夜9時の足音、広がる噂
中学3年生の水野美紀は、ある日、いつも塾に通う道の噂話を聞いた。榎本坂と呼ばれている坂道を夜九時以降にあるくと、足音が後ろからしてくる。と、いった噂だった。
梅雨明けを間近に控えた7月半ば、夕暮れ時。蝉の鳴き声が残暑を予感させる中、中学3年生の水野知佳は親友の山田美紀と下校途中だった。二人の足取りは軽く、受験勉強の重圧から一時的に解放された安堵感に満ちていた。
「ねえ、知佳」美紀が唐突に立ち止まる。その大きな瞳には、どこか不安げな影が宿っていた。「どうしたの?」知佳は首を傾げた。美紀は周囲を確認するように視線を巡らせ、声を潜めた。「榎本坂のこと、聞いた?」
「榎本坂? あの塾への近道のこと?」知佳は眉をひそめた。美紀は頷き、さらに声を落とした。「最近、あそこを夜9時に歩くと、後ろから足音がするって噂があるの」
知佳は眉をひそめた。「足音? 誰かが歩いてるってこと?」
「違うの」美紀の声が震えた。「誰もいないのに、足音だけが聞こえるんだって。しかも、振り返ったら...」
「振り返ったら?」知佳は思わず身を乗り出した。
「消えちゃうんだって。でも、また後ろから聞こえてくるの」
知佳は背筋がゾクッとするのを感じた。榎本坂は知佳の塾への近道だった。夜はいつも9時前には通り過ぎていたが、これからはそうもいかない。
「私、来週から夜の特訓が始まるの。帰りは9時過ぎになりそう...」
美紀は知佳の腕をギュッと掴んだ。「マジで? 気をつけてね」
その瞬間、知佳の目に、美紀の首元に掛かった不思議な形のペンダントが目に入った。「そのネックレス、珍しいね」
美紀は微笑んだ。「ああ、これ? おばあちゃんの形見なの。お守りみたいなものかな」
そのペンダントは、古びた銀製で、中央に小さな紫色の宝石が埋め込まれていた。知佳には、その宝石が微かに光を放っているように見えた。
その日から、知佳の中で小さな不安の種が芽生え始めた。
***塾の帰り***
特訓初日、知佳は緊張しながら塾を後にした。時計を見ると8時50分。急げば9時前に榎本坂を通り過ぎられるはずだ。
坂を上り始めたとき、知佳は後ろを振り返った。誰もいない。ほっと胸をなで下ろし、足早に坂を上っていく。
突然、後ろから足音が聞こえた。
知佳は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。しかし、そこには誰もいなかった。(気のせい、きっと気のせい)そう自分に言い聞かせ、再び歩き出す。すると、また足音が。今度は、知佳の足音のリズムに合わせるように聞こえた。
恐怖で体が硬直する。振り返ることもできず、ただひたすら前を向いて歩く。坂の上まであと少し。
やがて平坦な道に出たとき、足音は消えていた。知佳は夢中で家路を急いだ。
翌日、美紀に昨夜のことを話すと、美紀は目を丸くした。「マジで? やっぱり本当だったんだ...」
「でも、きっと気のせいよ。疲れてたし」知佳はそう言って取り繕ったが、内心では不安でいっぱいだった。
その日の放課後、学校中に新たな噂が広まっていた。
「ねえねえ、聞いた? 榎本坂の幽霊、昨日また現れたんだって」
「えー、マジで? 誰が見たの?」
「水野知佳が遭遇したらしいよ」
知佳は耳を疑った。自分が話したのは美紀だけのはずだ。それなのに、どうして...?
