7話 無能王子の剣の腕前
一週間が経った。
あの夜にレオンハルト様と「共犯者」の契約を交わして以来、私たちは人目につかない形で連絡を取り合い、ヴィクターの派閥が動く先を探るようになっている。
もっとも、王子が伯爵家に頻繁に出入りしているなどと周囲に知られれば大問題だ。
だから、グランディール家の中でもごく限られた者だけが、この極秘の来訪を承知していた。
そして今日は、家の庭でこっそりとレオンハルト様が剣の稽古をしている姿を見守ることになっている。
「はぁっ……!」
朝の涼しい空気に、金属の唸りが鋭く響いた。
庭の奥、誰も立ち入らない空き地のような場所で、レオンハルト様は剣を振る。
一見無気力そうな方だと思っていたのに、その剣さばきには圧倒されるばかりだ。
「本当に、すごい……」
思わず小声で呟くと、レオンハルト様が最後の一太刀を空気に切り込んでから、汗ばんだ息をついて振り向いた。
「まさかそこまで強いとは思わなかったです」
私が率直な感想を口にすると、彼は苦笑とも言えない微妙な表情を浮かべる。
「これも隠してるんだけどね。知られると面倒だから」
金髪が汗で額に張りつき、普段の眠そうな瞳が少しだけ真剣な色を帯びている。
あんなに無気力を装っていたとは思えないような力強さ。
私は胸が高鳴るのを感じて、心臓の鼓動を落ち着かせようと無意識に息を整えた。
「なるほど……無能王子なんて呼ばれてるのに、実際はこれほど強いんですね」
「ああ。王宮の誰かに見られるのは嫌だから、普段はほとんどやらないけど」
レオンハルト様は乱れた呼吸を整えながら、剣の刃先を地面に立てて寄りかかるように立つ。
さっきまで激しい稽古をしていたはずなのに、口調はいつもの気だるげなものだ。
だけど、私は視線を逸らせない。
額に浮かぶ汗や、ほんのり熱を含んだ顔つき――こんな姿を初めて見た。
ちょっと胸がドキッとしてしまうのが悔しい。
そういう感情をできるだけ隠しながら、私はわざと落ち着いた声を作る。
「それにしても、あの演技はお見事です。まさかここまでとは」
「演技、ね。無能ぶってるのも、剣を隠してるのも、全部面倒を避けるためだよ。もし兄上に目を付けられたら、ややこしいことになるだろ?」
「ええ、その通りだと思います」
私がそう言うと、レオンハルト様は剣を鞘に収めて、息を吐きながら木陰のほうへ移動した。
使用人が用意してくれたタオルで汗を拭き取る姿は、まるで普通の若い貴族男性のようだが、先ほどまで見せていた剣の腕前を思うと、その印象とのギャップが激しい。
「まあ、こうしてグランディール家で思う存分、体を動かせるのはありがたいよ。伯爵家の中でも相当に力を持つって聞いていたけど……ここまで協力的だとは」
「父様には『私が王子から手ほどきを受ける』という言い訳で通しています。殿下を丁重にもてなすのは当然でしょう?」
「はは、手ほどき、ね。確かに教えてあげてもいいけど、エステルはあまり武芸には興味なさそう」
言われて少しだけ照れる。
「ええ、正直苦手です。でも、今は殿下が練習する姿を見ているだけで十分です」
「そうか」
何とも言えない沈黙が庭を包み、私はそういえば今日話すべき要件があったのを思い出す。
「あ、そうそう。実はヴィクター派が新たな動きを見せているんです。財務報告書の改竄や、いろいろな契約を妨害するだけじゃ済まなくなってきたみたい」
「へえ、詳しく聞かせて」
レオンハルト様はタオルを手にしたまま、私の近くまで歩み寄る。
軽い草の匂いと、少しの汗の香りが混ざり合って、胸がまた騒ぐけど……落ち着かないと。
「親友のクラリッサの家が、その中心になっているようなんです」
「クラリッサ? 初めて聞く名前だな。まさかただの伯爵家の令嬢が中心にいるとはね。どうして君は気づいたんだ?」
