2章 再びの空へ3
「んんなあああぁぁぁっ!」
クローネは叫ぶ。同時に渾身の力を込めてハンドルを引き、機首をあげようとする。
ミチミチと筋繊維のちぎれる音が骨を伝わり脳に響く。血走った目から泡を吹くほど力を入れてリードを引きちぎろうとする機体を制御する。
――ぶちっ。
耐えきれずワイヤーが断線すると共に、事態に気づいた客が蜘蛛の子を散らすように去っていく。悲鳴を轟かせ、前を行く人を押し倒していく様は醜さすら感じられた。
ピンと張られていたワイヤーは蛇の如くのたうち回っている。それを後ろに見ながら、轡を引っ張られた馬のように顔を上げた機体は上を目指していた。
壁の形に沿うようにきつい弧を描いて駆け上がる。生じた風圧がまだ立っていた人々を押し倒す。そんなことお構い無しに青の弦月は天井付近まで伸びていた。
「はぁ……」
地に頭を向けたまま、クローネは大きく息を吐く。難所は脱した。速度はまだ乗っているが大きく円を描いて滑空していけば、着陸はそう難しくない。
しかし、
「せまーい」
ハンドルを足に持ち替えて、サイドスラスターを微速噴射する。それだけでくるりと横に回転した機体は壁を舐めるように飛行していた。
急な角度をつけて舞う姿は気品に溢れている。誰もがその姿を目で追い、ただ一人クローネだけが不満を口にしていた。
会場を何周もしながら減速する機体は徐々に高度を下げていく。たっぷり三レース分の時間を使ってから、ギアダウンして着陸の態勢へと移行していた。
もはやその姿はドロッパーではなく、いち飛行機と言う方が妥当であった。総合演習用にもう一機作る余裕は金銭的にも時間的にもなく、これしか方法がなかったとも言えた。
雪をしっかり噛むように作られた車輪は鉄製で、丸いホイールにチェーンが幾重にも重ねられていた。平地を掴むほど性能のいい合成ゴムなどこの世界中探しても何処にもなく、硬い鉄同士が噛み合って耳障りの悪い絶叫を奏でる。
「ぐっ、うわっと、いったぁ!」
板バネのサスペンションでは吸収しきれない衝撃が何度もクローネの臀部を叩く。完全に停止したあとも、悶え苦しむ間は動くことが出来ずにいた。
……はぁ。
しかしまた生き残った、とクローネは風防を持ち上げる。先程までの熱気が嘘のように引いた五階で全ての視線を集めた彼女は、ただつまらなそうに立ち上がると実況席へと指をさしていた。
手のひらを上に向けて、人差し指を手前に何度か曲げる。来いという合図だ。見えているとは思えないが。
飽きるほどの時間が経過して、どこからか走ってくる男性の姿があった。手にはコードリールをもち、彼の商売道具であるマイクと繋がっている。
「ご苦労。はしごを上がっておいで」
コクピット内に収納されていた一本足のタラップを下ろしながらクローネは言う。
その男性は荒い息をそのままにタラップに足をかけていた。不安定ながらも一歩一歩確かめるように上がってくる。
そしてコクピットの内部に足をかけると、大事に持っていたマイクを口元に寄せて一息。
「はぁ……クローネ選手、これはどういうことでしょうか?」
的を得ない質問にクローネはただ笑っていた。
どういうこともなにも、被害者はこっちだろうに。
事故か、故意か。そんなことにはもう興味はない。
クローネは差し出されたマイクを奪うと、慌てる男性を手で牽制しながらうやうやしく一礼する。気持ちは舞台女優であった。
「皆、今日をもって私はドロッパーレースを卒業するわ」
一息区切り、言葉を重ねる。
「でもそれは今のやり方が嫌になったわけじゃないの。そこに空があるのに、こんな小さな世界でかけっこするだけじゃ満足できなくなったから。私はこの巣から飛び立って渡り鳥になるわ。それを負け惜しみと言っても勝ち逃げと言ってもいい。いいたいことがあるなら外で待ってるから」
ただひとつの空を見上げて手を伸ばす。幾重にも閉ざされた隔壁の先にある蒼穹は、もう遠くないのだ。
「――ってことで、あんたは文句あんの?」
「えぅ……っと、あ、ありがとうございましたぁ!」
クローネはマイクを返すと予備の滑車を取りだして、頭上のワイヤーにひっかける。
会場から格納庫へと向かう彼女の背中を皆が静かに見つめていた。




