渡辺時代日本の市民生活
香野仁一、「渡辺時代研究」2302年六月号より抜粋
渡辺時代、市民の生活は極めて制限されていた。
政府は、旧日本時代の少子化の原因は高度な情報化社会にあると見た。
インターネットを通して形成された自由な価値観や選択の自由が、人々から生産性や活力を奪い、社会の退廃を招いたと結論付けた。
ただ、伝統的な価値観に沿って、何の疑いも感じずに繁殖し、生産していればいい。愚民政策と言ってしまえばそれまでだが、しかしあまりに生きる道が多様化したせいで、進むべき道を見失ってしまった一部の人間にとって救いだったのは確かだ。
2008年から日本の総人口は減少し続け、哲雄が死んだ2084年には8000万人にまで下がった。戦争や災害による社会の維持がもっとも急務だった。
世界でも、21世紀後半東アジアとヨーロッパの人口減少はすさまじいものがあり、今なお21世紀初頭の水準までには回復していないほどである。
この面では民衆の生活水準は平成~令和初期よりも極めて後退した。スマートフォンを持つ光景が町中から消えた。
公共の場で音楽を流すことも禁止された。電子音楽はほとんど消え去り、哲雄を礼賛する言葉の数々だけが、日々聞くリズムのある音声だった。民主共和国以後、音楽を流すことが屋外でも解禁されてからは一気に音楽が都市でも田舎でもあふれることになるが、そうではない時代が百年以上続いたのである。
災害の多い日本では、必然的に危険や挑戦を避けるべきとする気質が形成される。内戦直後はその価値観が非常に深いレベルで民衆に内面化された時代だった。
思えばバブル崩壊や雇用制度の崩壊以後、人々の暮らしと精神衛生はずっと不安定なものだった。価値観が崩れて行き、何が正しく何が間違っているかの価値判断すらおぼろげになっていった。まさしく内戦はそのような人間の存在そのものに最も大きな疑念を投げかけるものだったのである。そして、戦争が終わってからも人々はひたすら悩み続けた。一時は哲雄に熱狂することでそのような内面の悩みから目を背け続けたが、哲雄の死によってもう一度価値観の解体にさらされた。
哲幸が哲靖を倒した政変から数年が経ち、国民も政治家もついに哲雄の死を受け入れつつあった。内戦後の混乱の歴史もようやく客観的に語れるようになり、そこで戦った軍人たちも次々と鬼籍に入りつつあった。
もはや戦乱に満ちていた頃の精神状態で過ごしていてはならない。良くも悪くも訪れて来たこの平和に適応せねばならない。これからの国家像を模索せねばならないことは明白だった。
2088年の正月に開かれた演説で、哲幸はこう述べた。
「人間は多様な価値観が尊重されるべきである。一つの価値観に縛られた社会は自然に壊死していく」
多様性を尊重するような言動を発した後で、しかし、
「人々には個性があってしかるべきだが、神君への忠誠においては均一でなければならない」と付け加える。
たとえどれだけ社会が変わり、人々の生活に変化が現れようと、渡辺の血統だけは決して冒されてはならない。それが旧体制の骨子である。全体主義ではなかったが個人を尊重する社会でもなかった。
日本という国には建国理念というものがほとんど議論されてこなかった。明治維新以来、天皇制という権威によって漠然と存在してきたが、天皇家の海外亡命という未曽有の事態によって、国家理念が物理的に消失してしまったので、それを補完する目的を哲雄という人間に押し付けたのである。
哲雄がすでに死んだ人間であるというのが最も特徴的な点だった。現人神とされる天皇はその不可侵性を破られれば生身の人間に過ぎないが、すでに宇宙と一体化した神君は永遠に滅びない。こうして日本史上まれにみる神権政治が行われた。
その権威を守るためならば、歴代将軍はいかなる自由の制限でも課した。それゆえ一般市民の人生における選択には様々な不自由があった。
21世紀後半の日本における人工知能技術は、軍事の他に、主に人間の性質を分析し、適当な仕事を割り当てるために研究されたのである。人々に就労の義務が課され、国家が決める仕事に従事せねばならなかった。ただし、本人が強く志望する場合は、本来決定されたのとは別の仕事に就くことも許された。ある程度の流動性を持ちながらも、しかし基本的には国家の意図する方向に従わなければならない。ずっとそういう社会だった。
