っている。二輪車で風を切る轟音の中から声を拾われて半ば通信のような会話だが、耳に届く音はお互いに雑音が完全に取り除かれた肉声そのものだ。

「本当は……家族も捨てたくなかったんだよ。きっとメティさんだって、別の道を選んで欲しかったんだよ……」

「新しい選択肢を作れ、ってか……出来れば苦労はしないだろ」

 紅雛とミィナの会話も通信で傍受していたはずだが、咲夜の声には怒りも混ざっている。思わず紅雛は小さな肩をさらにすくませるも、その腕を離す事は出来ない。

 ウイノが最後まで勘違いしていた事は、正にそれである。二人はただここまで来たのではない。故郷に帰れないからここまで流れてくるしか無かったのだ。

 そして咲夜は、そんな故郷を変えたがっている――ウイノに『ずるい』と言っていたのは、誰に何と言われようとも、それでも故郷にいられた事である。

 だから彷徨うように、故郷に帰れるその日まで武者修行を続けている身である。その果てない旅路に紅雛も同行しているのはまた別の理由であるが、段々と本来の目的地への道から逸れているようにも思える。

 【イスアの使い】の件もそうである。彼はエンカート――実際にはマーグロップでない『別の存在』を宿していたから、その名称は不適切であるが――という事を隠してはいたが、己に憑く『もの』と共存し、それを許された数少ない『例』である。だからどちらかと言えば、彼は人よりも『そのもの』に近い。

 しかしそれを自覚しても、彼は人とも共生しようとしている。多くの枷を伴いながらも。

「……俺は、『そっち』に行けないからな」

「……うん」

 その『声』を聞いた咲夜は未だ不機嫌な響きを保っている。既に分かっていた事だから、紅雛もほんの少し寂寥せきりょうを混ぜて頷くしかない。彼もまた、そのために命を投げ出さんばかりの覚悟を決めている者なのだ。

 だが、そんな彼の心を変えるつもりは無い。賢いミィナも察していたように、人の決断まで左右出来るほどの力を扱うには、己はまだその名通りの雛、幼すぎる。

「でも、メティさんも……一人置いてかれて、寂しかったんだよ」

 それでも拗ねるようにつぶやいてみたが、彼はもう何も答えない。ただ無心になって、大陸を離れるための空港へと急ぐ。

 そんなつれない彼の背にしがみついたまま、紅雛は西の空を見やる。今日もまた、何人も届かぬ地平線へ、再び日が落ちる。

 伝承によれば、黄昏は天と地を結ぶ機会であり、一日の責務を終えた天の神と地の女神はその時に再会し、休息という夜を共に過ごすと言われている。空を愛したメティが夜を嫌うのは、もしかしたらラスタに対する嫉妬なのだろうか。

 そう考えてみると、メティはきっと一途に愛しい人を想い続け、己以外の誰にも彼を奪われたくなかったに違いない。

「……それは一途じゃない。執念っていうんだ」

 それを『聞いた』咲夜はぼそりと告げるも、紅雛は聞かなかった振りをして、その背に寄りかかる。



 見上げれば、紅く染まる空。その下には、一人の男が遺した摩天楼。

 残照を受けてより一層の輝きを増すのは、この地に生きる人々が迷わぬよう行くべき道を照らすためか、それとも夜を嫌う亡き妻にせめてと真昼の如き灯りを手向けるためか。そこまでは紅雛でも知る事は叶わない。

 ただ分かるのは、繁栄を約束された都市に間もなくやってくるのは、当然黄昏では無い事だ。

 ……故人を偲ぶ、優しい夜である。





 <了>




●神無暦二五七五年二月・イスア大陸某国

 黄昏、そして幕は上がる

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