2話 春の舞踏会
「あら、エステル様。今日はいつにも増しておきれいね!」
「ありがとうございます。そちらもとても素敵なドレスですわ」
会場のあちこちから、そんな声が飛び交っている。
ここは春の舞踏会。
私が三年前に戻ってから、約二週間がすでに経っている。
その間、私は情報収集に努めながらグランディール家の書類仕事などを手伝っていた。
グランディール家は蘇る前の世界では、私を庇いきれなくなって見捨てた。
でもあそこまで悪い状況になっても助けようとしてくれていたので、復讐するような対象ではない。
そんなことを考えながら、私はドレスの裾を軽く持ち上げながら、豪奢なシャンデリアの光を受けて会場の中央へ進んだ。
三年前のこの場所で、私は無邪気に夢を見ていた。
でも今は違う。
今日は観察……特に、ある人を見に来た。
ある人が、今後の復讐に役に立つ可能性があるから。
「エステル様、本日は優雅ですわね」
「そうでしょうか。ありがとうございます」
令嬢と笑顔を浮かべて適当に話しながら、私は視線を会場の奥へ滑らせる。
そこに、第一王子ヴィクターが高笑いをしながら談笑しているのが見えた。
金髪が眩しく、取り巻きたちが一斉に彼を持ち上げている。
まだ何も知らないのね、当たり前だけど。
私が、どれだけあの男を憎んでいるのかを……。
胸の奥で復讐の炎が燃え上がる。でも、表には出さない。
私は口元に笑みを保ったまま、軽く会釈をしながら進む。
「エステル様は踊られましたか?」
「いえ、まだです。少し落ち着いてからと思いまして」
「もったいないわ。あなたほど踊りがお上手な方はそういませんのに」
「踊りたい気持ちはあるんです。機会があれば、ぜひご一緒を」
にこやかに返事をしながら、私はふと周りの反応に気づく。
周囲から聞こえる囁きが、前の人生のそれとは違う。
どうやら「エステル嬢は最近優秀になった」「グランディール家を支え始めている」などの噂が広まりつつあるようだ。
グランディール家でわざと書類整理を手伝った成果が出ているのかもしれない。
お父様やお母様に少し驚かれたけど、
『従姉妹のミリアムと同じように、私もグランディール家のために頑張りたいの』
という言い訳をして始められた。
ミリアムはグランディール伯爵家の分家の娘で、従姉妹にあたる。
頻繁に会うような人じゃないけど、彼女は優秀で財務管理の仕事などは数年前からやっている。
そんな優秀なミリアムに少し嫉妬心を覚えていたこともあるけど、今では全くないわね。
「エステル様、あちらにいらっしゃる男爵が、あなたとお話ししたいそうですよ」
「まあ、そうなの? なら、少しご挨拶をしてこようかしら」
ほんの少しうなずいて、私は男爵に軽く会釈する。
周りから「エステル様はいつもより積極的に動いていますね」といった声が背後から聞こえたが、意図的に耳を塞ぎつつ進む。
前の人生の私は、舞踏会ではおとなしく壁際に立っていることが多かった。
でも今は、社交界での立ち回りを意図的に変えている。
これから、復讐するのはこちらのほうが有利だから。
――その時。
「グランディール嬢、少しお時間をいただけますか?」
誰かが私の正面へ回り込む。
顔を上げると、そこに立っていたのは――ヴィクター・ヴィーゼンベルク。
陽光を溶かしたような金髪が肩にかかるほどの長さで、見る者に優雅な印象を与える。
童顔でその髪を指先でかき上げながら浮かべる笑みは、一見すると穏やかで優しげだ。
しかし、私は知っている。その笑顔の奥には氷のような冷たい視線が宿っていることを。
周囲の貴族たちは、さっと道を開ける。
王子の登場は、やはり場の空気を変えるらしい。
「殿下。ごきげんよう。お招きにあずかり、ありがとうございます」
私はうやうやしく一礼する。
その背後で、取り巻きの貴族たちがひそひそとささやく声が聞こえた。
「エステル様、最近評判よね。財務管理の書類も扱えるとか……」
「グランディール家は力をつけてきたし、殿下も興味を持っているんじゃない?」
そんな声を無視するように、ヴィクターは微笑んだ。
まるで絵に描いたような、理想の王子の笑み。
でも私は、その裏にある冷酷さを知っている。
「エステル嬢、今宵のドレス、お似合いですね。あなたが会場に入られたとき、ひときわ輝いて見えましたよ」
「恐れ入ります。殿下こそ、とても華やかで、周りが目を奪われているようですわ」
実際、取り巻きがきらびやかな装いで殿下の周囲を囲んでいた。
私は軽く目を伏せる。
昔ならドキドキしていただろう。
でも今は、胸にわだかまる怒りをどう抑えるかに必死だ。