「まあ、元親友なので。何となくクラリッサの家が噂の焦点にあると聞いたら直感的に繋がってしまったと言いますか……」
「元、親友、ね。大丈夫か?」
その言葉に、胸がじくりと痛む。
前の人生で、クラリッサには散々裏切られた。
そもそも親友と思っていたのは私だけで、彼女は最初から私を陥れたいと願っていた可能性が高い。
「ええ、大丈夫です。私を騙した人はもう友人ではありません。敵です。容赦はしません」
そう言い切ると、レオンハルト様は瞬きをして、少し息を呑む気配を見せた。
「そうか。君は強いね」
短くそう呟く彼の顔が、なぜか一瞬だけ陰を帯びたように見えた。
どうかしたのか、と聞く前に、レオンハルト様は表情を元に戻して、話題を変える。
「じゃあ、どうやってそのクラリッサ嬢を止める? また報告書を操作するのは手間がかかるし、相手も策略を練っているかもしれない」
「もちろん、派手に倒します。自分たちのほうが力を持っていると思い込んでいる時期に、不正の証拠や裏事情を暴いてやれば……社交界での信用を一気に崩して、横領などの罪で牢屋にぶち込みます」
本当は前の人生で私が受けた屈辱を、そっくりそのままクラリッサに返したい気持ちだってある。
でも、私情をまる出しにするつもりはない。
確実に、絶対的に相手を陥れるために手段は選ばない。
「なるほど……それはいいね。僕も少し情報を集めてみるよ。兄上の周りにもクラリッサ嬢の家と接触している者がいるだろうし」
「お願いします。私も、これまでの書類仕事で得た知識や人脈を駆使して、彼女の足元を掬う準備を進めます」
二人の視線が交わる。
穏やかな庭の一角で、互いの目的が一致しているのを確かめ合うように。
私は一度、ぎこちなく微笑む。
「あまり、こんな過激なことを笑顔で話すものでもないですけれどね」
「いや、いいと思うよ。僕たちは「共犯者」だろう? バレたら物理的に首が飛ぶかもしれないのに……笑えるうちに笑っておくのがいいさ」
彼が少し皮肉を混ぜて言うので、私もつられて鼻で笑う。
不思議な連帯感が、ここにはあるのかもしれない。
「ええ、そうですね。首が飛ぶより先に、ヴィクター殿下の首をどうにかしましょう」
「物騒だなぁ」
そう言いながら、レオンハルト様は再び肩をすくめて苦笑する。
無気力を装っていても、今回の件に対するやる気が垣間見えるのは嬉しい。
お互いに利用し合う立場だけど、今はそれで構わない。
「じゃあ、そろそろ僕は戻るよ。ここにずっといると怪しまれるし、汗もかいたからね」
「ええ、わかりました。また時期をみて連絡し合いましょう。グランディール家の者には、あなたがお帰りになられたとすぐ伝えておきます」
「頼む。……じゃあ、エステル、また」
レオンハルト様は淡々と言い残し、剣を片手に庭の木陰を離れていく。
わずかに揺れる金髪が名残惜しそうに見えるのは、私の気のせいだろうか。
レオンハルト様……あなたは本当に不思議な方。でも、私にはこれ以上ない協力者だわ。
一度死んだ私だからこそわかること。
彼もまた「誰かに裏切られた」過去を抱えていそうな気がする。
さっきほんの少し感じた哀しげな表情が、その証拠なのかもしれない。
けれど、今の私にはそれを問う権利もないだろう。
まずはクラリッサとヴィクター派を崩すことが先決だ。
「裏切り者のクラリッサ……絶対に放ってはおかないわ」
小さく呟き、レオンハルト様が消えた門のほうを見つめる。
無能王子と呼ばれ、人々に期待されずに過ごしてきたレオンハルト様。
死んで蘇った私。
得体の知れない共犯関係だけど、不思議と心強い。
あの時、死ぬ前に受けた忠告を無視してしまった悔しさが、今になって私の背中を押している。
さあ、やることは山積みだ。
私はドレスの裾を整え、汗の跡が残る芝生を一瞥してから屋敷のほうへと歩き出した。