聖女カナリアは俯かない。
1.
初夏を迎えた王国の西部地方では、豊かに芽吹く緑が丘を埋め尽くしている。
緩やかな傾斜を描くその先にうっすらと姿を現した建物を見て、レブナン伯爵令嬢カナリアの心は軽く安堵に包まれた。
ここ三百年ほどで増築を繰り返し、数十の塔に囲まれた建物は、女神がおわす神殿の外縁に沿って建っている。
誰が呼んだか『尖塔の神殿』と称されるほどだ。
一番高い塔の尖端が陽光を鈍く照り返し、銀色の輝きを放つ。
すると、白い煌きもまた、視界の片隅に揺らめいた。
馬車が丘の斜面にできた荒い道を走るたびに、車輪を取られて上下したせいだ。
――あそこに行けば、彼を苦しませずに済む。
ハシバミ色の瞳を逡巡させ、カナリアは前を向いた。
前方は三叉路になっており北部方面へと向かう道、海へと続く道、そして、神殿に至る道となっている。
思い留まるなら今しかないと思った。
あの道を折れてしまったら、もう後には戻れない。
同乗している老いた下男が確認するように主人の顔色を窺う。
「お嬢様……」
事情の一端を知る老爺に、カナリアは静かにうなづいて見せた。
「では……」
主人よりも迷いを見せる彼を促す為に、カナリアは薄く微笑みを浮かべる。
「大丈夫よ、リゲル。お前が気にすることではないわ」
「はい……」
女神タラスの神殿は迷える婦女子を救うことで有名である。
さまざまな事情を抱え、一般社会で生きていくことが苦しくなった女性や、子供たちが最後にたどり着く場所。
それが女神タラスの神殿。
いま、カナリアはそこの一員になろうとしていた。
つい先日、思いがけない事故に遭遇してしまい、清らかな体ではなくなってしまったせいだ。
一際高い塔の上にある鐘が、正午を告げる。
その甲高い音は、彼女に人生の選択を迫っているようでもあった。
やがて神殿の馬車溜まりに馬車が到着すると、事前に連絡してあったため、迎えが待っていた。
荷物が馬車から降り始め、次は主人が降りる番となる。
カナリアは一通の手紙を下男へと手渡すと、強く言い渡した。
「これを彼に。オリバーに渡して頂戴。必ずよ、リゲル、お願いね?」
王都からここまで、魔道列車と馬車を乗り継いできた。
手紙は移動の合間、手元が揺れない場所でしたためたものだ。
男性の宛名を確認するかのように小さく呟くと、手紙を受け取った下男は、必ずと言った。
そして、懐深くに手紙をしまいこむ。
カナリアは最後に、力無げに微笑んで馬車を降りた。
女官が先導するあとに、神殿の門をくぐる。
そこは、浮世とのわかれ道。
いまから彼女は、女神に仕える女官となるのだ。
これから先、世間との関わりをもたず、縛られることもない。
女神の神殿に匿われたら、王族といえども手出しはできない。
彼女に残された唯一の逃げ場がここだった。
「……ごめんなさい、あなた」
カナリアは最後の後悔を述べ、己の身勝手さを胸内に沈め込んだ。
カナリアは王立楽団の誇る歌姫の一人だった。
彼女が一度、歌を紡げば嫉妬深い美の女神すらも、怒りを忘れて声援を送り、拍手をする。
それほどに優れた歌い手の彼女だったから、引く手もあまたで、たくさんの場所で演奏する依頼を受け、それをひとつひとつ確実に成功させてきた。
彼女の明るい未来は、ひとつのコンサートを大成功のうちに終わるせるたびに、明るいものへとなっていった。
先日行われた、国王陛下即位三十周年記念パーティでも、王立楽団の演奏をバックに歌声を披露した。
古い時代を舞台にした戯曲の一節で、恋をすることを許されない聖女と、彼女に秘めた愛を伝えられないまま仕え続けた聖騎士の物語。
報われない恋人たちが、最後に女神によって愛を認められ、死後の世界で願い成就させる、という内容のものだった。
多くの列席者が悲しみに心を濡らし、騎士の誠実さを拍手で湛え、最後に訪れた愛の奇跡に感動の涙を流した。
しかし、パーティの成功とは真逆のことがカナリアを襲う。
愛おしい恋人と過ごすはずの大切な一夜は、暴漢によって壊されてしまったからだ。
2.