噂は瞬く間に拡大し、歪められていった。
「知佳が幽霊を見たんだって!」
「いや、違うよ。幽霊に追いかけられたんだ」
「聞いた話じゃ、幽霊と話したらしいぞ」
知佳は居たたまれなくなった。周りの視線が、好奇と恐怖が入り混じったものに変わっていく。
その夜も、そして次の夜も、知佳は9時を過ぎて榎本坂を歩くことになった。そして毎回、あの不気味な足音が聞こえた。振り返っても誰もいない。でも確かに、誰かが後ろを歩いている。
1週間が経ち、知佳は次第にその状況に慣れ始めていた。(ただの幻聴なのよ)と自分に言い聞かせる。しかし、その考えは翌週の月曜日に崩れ去った。
いつものように9時過ぎ、知佳が榎本坂を上っていると、後ろから足音が聞こえてきた。しかし今回は、それだけではなかった。
かすれた、しわがれた声で、誰かが知佳の名前を呼んだのだ。「知佳ちゃん...」
恐怖で全身の血が凍りついた。振り返ることもできず、知佳は小走りになった。すると後ろの足音も速くなる。「待って、知佳ちゃん...」声が近づいてくる。知佳は我を忘れて走り出した。
坂を駆け上がり、やっとの思いで自宅にたどり着く。玄関の鍵を開け、中に飛び込むように入ると、ガチャンと音を立てて扉を閉めた。
激しく呼吸を繰り返しながら、ドアの覗き穴から外を確認する。誰もいない。
その夜、知佳は一睡もできなかった。
翌日、学校で美紀に昨夜のことを打ち明けた。「やっぱり、あの噂本当だったんだ...」美紀は顔を青ざめさせた。「でも、きっと誰かのイタズラよ」知佳は強がった。
「違うわ」別の同級生、松井が会話に割り込んできた。「僕の兄貴の同期が、3年前にも同じ目に遭ったんだ。毎晩9時、榎本坂で足音がして...」
「それで、どうなったの?」美紀が食いつくように聞いた。
松井は声を潜めた。「ある日、我慢できずに振り返ったんだ。そしたら...」
「そしたら?」知佳と美紀が同時に聞いた。
「白髪の老婆が立っていたって。にっこり笑って手を振ってきたらしい。でも、目は...」
「目は?」
「真っ黒で、底なしの闇みたいだったって」
知佳は背筋が凍るのを感じた。そして、美紀の首元のペンダントが妙に輝いて見えた。その紫色の宝石が、まるで内側から光を放っているかのようだった。
その日から、学校中に噂が広まった。榎本坂の幽霊、9時の足音、白髪の老婆...。様々なバージョンが飛び交い、話はどんどんエスカレートしていった。
「老婆は実は百年前に殺された娘の霊だって」
「違うよ、榎本家の先祖が祟ってるんだ」
「いや、聞いたところによると...」
噂は雪だるま式に大きくなり、やがて学校全体を飲み込んでいった。知佳は噂の中心にいながら、誰にも本当のことを話せずにいた。
そんなある日、美紀が意を決したように知佳に言った。「私、確かめに行くわ」
「え?」
「榎本坂。今度の日曜日の夜、9時に歩いてみる」
「やめて!」知佳は思わず叫んでいた。
「どうして? 知佳も毎日通ってるじゃない」
「それは...」言葉に詰まる。
「ねえ、知佳」美紀が真剣な顔で訊ねた。「本当のこと、話してくれない? あそこで何があったの?」
知佳は深く息を吐いた。「わかった。話すわ」
その日の放課後、知佳は美紀に全てを打ち明けた。足音のこと、声のこと、そして感じる恐怖のこと。
「怖いわ...」美紀は顔を青ざめさせた。「でも、だからこそ確かめなきゃ。このまま噂が広がっていくのも気持ち悪いし」
知佳は美紀を止められなかった。ただ、美紀の首元のペンダントが、不思議な光を放っているように見えた。その紫色の宝石が、まるで何かを警告しているかのようだった。
*****
日曜日の夜8時55分、知佳は自宅で落ち着かない気持ちを抑えられずにいた。美紀は本当に行ったのだろうか。
9時10分、知佳のスマホが鳴った。美紀からのメッセージだ。
『やっぱり聞こえた。足音』
知佳は急いで返信した。『すぐに帰って!』
しばらくして、また美紀から。
『声がする。私の名前...』
『絶対に振り返らないで!』
その後、美紀からの返信はなかった。
知佳は眠れぬ夜を過ごした。翌日、学校に着くとざわめきが聞こえた。美紀の姿がない。
「美紀ちゃん、昨日の夜から帰ってこないんだって...」
クラスメイトの言葉に、知佳は血の気が引いた。
噂は一気に加速した。
「美紀が幽霊に連れ去られた!」
「いや、美紀自身が幽霊になったんだ」
「榎本坂は呪われてる。もう誰も近づかない方がいい」
パニックに陥った学校。警察も動き出した。しかし、美紀の行方はわからないままだった。
その日の夜、知佳は意を決して榎本坂に向かった。美紀を探さなければ。
