29話 ヴィクターのその後
ヴィクター・ヴィーゼンベルクは、石造りの冷え切った地下牢の奥深くに閉じ込められていた。
そこは日がまったく射さない、陰鬱で湿気のこもった空間。
長い間換気されていないような生臭い空気が漂い、床は苔が生えたようにぬめりけを帯びている。
この国の王子であるはずのヴィクターが、そんな汚い場所に横たわっている様は、まさに無様そのものだった。
彼の髪――かつては華やかな舞踏会や社交界で金の光を放っていた――は、今では埃や血で汚れてほとんどぼさぼさに乱れている。
着ている服もところどころ裂け、泥と血の跡が染みついていた。
地下牢に送られるまで、強く抵抗した彼を兵士たちは容赦なく殴りつけ、その服を乱雑に引きずったためにこんなありさまになってしまったのだ。
――どこで、何を間違えたのか。
ヴィクターは荒い呼吸を繰り返しながら、そう思わずにはいられなかった。
もともとこの国の次期国王候補として、あらゆる者たちから称賛を浴びてきたはずなのに。
今や「国家転覆罪」という大罪人として地下牢に閉じ込められている。
即刻処刑されてもおかしくない――兵士たちは、もはや王子だと遠慮する様子など微塵も見せなかった。
だからこそ、先ほどまでに幾度か厳しい取り調べという名目で殴打され、身体中が痛んでいる。
「……くそ……っ」
乱れた髪を顔の横からかき上げながら、ヴィクターは低く呟く。
昔ならこんな痛みは想像もできなかった。
自分は王族なのだ。誰からも崇められ、敬われて当然だと思っていた。
だというのに、今は薄暗い牢獄の中でさえ、兵士の嘲笑が聞こえるような気がする
いつ食事が出されるのかもわからない。
いや、処刑が迫っている以上、ろくに世話もされないのかもしれない。
――足音が近づく。
兵士がまたやってきたかと思ったヴィクターは、反射的に顔をしかめた。
しかし、姿を現したのは、王であり彼の父――国王陛下だった。
「……父上……っ!」
ヴィクターは思わず身を起こそうとしたが、殴られた腹や足の痛みが酷くて、すぐには立ち上がれない。
なんとか鉄格子に手をかけて上体を起こし、懸命に声を振り絞る。
「陛下、父上……これは何かの間違いです。私は……私は決して……!」
だが国王陛下は、少し離れた場所で立ち止まったまま、ヴィクターを静かに見下ろした。
その眼差しには厳しく、そしてどこか悲しげな色も混じっているように見える。
「違うのです、私は……ただ、この国をもっと強くするために……!」
無数の言い訳や弁解の言葉が頭を巡るが、まるで舌が回らない。
そんな彼に、国王陛下は深いため息をついて首を振る。
「無駄だ、ヴィクターよ。私も信じたくはなかったが……すべての証拠を見れば、お前が敵国カーディア公国と通じていたのは明白だ。お前の悪行を暴き、私に報告したのはエステルやレオンハルトだが、ほかの重臣たちも決定的な書簡を確認している」
国王陛下の声音には微かな哀れみすら感じられた。
ヴィクターはその言葉に焦りを募らせながら、鉄格子を揺すり、かすれた声で訴える。
「父上……どうか、お考え直しください。これには、深い事情が……!」
まるで見当違いな要求だとわかっていても、ヴィクターは願わずにはいられない。
けれど、国王陛下の表情は動かない。
彼は冷厳な視線のまま、はっきりと宣言した。
「私は……お前の名を、王族の血筋から消すことを決めた。お前は私の息子ではない。国の裏切り者として、このまま処刑の日を待つがいい」
「そ、そんな……父上……!」
ヴィクターはがくりと膝をつく。
息子ではない――それは、王族としてのすべてを剝奪されるという意味だ。
領地も称号も、そして誇りも、すべて失う。
彼が築いてきたもの、信じていた未来が、今ここで根こそぎ奪われる。
「さらばだ、元息子よ。……処刑の日が来るまで、その身で罪を思い知るがいい」
国王陛下はそう言い残すと、衛兵たちを従えて踵を返した。
ヴィクターは思わず叫ぶ。
「待ってください、父上! 助けてください……父上……!」
しかし、その叫びに応える声はない。
足音が遠ざかり、やがて鉄扉が閉められる音が響くだけ。
冷たい空気だけが通路に残り、次第に静寂が戻ってくる。
――絶望。
ヴィクターは力なくうつむき、手の甲を見つめた。
王族の血筋。
それこそが自分の何よりも誇りだったはずなのに。
「くそ……。……まさか、こんな形で終わるものか。俺が……こんなところで……」
肩で息をしながら、ひび割れた床に唾を吐き捨てる。
処刑――そんな結末は受け入れられない。
それからどれほど経ったのか、定かではない。
ヴィクターは冷気と痛みの中で、意識を失いそうになるのを何度も堪えた。
朧げな思考の果てに、自分でも聞き違いかと思うほど静かな足音が再び近づいてくる。
さっきと違い、複数ではなく一人だけのようだ。
やがて鉄格子の前に立ったその人物は、意外にも落ち着いた声で囁いた。
「……ヴィクター殿下」
薄暗がりの中で、ヴィクターが顔を上げる。
見えたのは財務大臣――グスタフの姿だった。
彼はいつものような貴族然とした物腰とは違い、慌ただしく周囲を警戒している。
「グスタフ……? どうしてお前がここに……」
するとグスタフは視線を走らせながら、小さく息を吐く。
「王子、助けに来ました。私もこのままでは捕えられるでしょうが……まだ手は残されています。カーディア公国とのルートを使い、ここを脱出しましょう」
「脱出……だと?」
ヴィクターは荒れた息のまま、その言葉を繰り返す。
思いがけない救いの手に、意識が一気に研ぎ澄まされる。
「王子。カーディア公国の協力があれば、すぐにでも国境を越えられます。手筈は整えてあります。ここの兵士の何人かは買収しているので、多少の手荒な騒ぎを起こせば、その隙に連れ出すことも可能でしょう」
その説明に、ヴィクターは唇を噛みながらも、勝ち誇るような笑みを浮かべる。
なるほど――さすがは財務大臣、やはり抜け目がない男だ。
「さすがだ、グスタフ。お前なら、きっとこうしてくれると信じていた。……いいだろう。今のままではこの国での地位は失われた。ならばあちらに渡って、いずれは……」
言葉の端で、ヴィクターの心に暗い炎が燃える。
この国――いずれは思い知るだろう。
俺がいなくなったあとで、その愚かしさを後悔させてやる。
「レオンハルト……あの無能王子と、エステル・グランディール……あいつらには絶対に復讐してやる。俺を地獄に突き落とした報いを、受けさせてやるんだ……!」
低い声で呪いのように吐き捨てながら、ヴィクターは鉄格子を睨む。
兵士を説得してくれるというグスタフの言葉を信じるなら、この牢を出る機会は近いはず。
「ええ、殿下。共に公国へ逃れ、力を蓄えましょう。……そして、いずれは」
グスタフが顔を上げ、薄闇の中で目をぎらつかせる。
この国で野望を断たれたヴィクターと、同様に裏切り者扱いされるだろうグスタフ。
彼らは同じく亡命先での再起を誓う仲間となるのだろう。
地に落ちた王子の復讐心は、かつての彼の華やかさとは正反対の、血と暗殺の匂いをまとう。
――こうして、ヴィクター・ヴィーゼンベルクは地下牢の最奥で絶望と憎悪にまみれながら、次なる機会を狙い始めるのだった。