初夏、王都。
歌姫カナリアの演奏から婚約者のアーミッシュ伯爵令息オリバーは耳を離せないでいた。
ピアノの前に立ち、恋人たちが幸せを美の女神に祝福される一説を歌う幸福のしるべは胸の奥に深い感動を生んでいる。
やがて演奏が終わり、彼女が楽団の席に戻ると、会場は盛大に拍手で沸き立った。
この夜会は、王国の国王陛下即位三十周年を祝福して開かれた催しだ。
カナリアは素晴らしい歌姫だ。
美しく、音楽の精霊に愛されている。
すらりと伸びた四肢は、まるで野生の高貴な魔獣、炎豹を思わせる。
落ち着きと気品に満ちていて、今度は愛用しているバイオリンを構えただけで、衆目をその身に浴びていた。
これから始まる演奏を、誰もが心待ちにしている。
だが、オリバーの心に映る未来は、腕に抱きしめたカナリアと熱い抱擁を交わす光景だった。
彼女はその気になれば情熱的に、胸の中に秘めた愛を解放することだろう。
けれども、いまのところ、二人の仲にその兆しは見えなかった。
オリバーがキスをすれば、カナリアは音楽を口実に軽く、さっと触れるかどうかだけの挨拶をかわして、するりと腕の中から逃げてしまう。
唇に残る苦い思い出をどうにかしたいとオリバーは、いつも彼女があとすこしだけ心の扉を開いてくれることを、いつも願っていた。
「聞いた? 兄さん、カナリアの歌声。まるで天使が舞い降りたみたいだった」
同じテーブルについて演奏を聴いていた妹のエレンが、手を叩いて親友を賞賛する。
「お前のようにはしゃげるのが羨ましいよ」
オリバーは胸内の秘めた欲望を、妹に知られまいと堅苦しい返事を返してみせた。
「兄さんはいつもお堅い騎士様だから。そんなんだから、カナリアの態度も堅くなるのよ?」
無邪気な妹の言葉に、オリバーは現実へと引き戻される。
カナリアとの出会いはエレンの紹介だ。
学院の同期生で同じ寮の部屋で長く暮らした二人は、姉妹のように仲が良かった。
一年前に始まった交際は、ようやくその身を結ぼうとしている。
呆れた口調でそう言う妹は、オリバーの隠れた努力を見ようともしない。
「おい、それはあんまりな言い分だろう。俺は‥‥‥」
兄の愚痴めいた言葉は、始まった演奏によって消えてしまった。
カナリアは恋愛よりも音楽を優先する女性だった。
キャリアを積み重ね、天性の才能をさらに開花させて、宮廷楽師の座を勝ち取った魅惑的な美女は、野心もまた大きく結婚に至るには、もう少し時間がかかるだろうと思われた。
不満そうな妹が、兄の耳元でささやく。
「何よ? カナリアだって兄さんを信頼しているから、時間が欲しいって言ってるんでしょう?」
その言葉には、妙な義務感を覚えた。
オリバーは、「まあな。お前には感謝している」とだけ返し、恋人の演奏にじっと見入り始めた。
カナリアとオリバーは宮廷に仕える人間である。
オリバーは、近衛第二騎士団の副団長を務め、また第二王子の剣術指南役でもあった。
自分の情欲を抑え、紳士としてふるまうことで、オリバーはカナリアと婚約したのだ。
この一年間、ほとんどと言っていいほど、オリバーは言葉で彼女と愛を語ることはあっても、それを触れ合いとして実感したことはなかった。
これほど長い期間、じっと我慢することは嫌ではなかった。
カナリアのことを考えると相手に任せる形で、関係を深めたほうが良いと思ったからだ。
もともと、オリバーは恋愛関係において、我慢するタイプではなかった。
しかし、カナリアと付き合う前。
ほぼ四年ほど前に婚約していたとある令嬢との恋が惨憺たるものに終わってからは、自分の流儀を貫こうという考えは変わった。
相手との信頼関係を作ることを優先し、心理的な居心地の良さを大事にするようになった。
そのことを意識し始めてからだ、最初は高い壁を築いて男を受け入れようとしなかったカナリアとの関係性に、変化が訪れたのは。
3.
