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第2話 4匹の猫と1匹のねずみ

 翌朝、王都サリュモールの中心に建つクラインシア大使館は、朝露も乾ききらぬうちから喧噪に包まれていた。

 両国の婚姻の成立から外交交渉が進展したからか、大使館内は慌ただしく動いていた。


「ようやく来たか! ローレンツ!」

「おはようございます。局長」


 声は扉を開けるより先に届いた。中から現れたのは、政治戦略局長にして、グレゴール・ファルケンハイン──、俺の上司だった。


「よくやったな、ローレンツ。これで君は王家に名を連ね、この婚姻同盟によって両国はより近づくだろう。──何より条約交渉もこれで進む」

「そうですね」


 母国であるクラインシアはここ2年間、ペルモニダ王国に対し自由貿易協定の締結を迫っていた。

 広大な植民地から供給されて国内の工場で生産された工業品の輸出先を求めていたのだ。

 列国はクラインシアと同じように産業革命を進めているため工業品の需要は低い。植民地に輸出するにはコストがかかる。そこで程よい距離にあって産業革命が進んでいない、かつそこそこの市場規模を持った国家を探したところペルモニダ王国を見つけた。

 そこからは早かった。ペルモニダ国内の有力貴族に対するロビー活動を通して自由貿易協定の締結を迫った。


「だが――」

 ファルケンハインは言葉を切り、机の上の書類を一枚取り上げた。


「ペルモニダ側の軍部が、草案の“市場開放条項”に難色を示している。どうやら、宮廷内で意見が割れているようだ」

「……予想通りですね。軍部は国内産業を守りたい。自由貿易はそれに逆行する。しかし自由貿易に市場開放はマストです」

「そうだ」

「それで結婚。……まるで、国家の広告塔ですね。俺たち二人は」

「広告塔だとも。だが効果はある。あの式は、平和の象徴だ。今、この瞬間、サリュモールの市場では“クラインシア製”が既に値上がりし始めている」


 ローレンツは、かすかに目を細めた。

 感情の揺れではない。

 冷静な思考のために、外界の光を遮断する仕草だった。


「だがまだ足りない」


 ファルケンハインは机を叩いた。

 次いで、重苦しい言葉が続いた。


「──仕事だ。ローレンツ」


    〇


 サリュモールの中央駅、──レンシャ―ヌ系の資本で建設された鉄道駅であり、レンシャ―ヌの”意思”そのものと取れる。つまり、彼らはこの国に並々ならぬ熱意を持っている、と。

 鋼鉄のアーチを描く天蓋の下では、無数の旅客と商人、軍人、そして情報屋らしき男たちが雑然と行き交っている。掲げられた案内板には、ペルモニダ語と並んでレンシャーヌ語が記されていた。


