第5話 会議は踊る
警笛が空を裂いた。
その咆哮に、群衆は思わず立ち止まり、空気が一瞬にして張り詰める。
水平線の向こうから、黒鉄の巨体がゆっくりと姿を現す。
海を割って進むそれは、ペルモニダの港に似つかわしくない、異国の威容を纏っていた。
やがて、格調ある旋律が風に乗って届く。
ペルモニダ海軍軍楽隊による、クラインシア国歌の演奏だった。
──それが、彼らにできる精一杯の“歓迎”だった。
「主力艦……あれは、装甲艦ですね?」
「クラインシアのカリエント・フリート──カリエント海域を管轄する主力艦隊です。単独で、レンシャーヌ、オルスティア、アル=ナスールの各艦隊を凌駕する戦力を持っている」
「……それでは、我が国の艦隊では手も足も出ないでしょうね」
「そうですね。カリエント・フリートの中核を成す装甲艦は、全部で四隻。対してペルモニダ海軍の保有装甲艦は、確か一隻だけだったかと」
その一隻も、レンシャーヌ大戦時代の旧式艦に過ぎない。
当時の設計では、船体の大部分に装甲を施していた。しかし時代は大口径長砲身の搭載砲を求めていた。それで改修で要求通りの砲を搭載した結果、船体の重量が増し、全体のバランスが崩れてしまった。航行性能は著しく低下し、近代艦との機動戦にはとても対応できない。
だからこそ、近年の装甲艦は「重要区画のみを重点的に装甲で保護する」方式へと移行している。
攻撃と速度、その両立こそが現代海戦の要諦なのだ。
「海軍力の強化は急務です。覇権を支えるのは、他でもない制海権です。貴国の覇権も制海権あってのものと理解しています。──しかし、ひとつ大きな問題があります」
「……それは?」
「造船所の数が圧倒的に足りません。そして、技術も時代に取り残されている。もし、完全に国産で新たな軍艦を建造しようとするなら──半世紀も前の多段式戦列艦が関の山でしょう」
「ですから──」
俺は、海に浮かぶ黒鉄の巨体を視線でたどり、そっと指先で空をなぞった
「クラインシアと結ぶべきなのです」
「それには大きな対価が必要なのでは?」
「……そうかもしれません」
「何を……望まれているのですか?」
「──市場です」
「市場、ですか?」
アルセッタが首をかしげる。隣のその横顔に、俺は小さくうなずいた。
「ご存じの通り、クラインシアはレンシャーヌ大戦の前後、世界に先駆けて石炭を動力とする炉を開発しました。その結果、生産力が飛躍的に向上し、“世界の工場”と呼ばれるようになった。そして我が国は、自らの植民地を市場とすることで経済を拡大してきたのです」
「……良い噂も、悪い噂も聞いています」
「ええ、まさにそれです」
俺はわずかに息を吐く。説明の続きを口にするのが、どこか重かった。
「しかし──他国でも工業化が進み、我が国の市場は徐々に浸食されてきました。もはや、我々は世界唯一の工場ではない。それでも輸出を基盤とする経済構造は変えられない以上……国は崩れてしまう」
「だから、あらゆる外国と通商を結び、低関税で自由貿易を推進する……」
「──そういう方針です。少なくとも、上の方々はそう考えているようです」
「……それで我が国の市場に目をつけたのですね」
「はい。その通りです」
「確かに……我が国は、大国同士の緩衝地帯にあります。いずれの経済圏にも、まだ深くは組み込まれていない」
「西にはレンシャーヌ、東にオルスティア。そして、海を挟んだ南にはアル=ナスール――」
アルセッタが静かに呟く。
俺はうなずきながら、言葉を継いだ。
「そのいずれとも等距離にあって、なお独立を保つ稀有な国です」
「稀有な国ですか。それが本当に実力であれば、自力で列国と渡り合える力があるゆえなのか、あるいは──ただ時代に取り残されてきただけなのか」
「祖国は堪え性のない政府でして」
「だから力づくで、ですか」
アルセッタは、小さく溜息をついた。
──刹那、乾いた砲声が空気を裂いた。
祝砲だ。形式的な、しかし確かに意味を持つ音。
気づけば、肉眼でも船員の顔が認識できるほど、彼我の距離は近づいている。
「さて……我々の出番は、もう終わりのようですね。このあとは両国の将校が握手を交わして、滞りなく幕を下ろす。貿易協定の締結は──本職の方々に任せましょうか」
俺は肩をすくめて言った。
アルセッタは、そっと頷いていた。
〇
「報告いたします。第四艦隊、モルサリオに入港しました」
「……分かった」
男は執務室で別の報告書に目を落としながら、淡々と応じた。
「本省もこの動きを確認し、貿易協定の締結に向けて大詰めの段階に入ったようです」
「ようやく、か」
「……ファルケンハイン局長。“ようやく”とは?」
ファルケンハインは小さく頷き、呟くように言った。
「あぁ……ただの言葉遊びに屈せず、ここまで四苦八苦してきた。そんな折に、ようやく軍艦を寄越してくるとは。──これで我々の仕事が一つ、終わる」
「あの政略結婚も、有意に交渉に働いていますか」
「それはどうかな」
ファルケンハインの声には、わずかに冷笑が混じっていた。
「あれは、あくまで両国を繋ぎ止めるためのものに過ぎん。個人の意志など問題ではない。国家には“メンツ”という鎖がある。そう簡単には裏切れん。──ペルモニダはな」
「……それは、祖国も同様ですか?」
問いに、ファルケンハインは鼻で笑った。
「どうだか」
そう言って、ファルケンハインはようやく一息ついた。
机の引き出しを開け、一通の封書を取り出す。
「貿易協定を結ぶにあたって、ひとつ懸念事項がある」
「……それは?」
「本省からの通達だ。“懸念の解消に資する手段”──だそうだ。これを……奴に届けさせろ」
「かしこまりました」
〇
数日後。
俺は、静かに揺れる船の甲板に立っていた。
行く先は──南のスィルマ・ハディーン王国。
そこは、世界二大宗教の一角──マリス教が支配する地。
祈りと戒律とは無縁の、炎と混沌が支配する国だ。