初めて触れる温かさ
通りを抜けて、男が教えてくれた通りの角を曲がる。
「青い灯」と書かれた看板が、ランプに照らされて静かに揺れていた。
「ここ……だよね。」
扉の前で一度深呼吸をしてから、意を決してノブを握った。
木の扉は軽く軋む音を立てて開き、あたたかい空気が頬を撫でる。
中は思ったよりもこぢんまりとしていた。
木の梁が低く、暖炉には火が灯っていて、奥には数人の旅人たちが湯気の立つスープをすすっていた。
ふわりと、肉とハーブの匂いが鼻をくすぐる。
「……いい匂い」
「いらっしゃいませ、お嬢さん。」
奥のカウンターから、柔らかな声がかけられた。
顔を上げると、小柄な中年の女性が、優しい目でこちらを見ていた。
「宿をお探し? 旅人なら歓迎するわ。今晩は空いてる部屋があるから、よければ案内するけど?」
「……お願いします。」
自然と声が小さくなる。
この人たちは、私が“あの王女”だとは気づいていない。
そう思うと、少しだけほっとして、それでいて胸のどこかがきゅっと痛んだ。
案内された部屋は小さな個室だった。
古びてはいたけれど、清潔に整えられていて、窓からは月明かりが差し込んでいた。
(……すごいな、こんな世界が本当にあるんだ。)
ドレスも絹のシーツも豪華な飾りもない。
けれど、この空間には“自分だけの時間”が流れている気がした。
マントを脱いで、靴を揃える。
身を投げ出すようにベッドに腰掛けると、ふっと肩の力が抜けた。
(こんな風に、何にも縛られずに生きていけたら……)
そう思ってしまった瞬間、父の顔が脳裏をよぎった。
――「お前には“自由”などない。」
重く冷たい言葉。
けれど、その奥にあった“想い”も、私は理解しているつもりだった。
それでも。
「私は、ただ……自分の目で、世界を知りたいの。」
◆◆◆
部屋で少し休んだ後、1階の食堂に降りると、先ほどの女性が笑顔で迎えてくれた。
「ちょうど夕飯ができたところよ。遠慮せず、食べていって。代金は後払いでいいから。」
テーブルには温かなスープと、焼きたてのパン、そして少しの野菜の煮込み。
「……これ、全部?」
「ええ、特別なものじゃないけど、うちの誇りよ。」
セレフィーナはそっと椅子に座り、スプーンを口に運んだ。
「……おいしい。」
豪華な晩餐とは違う、素材の味がまっすぐに伝わってくる素朴な料理。
それなのに、涙が出そうになるほど、あたたかかった。
近くの席では、若い旅人が地図を広げて何やら語り合っている。
隣では年配の夫婦が穏やかに笑いながらパンを分け合っていた。
――誰もが“誰かの役割”ではなく、“自分自身”として存在している。
(ああ……こんな風に、生きていけたら。)
胸の奥に、小さな願いが灯った。
だが――
その願いの火が、果たして王族という立場のままで許されるものなのか。
それは、セレフィーナ自身にもまだ、答えの出せない問いだった。
◆◆◆
その夜。
ベッドに横たわったセレフィーナは、ふと目を閉じながら思う。
(父上が私を閉じ込めた理由も、わかってる。だけど――)
「私の人生を、私が選んではいけないの?」
月明かりがカーテンの隙間から差し込み、彼女の頬を優しく照らしていた。
外の世界での最初の夜。
セレフィーナはまだ、自分の未来がどこへ向かうのかを知らなかった。
けれどこの日から、彼女の世界は確かに変わり始めていた。