「ところで、少し踊りませんか? あなたがまだ踊っていないと聞いたもので」
「ええ……喜んで」
断るのは不自然だし、ここで踊らなければかえって怪しまれる。
ヴィクターは私の手を取り、フロアの中央へ。
音楽が切り替わり、優雅な曲が鳴り響く。
私たちは自然とステップを合わせる。
「あなたの踊りは評判でした。最近さらにお上手になったとか」
「そう言われると照れますわ。殿下こそ、リードがお上手です」
くるりとターン。
私のシルクのドレスがゆるやかに広がる。
会場の注目が集まるのを感じながら、私はぎこちなく微笑む。
内心では、処刑台の悪夢が何度もよみがえっていた。
(そう、あなたは笑いながら私を断罪した。私がどれだけ泣いて訴えても、聞く耳を持たなかった。おまけに……)
記憶が鮮明に甦る。
偽りの書類や証言を作り上げて、私を『国を裏切る悪女』に仕立てた。
全部私ではなく、ヴィクターがやった悪事を私に擦り付けたのだ。
彼は私の家族や周りの者達、全てを操った。
今、再びその笑顔を間近で見て、吐き気すら感じる。
「エステル嬢? どうかしましたか?」
「いえ……少し人が多いので、戸惑っただけですわ」
ごまかすように笑う。
ヴィクターは「それならよかった」と返し、さらにくるりと私を回す。
周囲からは拍手が起こる。
舞踏会ならではの華やかさ――でも、私には冷たい闇を感じる。
「最近のグランディール家は、頼もしい動きをしているとか。あなたも書類整理をされると聞きました」
「父を少し手伝っているだけです。殿下ほどの才覚はありませんわ」
「謙遜ですね。優秀な方という噂は、あちこちで耳にしますよ」
――その言葉の裏を読む。
彼は私が「ただの愚かなお嬢様」でなくなりつつあると知って、どう動く気のか。
前と同じ手段が通じないなら、新しい策略を練るのだろうか。
「あなたとこうして踊れるなんて、光栄です。……春の舞踏会は、私の好きな行事の一つでもありますしね」
「それは私も同感です。本日は、殿下にとって思い出深い場所になりましたか?」
「ええ、いろいろな方と出会い、話をし、絆を深める。そこで次の時代を背負う相手を見つけることも多いですから」
(時代を背負う相手ね……それを装って私を陥れたのよね)
私は微笑みながら、内心で呟く。
曲が終わると、周囲が大きく拍手する。
ヴィクターは私に手を差し出し、「素敵でした」と小さく囁く。
「ありがとうございます。殿下のお力添えのおかげですわ」
もう一度会釈して、その場を離れようとする。
彼がまだ話したがりそうな気配を感じるが、私は取り巻きの貴族たちを目で示すように、
「殿下、ほかにもお待ちの方がいらっしゃるでしょう? お邪魔しては申し訳ありません」
「ああ……残念ですが、そうですね。ではまた後ほど」
彼が残念そうなふりをすると、取り巻きの貴族たちが急いでかけ寄ってくる。
王子はそちらへ向かい、私のもとを去った。
私は吐き出せない息をゆっくり胸に収める。
(どうにか笑顔を保てたけど、本当につらい……)
あのときの処刑台での仕打ちが頭を離れない。
私を笑い者にして、裁判ごっこみたいに仕立てた。
一瞬でも信じた自分が悔しい。
でも今は、あえて笑うしかない。
「エステル様、殿下とのダンス、とても素敵でした!」
「まさに主役級の華やかさでした!」
周囲の令嬢たちが取り囲む。
称賛の声に礼を言いつつ、心では苛立ちを抑えていた。
この舞踏会は始まったばかり。
私は今のうちに誰が敵か味方かを見きわめようと、再び会場を見渡す。
「あら、エステル。少しお話しできるかしら?」
突然、背後から女の声。
振り返ると、そこにはクラリッサ・フォーレン――前の人生で最も憎むべき裏切り者の一人がいた。
鮮やかな赤みを帯びた茶色の髪をまとめ、大きなリボンをあしらった姿で華やかだ。
瞳は蜂蜜色で、にこやかに笑っているときは愛嬌に満ちている。
しかし――心の中ではヴィクター同様に、冷めた目をしているのだろう。
そんな彼女が、妙に親しげな笑顔で私を見つめている。
「クラリッサ……ええ、構わないわよ」
自然に笑顔を作って応じる。
胸の底に強い怒りを感じながらも、その表情は出さない。
王子の次は彼女が動く番なのかもしれない。
「それならよかったわ。ちょうどあなたに聞きたいことがあったの」
クラリッサが私に近づき、小声で囁く。
この春の舞踏会の中で、何を仕掛けてくるのか。
(大丈夫。もう同じ失敗はしない。あなたたちの動きを逆手に取るんだから)
私は息を整えて、クラリッサに目を向ける。
この舞踏会は、ただの華やかな場ではなく、私の復讐の始まりの場――。
そう心に刻みながら、クラリッサの下へと歩く。