 俺はホームの端で、紙に包まれたパンをむしるように口へ放り込んだ。

 果実のジャムの甘みが微かに口の中に広がった。


 昨夜の宴で、あの女――アルセッタ・クラヴィツが言った言葉が脳裏をよぎる。

「慣れているだけです。このような政治の場は」──あの瞬間、彼女の目に浮かんだ諦念を、俺はまだ忘れられない。


 彼女もまた、舞台装置のひとつ。だが、演じているのは誰よりも人間らしい“怒り”だったように思う。


 ……俺たちは夫婦になった。だが、それ以上でも以下でもない。


 それでも、あの表情を思い出すたび、何かが胸に引っかかる。


 包み紙を丸めてゴミ箱に放り込むと、俺は南部行きの列車に乗り込んだ。

 指定された席に向かう途中、鉄の車輪が軋む音がわずかに床から伝わってくる。

 長旅の予感。


 そこに、見知らぬ男が座っていた。

 タキシード姿。年齢は自分と同じか、やや上に見える。

 無言のまま、淡々とこちらを見つめている。


「……ここ」


 俺がそう言うと、男は静かに頷いた。


「ようやく来ましたか」


 その声にはわずかな遅延があった。言葉を“演じている”ような、不自然なリズム。

 瞳が揺れた。だが、その揺れには感情がなかった。

 考えるより先に、男は手で向かいの席を指した。


「護衛を務めます」


 その言葉もまた、完璧すぎる抑揚で発音された。

 まるで訓練された劇団員のように。


 端整な顔立ち。整った身なり。微笑みも角度も申し分ない。

 だが、どこか「人間味」が欠けていた。


「クラインシア情報局第三課――特命監察官、エディン・クローヴァーと申します」


 名乗ったその声にも、やはり温度は感じられなかった。


「情報局……ですか」

「ええ。正確には“貴殿の安全確保及び外交的影響の観察”が任務となります」


 それがどういう意味かは、言葉にするまでもない。


「監視ですね」

「あくまで建前です」


 俺は小さくため息をついた。

 窓の外に目をやる。そこにはまだ、止まったままの風景があった。

 

「ところで、ローレンツ殿。楽しい話をしませんか?」

「どんな?」

「例えばそうですね。……ネズミを狙う大きな四匹の猫の話なんかはいかがですか?」


 俺はその言葉に、眉をひそめた。


「寓話ですか?」

「ええ。寓話であり、現実です」


 クローヴァーは組んでいた指をほどき、まるで紙芝居でも始めるかのような調子で語り出した。


「ある国に、一匹のネズミがおりました。大地を駆け、地下に穴を掘り、いつかこの国すべてを掘り尽くしてみせるのだと、夢見ておりました」

「……」

「ところが、彼には敵が多すぎた。まず、一匹目の猫――大海を渡る獣。影のように忍び寄り、海を制し、交易を支配する。あれはクラインシア」


 エディンは小さく笑った。


「二匹目は、宗教の牙を持つ帝国。威厳と秩序を盾に、ネズミの夢を”異端”と切り捨てる。オルスティア」

「なるほど」

「三匹目は、自由を謳う共和国。だがその自由は、常に“監視”と対になっている。表向きは友人のふりをして、裏では牙を研ぐ。レンシャーヌです」


 そして、エディンは最後に声を落とした。


「四匹目は、信仰に支配された巨大な影。かつての繁栄を夢に見て、あらゆる思想を“冒涜”と断じる。アル=ナスール」

「……それで?」

「ネズミの名は、ペルモニダ王国。そのネズミの背に、あなたと、例の女性が乗っているわけです」


 俺はわずかに口を開いたが、言葉は出なかった。

 エディンの表情は変わらない。だが、その目には明確な“試すような光”が宿っている。


「あなたは、そのネズミが穴を掘り終えるまで、乗っている覚悟はありますか? あるいは、途中で降りて……地上の猫たちに加わるつもりですか?」


 俺は応えなかった。ただ、窓の外――列車がゆっくりと動き始める、その揺れに身を任せた。

 サリュモールの街が後ろへと流れていく。


 ――あの女の顔が、ふと脳裏に浮かんだ。純白のドレスに身を包み、乾いた拍手の中で、誰よりも静かに、剣を帯びたまま壇上に立っていた。


 俺は自嘲的に微笑んだ。


「俺たちは騎手足り得ませんよ」

「……えぇ。それを聞いて少し安心しました」

「そうですか」


 車窓の外で、鉄の街路が徐々に緑へと変わっていく。郊外の田園地帯――そこにはまだ、政治の言葉も軍靴の音も届かない、穏やかな世界があった。

 エディンは目を細め、ぼそりと呟いた。


「……それでも、騎手のいない馬が、どこへ向かうのか。私には気になるところです」


 俺は苦笑した。


「なら、あなたが手綱を握りますか?」

「私は馬を観察する者です。鞭も手綱も、持つべきではない」


 言い終えた彼は、胸元から一枚の小さな紙片を取り出して俺に差し出した。


「次の目的地、簡単な地図と予定表です」

「簡単な任務でしょう? 象徴としての」

「簡単であることを私は願っています」


 皮肉めいた笑みを浮かべるエディンに、俺は応えなかった。ただ紙を受け取り、鞄にしまった。

 窓の外に、いま一度目をやる。

 その先にはまだ、誰も知らない“戦場”があるのだろう。

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