9時、坂を上り始める。例の足音がする。しかし今回は、知佳は立ち止まった。
「どなたですか?」
声が震えている。返事はない。ただ、足音が近づいてくる。
知佳はゆっくりと振り返った。
そこには、しわくちゃの顔をした老婆が立っていた。白髪で、優しそうな笑顔を浮かべている。だが、その目は...真っ黒で、まるで底なしの闇のようだった。
「あら、知佳ちゃん。やっと振り返ってくれたのね」
老婆がにこやかに言った。知佳は後ずさりする。
「美紀は...美紀はどこですか?」
「美紀ちゃんのこと? あの子なら大丈夫よ。私が面倒を見ているわ」
老婆が右手を差し出した。そこには、見覚えのあるペンダントが。美紀のものだ。
「さあ、知佳ちゃんも一緒に来なさい。寂しい思いはさせないわ」
老婆が一歩近づく。知佳は反射的に走り出した。必死に坂を駆け上がる。
後ろから、老婆の声が聞こえた。「逃げられないわよ、知佳ちゃん。いつかまた会いましょう」
知佳は振り返らず、ただひたすら走り続けた。
その後、美紀は見つからなかった。警察も捜査したが、手がかりはなにも得られなかった。
榎本坂の噂は、やがて都市伝説となって広まっていった。
*******
「9時の足音」
「消えた少女たち」
「白髪の老婆の誘い」
様々な噂が飛び交い、真相は藪の中。
知佳は転校を願い出た。両親も不審に思ったが、娘の様子がおかしいのは感じていたので、了承してくれた。
新しい学校。新しい環境。知佳は少しずつ日常を取り戻していった。
しかし、夜になると...。
知佳の部屋のドアの外で、かすかな足音がする。
「知佳ちゃん、まだ起きてる...?」
母の声とも、違う誰かの声とも付かない音が、ドアの向こうから聞こえてくる。知佳は布団に潜り込み、耳をふさぐ。足音は、今夜も続いている...。
そして、新しい学校でも、噂は知佳を追いかけてくる。
「あの子、榎本坂の幽霊を見たんだって」
「友達が消えちゃったらしいよ」
「夜、廊下を歩くと足音が聞こえるんだって」
噂は新しい形で知佳の生活を侵食し続ける。彼女は、自分の体験が再び広がり、他の人々の心に恐怖を植え付けることに気づく。
ある日、知佳は学校の図書室で偶然、古い郷土史の本を見つけた。そこには、百年前の榎本坂での悲劇的な出来事が記されていた。老婆の姿をした幽霊の正体は、かつて自分の孫娘を失い、悲しみのあまり自ら命を絶った女性だったという。さらに、その女性が身に着けていたという紫色の宝石のペンダントの記述もあった。
知佳は息を呑んだ。美紀のペンダント...そして、あの老婆が持っていたペンダント...全てが繋がり始めた。
その夜、知佳は決意した。もう逃げるのはやめよう。美紀のために、そして自分自身のために、この謎を解明しなければならない。
翌日の夜9時、知佳は再び榎本坂に立っていた。足音が近づいてくる。今度は振り返らず、静かに話しかけた。
「おばあさん、私、あなたの気持ちがわかります。大切な人を失って、とても寂しいんですよね」
足音が止まった。
「でも、そうやって他の人を怖がらせたり、連れ去ったりしても、あなたの孫娘は戻ってこないわ。美紀も...美紀も戻ってこない」
知佳の声は震えていたが、それでも話し続けた。
「お願いです。美紀を返してください。そして...安らかに眠ってください」
長い沈黙の後、かすかな声が聞こえた。
「ごめんなさい...寂しかったの...」
知佳はゆっくりと振り返った。そこには、老婆の姿はなく、美紀が立っていた。彼女の首には例のペンダントが輝いている。
「知佳...ごめんね」美紀は涙を流しながら言った。「私、おばあさんの寂しさがわかっちゃって...でも、知佳の言葉で、やっと目が覚めたの」
二人は抱き合って泣いた。榎本坂に、静かな風が吹き抜けていった。
その瞬間、美紀の首元のペンダントが強く光り、粉々に砕け散った。二人の周りを、小さな光の粒子が舞い、ゆっくりと天に昇っていく。
「あれは...」知佳が呟いた。
「うん、きっとおばあさんの魂...」美紀が答えた。
その後、榎本坂の噂は徐々に収まっていった。時々、夜9時に優しい風が吹くという話は残ったが、もはや誰も恐れはしなかった。
知佳と美紀は、この体験を通じて強く結ばれた。二人は、失われた魂の悲しみと、それを癒す人々の絆の力を心に刻んだ。
そして、彼女たちは誓った。二度とこのような悲しみを生まないよう、人々の心に寄り添い、孤独な魂に手を差し伸べることを。
榎本坂は今も、静かに佇んでいる。そこを通る人々の中には、時折、優しい風と共に、かすかな安らぎを感じる者もいるという。
(終)
ある噂話としての坂道と足音をテーマにしてみました。