第3話 似た者同士
「フリーデン卿。お待ちしておりました」
鉄道に揺られること二時間弱、ペルモニダ国境付近の港町で俺は出迎えられていた。
あくまでフリーデン卿。クラインシア王家の養子になったはずだがフリーデン卿。
目の前でどこぞの執事風の男が、手袋を外すこともなく、完璧な角度で頭を下げていた。
「クラヴィツ夫人がお待ちです。……御身に変事なきこと、何より」
「……あぁ」
誰だ、と。
問いかける前に、男は背を向けた。導くように、だが一歩たりとも“隣”には並ばない。
まるでその距離さえ、秩序として保たれているかのように。
俺は男に案内されるがまま、石畳の上を歩く。
先ほどまで一緒だったはずのエディンの姿はない。気配も、音も、消えている。
気づけば──街の音すら、遠くなっていた。
案内されたのは立派な建物だった。
市庁舎だろうか。ペルモニダの国旗が風を切り、石造りの円柱の影を踊らせていた。
母国クラインシアにはあまり現存しない、二、三百年前の建築様式。形式と美の重厚さに、俺は思わず小さく息を漏らした。
と、そのとき。正面階段の上――。
そこに、見覚えのある姿があった。
白の正装。金属の装飾が差し込む陽を反射して、ひときわ鋭く輝いている。
アルセッタ・クラヴィツだった。
黒曜の髪を後ろで束ね、顔立ちはいつもよりさらに硬い。
だが、その目は俺を見ると、ほんの僅かに柔らいだようにも思えた。
「ようこそ、フリーデン卿」
彼女の声が届くよりも早く、傍らに控えていた執事風の男が一歩進み出た。
「わが主、フリーデン卿をお連れしました」
「ご苦労さまです。モントレイユ」
そのやり取りは、まるで軍の報告のように形式的だった。
だが、それがクラヴィツ家の“日常”なのだろう。整った、どこか寂しい日常。
「……ようこそ、とは随分だ」
俺がそう返すと、アルセッタの口元が、わずかにだけ弧を描いた。
「あなたはもう、我が家の人間ですから」
それは冗談か、それとも皮肉か。
判断に迷いながらも、俺は軽く肩を竦めて応じた。
「……そうか」
「そうです。……ではこちらへ。初めての公務です」
「観閲。それが初めての公務ですか」
「そうです。準備がありますので私はこれで。あとのことはモントレイユに確認ください」
俺の前で、アルセッタは一礼だけを残し、くるりと踵を返して去っていった。
白の正装が階段を下りながら翻り、まるで風だけを残して消えていくようだった。
残された俺の前には、ジャン=リュック・モントレイユ。
姿勢ひとつ崩すことなく、彼は再び深く頭を下げる。
「では、フリーデン卿。ご案内いたします」
「……その呼び方、変える気はないのですか?」
「ご希望であれば。しかし──我が主が“ローレンツ殿”とお呼びのうちは、私には過ぎた呼称かと」
静かな口調に、皮肉はなかった。
ただ、それは明確な“線引き”だった。
「……では呼び方はいつまでも変わらないですね」
「私は変わることを望みます。わが主の幸せのみが私の望みですので」
淡々と返された言葉に、俺はわずかに眉をひそめた。
「……善処するが、それを貴族に生まれた者に望むのですか?」
「わが主は少々、特殊ですので」
穏やかにそう言った執事の横顔には、誇りとも哀しみともつかぬ感情が、一瞬だけ浮かんだ気がした。
だが次の瞬間には、もう何も残っていなかった。
〇
レンシャ―ヌ大戦という戦争が、約二十年前にあった。
それは、当時の列強すべてを巻き込んだ、まさしく“世界規模の戦争”だった。ゆえに大戦と呼ばれる。
発端は、レンシャーヌ共和国の革命政権による拡張政策だった。
自由・平等・近代化を掲げるその動きに、君主制国家や宗教国家は警戒心を露わにし、干渉戦争へと発展した。
休戦と再開戦を繰り返しつつ、戦争はほぼ十年続いた。
主な戦場となったのは、ペルモニダ王国が位置するヴェリタリア半島、そして北方のアウストレグニア地方。
両地域は深く荒廃し、いまだ統一の遅れを引きずっている。
有力な諸邦が複数存在しながらも、どちらも“ひとつ”になれないのは──偏に、あの大戦の影響である。
大戦は、レンシャーヌの敗北によって終結した。
そして、旧来の秩序へと地図は書き戻された。
民族自決と自由の理念を掲げた戦争は終わり、残されたのは粛清の嵐だった。
「どこの有力者が、レンシャーヌの侵略に協力したか」──それが追及される時代が始まった。
当然、それはペルモニダ王国国内でも容赦なく行われた。
ある家では、父が。
その子が。
娘にとっては、十四か十五の年頃だった兄が。
──粛清された。
生易しいものではない。殺されたのだ。
その光景、その喪失は、まだ五歳だった少女に背負えるようなものではなかったはずだ。
その少女はその歴史に何を感じたのだろうか。
憎しみか、悲しみか、諦めか。
振り返ってその少女に問うことは最早叶わないだろう。
──いつの間にか鞄に紛れ込んでいた報告書を読み終え、俺はカップに残った紅茶に口をつけた。
揺れる屋内の灯が、薄い水面をわずかに染める。
「アルセッタ・クラヴィツ……。裏切りの家の、ただ一人の清算者か」
誰に聞かせるでもなく、ぼそりと呟く。
もちろん、返事などあるはずもない。
「──別に、そんな印象は受けなかった」
咎を背負った少女が見せるような瞳では、決してなかった。
世の中の不条理を知り、すでにどこか達観して──それでも、なお。
何かを信じているような。
何かを目指しているような。
そんな眼差しを、俺は彼女に感じた。
それにしても──。
「……余程、優秀なのだな。“裏切り者”の誹りを受けながら、曲がりなりにも王家の養子とは」
「元々、クラヴィツ家はペルモニダ王家と懇意ですし、熱心な統一主義者でもありますから。
噂では、先の大戦中──クラヴィツ家は王家の密命でレンシャーヌを支援し、招き入れたとも……。
まぁ、あくまで噂の域は出ませんが」
いつの間にか、扉の脇にエディンが立っていた。
「……いつからいたんですか?」
「さぁ? いつからでしょうね」
顔色一つ変えず、エディンは返した。
「ところで──この報告書」
俺はテーブルの上に置いていた紙束を手に取る。
「あなたが、俺の鞄に?」
「えぇ、そうですよ。読んでいただけたのですね」
さも、あっけらかんと。
「しかし、噂はあくまで噂です。結局、クラヴィツ家は今も“裏切り者”と呼ばれ続けている。今回の婚姻も──国民が明確に歓迎しているとは、言いがたいですね。とはいえ、王家の養子になれたという事実は、やはりクラヴィツ家と王家の繋がりの深さを示しているのでしょう」
「……どこかで」
「え?」
「どこかで聞いたことがあるような話ですね。国民に嫌われた者が、王家の養子とは」
自嘲気味に笑って。
俺は傍らの鏡に、ちらりと視線を移した。
「……やはり、どこか親近感を覚えてしまう」
「そうですか」
エディンの返答は、至って平坦だった。
まるで、社交辞令のように。
「ともあれ──明日です。明日、お二人は揃って、初めて衆目を浴びることになります。両国の“良好な関係”のためにも──くれぐれも、粗相のないよう」
突き放すように言葉を放った。