2.Decent or Not
それは、私の眼には光として視えた
事実として光だったのかも知れない
扉の先に存在していたのは、白く透き通る裸体の少年だった
彼はそこで水浴びをしていたのだろうか
暗がりのなか、部屋の中心には浴槽が一つあった
少年の躰からはまだいくつもの雫が滴っていたが、それらもまた輝いているように私には思えた
星座のごとき眺めだった
恐らくこの世の存在ではない
神の存在も悪魔の存在も信じない現実主義者の私にさえ、そう思わせる魔力がそこには存在した
私はまばたきも出来ず、少年を見つめていた
理解出来ない動悸があった
少年愛は教会の法に照らし合わせれば死罪
そんなものには関心が無かった筈だ
しかしいま、抗えない妖艶さを放つ眼前の裸体に対し、間違いなく言葉に出来ない感情が湧き上がり続けていた!
それは今まで私が感じたあらゆる感情よりも昏く、そして凶暴な何かだった
眼を閉じて耳を塞いでしまいたかった
叫びだす事で耐えられるのなら、すぐにでもそうしたかった
しかし躰は動かず、私は眼を見開いたまま彼を見つめ続けていた
力を失った右手が開き、武器が床に落ちて転がった
それを拾い上げる事さえ私は出来ずにいた
「君が審問官だね」
少年がソプラノの声で私に問いかける
動悸が高まる
私は立っている力さえ失い、その場に膝を付いた
私はどうしてしまったのだ……?
しかし、激しい苦痛にも似た快楽の時間は家の扉を開く音に遮られた
弾かれたように私が振り向くと、そこには街の自警団員、そして全身鎧と鎚矛で武装した数名の審問官が立っていた
「審問官が堕落した」
私を一瞥すると、鎧でくぐもった声で一人の審問官がそう言った
私はこう言った状況に誰より詳しかった
早く逃げなくてはいけない!!
手首に冷たく柔らかい感触があった
柔らかく、少し骨張っていて官能的な…
見ると、少年が私の腕を掴み自分の方へと引いていた
浴槽のある部屋の方を悪戯な視線で指差している
信じて良いものかは解らなかったが猶予は無かった
私は彼に向けて無言で頷いた
既に躰は動くようになっており、立ち上がる事が出来る…
私たち二人は同じタイミングで奥の部屋へと飛び込んだ
「殺せ!」
殺意を持った凶器と鎧の群れが私に向け殺到する
浴槽の部屋の入って突き当りには、かろうじて人間が通れる程度の窓があった
先ほどの目配せからすると、少年はここから脱出するつもりのようだった
少年の動きは風のように流麗で機敏なものだった
無駄の無い歩みで窓に駆け寄りそれを開くと、躊躇いなく一足飛びで外へと飛んだ
私も続いて窓に足をかけた
しかし外へ飛び出そうとした刹那、足に衝撃を感じた
振り向くと、審問官の一人が冷たく硬い籠手の指で私の足を掴んでいた
「裁かれよ、堕落した審問官よ」
武装審問官が反対の手で鎚矛を振り上げる
表情の無い金属の顔が、私に最期を告げようとしていた
時の流れがゆっくりに感じられる
生死に関わる出来事の時、人間が感じる種類の時間の流れだ
静かに鎚矛が私へ迫っていた
──もう、躊躇う状況ではない
私は覚悟を決めた
僧服の袖の中に隠していた短刀を、腕を振って取り出す
そして強く握り締めると、私はそれで兜の隙間を突いた
恐らく、位置から見て喉を突いた筈だ
鎧の審問官は私の足から手を離すと、首元を掻きむしるような動きで崩折れた
それが窓を塞いだため、他の者たちはすぐには私たちを追う事が出来ないようだった
窓から外へ飛び出すと、走り出す前に私は僧服の上着を少年に羽織らせた
「優しさ」と言えば聞こえは良いが、私は逃げた先で正気を失いたいとは思わなかった
ついさっき視た、あの大理石のように白い肌を私は思い出した
あれには視る者にある種の衝動を覚えさせる力がある、二度と視てはいけない……!
それに、何も身に着けていなければ逃げるにも支障が出る
審問官を一名殺害したのだ、恐らく生涯をかけての逃亡となるだろう
さいわい少年の身長は低かった
私の上着を羽織ると、あの凄絶な美しさは素脚を除き総て布の下へと包み隠された
私は彼の脚も顔も極力見ないようにすると、少年に「この先の道は解るのか」と訪ねた
その後、私と少年はいくつかの路地や下水道を通過した
しかし、それは話の本題では無いため割愛する
いずれにしても、いま私たちはある旧市街の路地で無事助かった事を確認し立ち止まっていた
「僕の名は明星、どうやら助かったようだね」
少年が上目遣いに私を見上げる
長い睫毛だ
こんなにも蠱惑的な存在が血の付いた僧服を纏い、素脚を風にさらしている
明らかに冒涜的な光景だった
明星、それは金星を意味する言葉
その名前の意味するところは解った気もしたが、解らない気もした
私の知っている限り、金星は様々なものの象徴だからだ
彼は悪魔を自称するつもりでそう言っていたのかも知れないが、論理的にそう決定付けるには情報不足だった
「では、私も名乗ろう」
私は考えを打ち切ると、明星を見た
「私の名前は──」
「それはもう知っているよ、審問官」
明星は上目遣いを止めて真っ直ぐに立つと、私の眼を覗きんだ
「初めに、この物語の結末について教えておこう」
「君はこれから先、一度も正義を捨てる事はない」
「だが、最期には絶対に僕を守る」
《次回 第3話"Abnormalities of Life"》