そんな中で戦争は、人々にとっては地位向上を図る絶好のチャンスだった。渡辺日本はアラスカ戦争やシベリア戦役、といった大規模な戦争を経験しており、そのたびに膨大な兵士が出征したが、その中から栄達できたのはほんのわずかな人間だけだった。だがわずかだったとしても、同じ地域や民族的出自の人間を喜ばせずにはいられなかった。
戦争ではなくても、徴兵によって様々な所に移動し、勤務することは国民に国土意識を学ばせた。
現在、国民の四割以上は外国ルーツであると言われるほどだ。その辺の人間の先祖を探し当てれば、どこかで必ず海外移民から派生している。
多民族を前提する社会においては、単一の民族による国家という名目は成立しえず、そのため血統による一つの権威に国民を従属させる道をとらざるを得なかった。
それゆえに国民はすべて神君・哲雄の子であるというイデオロギーが国家体制を支えた。平成以降、もはや天皇制が国民統合の手段としては効力を失ったので、哲雄教がその代替品として台頭したのである。
哲雄とその子孫への忠誠さえ示せば、国民として認められるという考え方は非常に簡便で、強力だった。
それを社会の基本的なレベルに貫徹させるために、一貫して芸術は渡辺哲雄の神格化とその子孫による統治の正当化に腐心した。前時代に比べると非常に後退した点である。芸術も学問も、国家を発展させ神君の栄光を強くする目的のためだけに推奨された。
しかし神君イデオロギーによって国家の統合が可能になったというよりはその逆で、このような新しい国家理念による国民統合は、内戦により旧来の社会が崩壊して初めて可能であった、とする指摘もある。
内戦前後には大陸と半島から大量の移住者が流入したが(2)、当然ながら国家がこれを社会に統合していくのは至難の業だった。徴兵制を導入したのは、国防上の理由も無論あるが、国民の個人情報を把握せねばならないという要請があったからである。社会が史上かつてないほどに渾沌として、均一性の存在しない状態であったために、安定のためには強権的な手法でもとらざるを得なかったのである。
国民意識を醸成するためには、多様な地域から人間を集め、混合させ、それまでのアイデンティティを解体し均一的な集団にする必要がある。その最も効率的な手段が軍隊だった。渡辺時代、徴兵制による軍隊生活を通して国民は国家に属しているという意識を得た。どのような出自の人間であれ、軍務を通して日本国民としての地位を保証された。
たとえ不法移民の子であっても、日本で生まれたならば日本国籍を持つものとして認められた。
こうして中東や東南アジア系移民も多数軍隊に加わり、頭角を現した。当時の記念写真などに写る軍人の姿をみると、非常に多様な出自の人間が登用されていることがよく分かる。
しかし、彼らも互いに異なる社会常識の中で生きており、それ以外のものとは基本交わらずに生活してきたため、同じ場所で生活を共にする中で衝突もあった。特に宗教の違いによるトラブルが頻発した。
シリア出身のアラブ人を先祖に持つ海軍士官富内弥太郎(2101-2163)は敬虔なムスリムであり、哲雄を神として崇拝する儀式に反発した。このことは哲雄への信仰心が篤い同僚の怒りを買い、豚の油を浴びせられるなどの侮辱を受けた。このことが一般民衆にも知れ渡ると、ムスリムの間で暴動が起きた。激しい抗議運動の末、ようやく不当な仕打ちをかけた弥太郎の名誉は回復された。これにより、軍の中でムスリムの兵士が、他宗教の兵士とは異なる扱いを受け、礼拝のために特別に導師を持ち活動を行うことが許されたのである。
なお現在、奈良県令をつとめる富内建太氏は弥太郎の子孫である。
渡辺時代を通して、常に和人と非和人の間には緊張関係があった。これもまた、令和初期から続く衝突であり、22世紀に入ってその共同体の領域が確定し、ようやく沈静化するまでは暴動が何度も起きた。このように一つの社会の中に異なる民族集団が共存するということは日本史上初のことであったから、折合をつけるには一世紀では短すぎた。神君の威光をもってしても、異民族の融和はあまりに難題であった。時に、異民族に対する抑圧は、帝国時代の植民地政策に似通ったものがあった。
だがいずれにせよ、我々日本も他の国々と同じように、文明の衝突と融合を経験したのだ。そうして生まれた社会の姿を、どうしてもそれ以前の時代の社会の姿にも投影しがちであるという悪癖がある。
