七夕夜話・お帰りはこちら
高い塀の中で、竹藪がザザアッと音を立てた。ここは著名な人形作家の館である。弦巻甚五、雅号は天竹、90になっても現役だった。伝統的な人形師とは違って、材料を育てるところから仕上げ迄をたった1人で行う人物だ。
周囲の家々が軒端に笹竹を飾る中、この館一軒だけが忌中の提灯を掲げている。人形作家が死んだのである。老衰だった。ある日起きてこなかった、という理想的な死に際であった。
本館から短い渡り廊下を抜ければ、離れへと至る。離れは工房だ。甚五しか入らない聖域でもある。母屋で遺族が忙しく葬儀の用をこなしている間、灯が点ることもなく深閑と竹藪の中に沈んでいた。
薄暗い工房には、人形サイズの七夕飾りが糊付けを終えて並んでいた。庭から切り出した本物の竹に、金銀の紙細工が下がり、五色の短冊を揺らしている。
静かに見ている者があった。人ではない。作家が来客用に備えていたカラクリ人形たちである。家族を訪ねてくる者や注文や取材にくる人をもてなすためだ。
特に茶運び女中は人気だった。訪問者に気づくと、人形作家は水筒と人形を抱えて母屋に忍足でゆく。客間や子供の部屋の前で人形を下ろし、茶碗にお茶を注ぐ。それからそっとドアや襖に隙間を開けて、キリキリと人形のネジを巻くのだ。
立て矢に結んだ金蘭綾織の帯が、ちっとも揺れずに背中を飾る。カタカタと進んでくる片外しに結った小さな御殿女中に、ある者は驚き、ある者は喜ぶ。稀に激怒する者もあった。
かのからくり儀右衛門の作品に遺されているという、華やかな女性の茶運び人形を真似たものだ。鮮やかな青地の振袖も、上品に差された朱色の口紅も、手入れがよく行き届いて作品愛が滲み出ている。
夕方になると読経が工房に届く。遺された人形たちが沈黙のうちに顔を見合わせた。読経が止むと、母屋ではガヤガヤと話し声が始まった。食器の触れ合うカチャカチャという音、忙しく行き交う配膳の足音もした。
突然、渡り廊下を工房へと向かう足音が近づく。1人だけのようだ。主人とは歩き癖が違う。人形たちは不安そうに目線を合わせる。目の動く者は目玉を巡らせ、目が動かないものは首を、首も動かない者は身体ごと動かす。
渡り廊下につながる引き戸が開く。好々爺の細面が覗く。戸口に立ったまま少し潤んだ目で、月光が溢れて照らす工房を見回している。愛好家の笹谷さんだ。甚五が無名だった時代から、ずっと天竹人形を気に入ってくれている。
人形たちに緊張が走る。そ知らぬ顔で動かずにいる。笹谷さんは、棚にある小さな七夕飾りに目を止めた。老いた上に涙で霞んだ眼には、短冊の文字までは読めない。
「やあ」
壁際に姿勢よく控える茶運び女中を見下ろして、笹谷さんは優しく声をかけた。人形は静かにしている。
「奥様にお許しを頂いたから、お願いしていた七夕飾りを拝見に上がりましたよ。四十九日が過ぎたら、改めて引き取りに参りますが」
言い訳のように言うと、笹谷さんは工房に足を踏み入れた。カタリ、と何処かで音がした。甚五の聖域とも言える工房に、初めて他の人間が足を踏み入れたのである。動揺を隠せない人形もいたのだろう。
それに、四十九日と言う言葉が聞こえたのだ。甚五に何が起きたのか、とうとう人形たちも知ってしまった。動かずにはいられなかったに違いない。
甚五は材料から全て作る作家だ。渡り廊下に繋がった作業場の奥には、更に別の作業場へと続く扉がついている。扉の先は、広大な庭の竹藪に侵入防止の柵を巡らせた場所だ。別棟で焼物工房、鍛治工房、ガラス工房などが点在しているエリアである。
