3 もう戻らない
夜風が頬を撫でる瞬間、セレフィーナの胸が高鳴った。宮殿の中から一歩踏み出しただけ――たったそれだけなのに、世界がこんなにも広く感じられるなんて。いつも窓越しに見ていた景色が、今は自分の足で歩いていける場所になっている。
(本当に……ここから出られたんだわ)
冷たい風が頬をかすめ、髪を揺らす。宮殿の中では感じることのなかった夜の匂いが、彼女の心をざわつかせた。ずっと夢見ていた自由に、指先が届きそうなところまで来ている。なのに――どうして胸の奥がこんなにも苦しいのだろう。
(もしこのまま行ってしまったら、お父様はどう思うかしら……)
思わず足を止める。王として厳格に振る舞う父の姿が脳裏に浮かんだ。いつも冷たくて、威厳に満ちていて、決して彼女の我がままを許そうとはしない人。でも、幼い頃に微笑みながら頭を撫でてくれた温かな手の感触も、今でもはっきりと覚えている。
(私はただ……ただ、自由に生きたいだけなのに……)
涙がこぼれそうになるのをこらえ、ぎゅっと拳を握る。引き返せば、また王女としての役目を果たす日々に戻るだけ。けれど、もうあの窮屈な日常には耐えられない。
(私がここにいる限り、私の人生は私のものじゃない)
足元に視線を落とすと、地面は湿った草で覆われていた。靴越しに伝わるその感触が、確かにここが夢ではないことを教えてくれる。
「……もう戻らないわ」
誰にも聞こえないほどの小さな声でそう呟くと、再び歩き出した。夜の闇に紛れるように、そっと足音を忍ばせながら。宮殿の灯りはすでに遠く、まるで別の世界のもののように感じられる。
自由に憧れながらも、ずっと届かなかった世界。誰かの許しを待っていては、いつまで経っても手に入れられない。だからこそ――自分で掴み取るしかないのだ。
「私は……私の人生を生きるわ」
そう誓った瞬間、胸に染みついていた迷いが少しだけ薄れていくのを感じた。
先に広がるのは未知の世界。そこにはどんな出会いがあるのかも、どんな危険が潜んでいるのかもわからない。けれど、立ち止まるつもりはなかった。
(さあ、行きましょう。私の知らない世界へ――)
月明かりに照らされた草原を踏みしめ、セレフィーナは駆け出した。宮殿の檻を抜け、まだ見ぬ自由を求めて。誰のものでもない、自分だけの人生を掴み取るために。