大都市以外の地域には基本的に日本語しか聞こえず、国民の二割が一神教徒であるような社会など、21世紀初頭の人間にとっては想像もつかなかっただろう。当時の雑誌記事やSNSのアーカイブを見ても、「日本では一神教は根付かない」「日本は宗教に寛容」というような言論がまかり通っていた。実際にはそのどちらも虚偽であり、教会やモスクが幾度となく破壊の憂き目に会い、富内中尉のような不幸な事件がまかり通ったわけだが。
話が長くなった。
死後の世界にしても、神君の支配から逃れることはできない。
葬式は宗教の地位低下に伴い内戦以前から家族葬などの形で簡素化が進んでいたが、内戦後に至ってはまともに行われることもなくなる。山や川に死体を遺棄する事件が全国で多発した。おびただしい犠牲者を弔う余裕などどこにもなかったからだ。死が日常になってしまい、もはや悲しむべき出来事でもなくなってしまった。
数世紀前なら仏教や神道がそういった精神的空虚を満たすために存在していたが、伝統的な宗教勢力は悲惨な現状に対して何ら適切な対応を取ることができず、もはや民衆は関心を抱いていなかった。
日本史上類を見ない規模でのイスラームやキリスト教への入信者急増という事態が起きたのもその頃である。未曽有の危機において宗教への関心は急速に高まった。そして宗教にまつわるトラブルも急増sた。それゆえに国家はあらゆる宗教の上位に基づく原理を必要としたのである。
哲幸以後、哲雄崇拝に基づく葬送儀礼が整えられるが、公衆道徳としての哲雄崇拝は実際「死者の安寧」という目的に重点を置いていた。哲雄があまりに慇懃に葬られていたように、民衆もまた丁重に葬られねばならない、という願いが社会に通底していた。
特定の宗教に属していない人間ならば、大体「哲雄教」式の礼儀で葬式を行うのが通例であった。
死者の霊の前で、遺族は哲雄の名の元に魂の安寧を祈った。
弔辞は「彼の魂は哲雄と共にある」という言葉で結んだ。死者の遺骨を納めた箱が地中に埋められた後、その上に白い石の墓標が建てられた。こうして各地に作られた墓地形式は民主共和国時代になってからも踏襲され、非宗教者の一般的な埋葬形態として定着している。
中でも戦争や功績のあった者は、廟に合祀された。こうした栄誉も、人々が努力奮闘するモチベーションをもたらしたものである。
様々な不自由をもたらしたという理由で悪名高い哲雄信仰だが、国民の高揚させる機能も確かにあったのである。しかしこのような個人崇拝は所詮帝国時代天皇制の再来であるという批判は国内外からあった。
民主共和国が成立した後、哲雄教が廃止されたのは果たして良かったことだったのかどうか、私には判じ難い。なぜなら国家の中心たる信仰が解体されたことによって、国家の新たな拠り所を再び虚空から模索せねばならなくなったからだ。しかも、民主主義の建前上一人の権威やカリスマに頼ることは許されないのである。哲雄という、無条件に忠誠を捧げられる対象を失ったことは、国家にとって甚だしい喪失感をもたらした。
実際、民主共和国になってから民族間差別が深刻になってきている。不満のはけ口にされ、モスクや教会が焼き討ちにされる事件は渡辺時代にもしばしば起きたことだが、失業率は改善の見通しも立たない。富内弥太郎の悲劇が繰り返されようとしている。
哲雄とその子孫の国であった日本が、大和民族の国に戻ってしまったのである。改革者たちが、頑迷な民族主義者であったことが不幸の始まりだ。
平成や令和を思わせるあの退廃とした悪意の沼に、再び我が国は沈みこんでいるのではないか、という気がしてならないのだ。無論、渡辺時代に生を受けた者の郷愁と言えばそれまでかもしれない。しかしこれは、新たな動乱の幕開けになりかねないのではないかと、内心危惧しているのである。
(1)到底既存の社会機構では抱えきれない膨大な犠牲者を弔うために、河合正治(1995-2073)の元、宗教の差異を越えて慰霊を行うべきであるとする運動が起きた。哲雄教への過渡期に生じた産物というべきであろう。
(2)内戦と並行して北韓では長年強権的に国家を統治してきた政権が瓦解し国境封鎖が解かれた結果、シベリアや中央アジアからの亡命者が朝鮮半島になだれこみ、一部は日本にまで渡航した。2054年に高麗連邦が成立し、旧北韓地域の社会的南韓化という国家規模の大事業が始まる裏で、これら外部からの人間を社会に包摂するのに多大な努力が必要であった。21世紀朝鮮半島において生じた移民による社会の変化は、同時代の日本で起きたそれよりも遥かに、すさまじい歴史の断絶を生み出したという。