人形たちが見守る中、笹谷さんは壁を探って照明スイッチを入れる。工房が昼間のように明るくなった。その後は、まっすぐに七夕飾りへと向かう。老眼鏡をかけると、小さな短冊を丁寧に読み上げた。
「天の川」
「健康長寿」
「子孫繁栄」
「家内安全」
「鵲の渡せる橋に置く霜の 白きを見れば夜ぞ更にける」
なんて事のない短冊だ。しかし、笹谷さんは読み切る頃には涙で声を詰まらせていた。上を向き、眼鏡を外して目頭を抑える。静かに深呼吸をして悲しみに耐えていた。
しばらくそうしていてから、笹谷さんは茶運び女中の前に来てしゃがんだ。
「先生は、納期は必ず守られた方だからねえ。こうして拝見だけでもしておこうと思って。心残りがあってはいけないから」
笹谷さんは皺の寄った親指の先で、不器用に御殿女中の鬢を撫で袖を整えた。
「お前さんにはずいぶんお世話になったね。初めてこちらへ上がった時にはびっくりしたなあ」
笹谷さんにも、客間で待っていたら茶運び女中が現れて驚いた経験があるのだ。
「ああ、君にも何度か会ったよね」
茶運び女中の隣には、何体かのからくり人形が並ぶ。笹谷さんは鞠つき童女や手習童子、梯子乗りや家鴨に餌をやる少女などの人形たちに一言ずつ話しかけてゆく。
ゆっくりと、丁寧に。中には微かにみじろぎする人形もいた。笹谷さんは仕掛けを動かそうとはしなかった。少しだけ髪を整えたり、ハンカチを取り出して埃を拭ったりするだけだ。
それが人形たちにとっては寂しさを増す行動に感じられたようだ。からくりのない猫の飾り人形をハンカチで撫でた時だった。猫は硬い竹の身体を笹谷さんに擦り付けたのだ。
「ほっ」
笹谷さんは眼を見開いた。それをきっかけに、人形たちは笹谷さんの周りに集まってきた。物言わぬ人形たちが、悲しそうに笹谷さんと寄り添っている。
工房の壁で、振子時計が零時を告げた。笹谷さんがハッとして立ち上がる。
「しまったなあ。奥方が不寝番をなすってるだろうけど」
戸締りの人も来ることがなく、笹谷さんはすっかり見落とされていた。そっと出て行きたいが、門のセキュリティロックを開閉してもらわないとならない。
しんみりと故人に寄り添う仏間の人に声をかけるのは憚られる。かといって、このまま朝まで工房で過ごすわけにもいかない。
「どうしたものか」
笹谷さんは、時計の針を睨んで逡巡していた。振り子が規則正しくチクタクと真面目な音を立てている。この工房にある物は、時計までもが折目正しい甚五のようだ。
笹谷さんのスラックスの裾を、弱い力で摘む者がある。
「えぇ?」
笹谷さんはごく自然に足元を見た。上を向ける人形はみな見上げてくる。キリキリとゼンマイの音がして、手習童子が文字を書く。笹谷さんは読み上げた。
「御案内」
「致します」
外見は江戸時代くらいの童子である。甚五のこだわりで変体仮名で文字を書く。尤も、本来のからくりは動きだけだ。手習いの紙には最初から伊呂波唄が途中まで書かれている。
その余白に、童子は文字を書いたのだ。墨の出所も筆先の可動域も、本来の設定を逸脱している。だが、笹谷さんは受け入れた。共に故人を偲んだ仲だ。今更驚かない。
茶運び女中がカタカタと進み出る。
「お前さんが見送ってくれるのかい」
笹谷さんが眼を細めると、茶運び女中は茶碗も無いのにカタンと角盆を上げ下げした。
「そうか。ありがとう。よろしく頼むよ」
茶運び女中は僅かに振袖を揺らして身を翻す。安定した走行で裏の扉へと導いた。留金は自然に外れ、扉が月夜の庭へと開く。風が竹を渡って行った。
暑さの残る七夕の夜だ。満天の星に抱かれて、月は底が膨らんだ船の形で空にかかっていた。別棟が点在するエリアは竹もない。笹谷さんは開けた空を仰いで風に吹かれていた。
御殿女中は、促すように角盆を上げ下げした。
「ああ、すまない」
笹谷さんは困ったように眉を下げ、地上に眼を戻す。裏庭は几帳面な甚五に似つかわしく、綺麗に雑草が抜かれていた。毎日自分で掃除をしていたのだろう。
とはいえ、床や畳のようにはいかない。足袋裸足の御殿女中には困難な道のりだ。
「工房に人形用の履き物があるんじゃないか?」
笹谷さんが気遣うが、茶運び女中は物ともせずに進んでゆく。月明かりに霞む裾周りに眼を凝らすと、どうやら擦れもせず汚れもしないようだった。
「はは、便利だねえ」
案内する小さな背中は、心なしか得意そうに感じられた。
やがて枝折戸に辿り着く。鄙びた竹の枝折戸なのだが、ナンバーキーが設置されていた。防犯カメラもあって、簡単には侵入を許さないシステムだ。
笹谷さんが人形を見ると、いつの間にか角盆にメモが載っている。拾い上げれば、四角い紙切れには数字が並ぶ。暗証番号なのだろう。
難なく枝折戸を出る。オートロックで錠が下りた。
「おや、入れなくならないかい?」
笹谷さんが心配すると、人形は自慢気な雰囲気を出して浮き上がった。
「こりゃ、便利だね」
人形だけなら、ふわふわ飛んで柵を越えられるのだ。ずっと浮いていかないのは、見咎められないためだろう。茶運び人形の背丈なら、殆ど人の視界に入らない。安全な移動ができるのである。
人目のない深夜とはいえ、万が一ということがある。呪いの人形などという悪評が立っては、甚五の名声に瑕がつく。人形は、細心の注意を払っているのだ。
納得したところで、竹藪を縫う飛び石の道を辿る。僅かな段差にも傾くことなく人形は進む。笹谷さんは、もうそういうものだと気にしない。
途中で館に住む猫が横切った。猫は慣れているのか、ちらりと人形に目線を走らせたきり、知らん顔で藪に消えた。
順調に竹藪の道を進み、石を並べた階段坂も降る。高い壁に人ひとりがやっと通れるような扉が現れた。黒塗りの引き戸だが、やはりナンバーロック式である。先程と同じように暗証番号が知らされ、笹谷さんはお礼を言った。
「四十九日に上がる時には、小さな櫛でもお持ちしよう」
笹谷さんが感謝の笑みを向けると、人形の角盆には塩の包みと人形サイズのお守り袋が3つ、そして一枚のメモが現れた。
「天竹が無名の頃からご愛顧下さった笹谷さんに、せめてもの恩返しがしたかったのでございます」
「どうか、お心やすく」
「真夜中でございますゆえ、悪いものにはお気をつけて」
メモには変体仮名で細かい文字が書かれていた。
笹谷さんが読み終えて人形に眼をやると、もう扉が閉まって姿が見えなくなっていた。笹谷さんは御守り袋の面に刺繍された文字を読む。
「交通安全」
「道中安全」
「怨霊退散」
読み終わると、丁寧に上着の隠しへと収めた。
「この時間なら、まだ終電があるかも知れないな」
それから悲しげながらも爽やかな表情になって、月夜の道を走り始めた。
近年の七夕には珍しく、晴れた夜空には薄らと天の川が流れていた。都会ゆえにかろうじて見えるという程度だが。それもまた、故人の人柄を表すようで、笹谷さんの頬が自然に緩む。
月も静かについてくる。まるで甚五の魂が、月の船に乗って笹谷さんを見送ってくれるかのようだった。
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