一通りの演目を終え、婚約者が壇上から下がったのはそれから二時間ほどしたあとだった。
夜会は終盤を迎え、人々は国外や遠方からの来賓以外、王都の自宅へと家路を急ぐ。
カナリアを腕の中に迎え、オリバーは額にキスをして疲れを労った。
「今夜はあなたとずっと一緒にいたいの」
「何だって?」
思わぬセリフを聞いて、オリバーは我が耳を疑った。
意外にも最初に心へ出てきた言葉は、「無理をすることはない」というセリフだった。
ここ最近のオリバーは忙しく、今役者のことをまともに見てる暇はなかった。
そのことは逆に彼女にとってありがたいのではないかと思っていたほどだ。
恋人は音楽のキャリアを築くことを優先していたし、彼もそれを正しいと思っていたから。
「無理はしてないのよ」
「それならいいが。君の演奏は素晴らしかったよ。これまで俺が聞いてきた数ある演奏の中で、最高の出来だった」
お世辞でも嬉しかったのだろう。
カナリアは身長の高い彼を見上げて、はにかんで見せる。
彼女の艶めいた魅惑的な笑みがオリバーには抗えない魅力となって、心で一つの線を結んだ。
今夜、彼女と過ごせたら最高だ。
真っ青なロングドレスに身を包んだ優雅な姿に、オリバーは満足そうな視線を送る。
両肩はあらわで、胸元が大きく開き幾つかのフリルと花飾りで彩られたそれは、緩やかに流れるようなシルエットを形作っている。
神秘的ながら挑戦的な雰囲気は彼女にぴったりで、今夜の華やかな夜会にも似合っていた。
肩でゆるくまとまっている髪を、今夜、自らの手で解くことができるのだと思うと、なおさら彼女は美しさを増した。
カナリアは楽器と楽譜をまとめ終えると、それらを胸元に抱えた。
ハシバミ色の瞳を細めると、恋人の誉め言葉に全身で喜びをあらわした。
「本当にそうかしら? もっといい演奏、他にあったかも?」
軽くからかうように言い、どうだったと首をかしげる。
オリバーは目元を緩めて、「今夜は最高だ」と褒める。
今までにない反応の柔らかさに、彼はちょっとだけ戸惑いを覚え、その正体を推測した。
――遠慮が消えた? まさか
遠慮とはつまり、彼女が音楽を優先してきたために、彼に向ける心配りがついついおろそかになりがちだったことだ。
興味がなければ恋などしない。
貴族の家同士が決めた婚約なら話は別だが、二人はれっきとした恋愛から婚約を決めた。
愛がなければ、ともにひとつ屋根の下で暮らしたいとは思わない。
音楽か恋人か。
二つのバランスを上手く取ることができず、遠慮となって現れていた。
初めての夜の誘いは、それが消えたことを別の意味で明らかにしていた。
「まだ夜は早い。これから何をしたい? 君の望むようにするよ」
時刻は午後二十時過ぎ。
王都の繁華街は、今から始まる。
大衆向けの店でもいいし、伯爵家の威光を駆使して、常に予約でいっぱいの店でディナーを取り付けることも、厭わない。
すると、彼女はオリバーの想いを見透かしたかのように、おねだりした。
「お腹が空いたわ。もしかしてディナーに連れて行ってくれるのかしら? アテナンとか?」
超一流と格付けされる料理店のなかでも、王族御用達の五つ星レストランの名前を呟いて、カナリアは悪戯っぽく西の空を見上げた。
そこには料理店の入居している高級ホテルギャザリックが、小高い丘のうえにひっそりとたたずんでいる。
王宮よりも少し高い位置にあり、伯爵家の常宿となっていて客人を迎えた時は、案内することも多い。
そのことを知っているからか「ギャザリックがいいわね」とカナリアは嬉しそうにうなずいた。
4.
「そうだな。あそこなら、今夜の俺たちに相応しい」
「ロイヤルスイートがいいわ!」
「君の望むままに、我が姫」
オリバーの同意を得て、王立楽団の歌姫であってもおいそれとは宿泊できない最上級の部屋に泊まれる嬉しさを以って、カナリアは恋人に近づいた。
あと一歩というところで、いつも彼女は歩みを止める。
しかし、今夜は違った。また一歩近づいた。
楽器と楽譜を片腕に寄せると、彼の額におちた前髪を払いのけ、じっとこちらを見つめて来る。
形の良い小さなあごを親指と人差し指でそっと持ち上げたら、目が合い、唇が重なって二人の時が一瞬、止まった。
「本当にいいのかしら。我が儘だと思われない?」
言ってから迷う彼女はとても可愛らしい。
「本当だよ。俺は今週末から第二王子と共に、辺境視察に行く。その間、寂しくさせることへの詫びだと思って頂きたいね、我が姫様」
「今週末って、もうあと三日もないじゃない」
いきなり知らされた予定に、カナリアはちょっとだけ不機嫌になった。
「すまない。急に決まったんだ」
「私は来週末まで王都であなたと過ごそうと思っていたのに‥‥‥」
二人の想いは同じだと分かるとオリバーは早くカナリアを抱きしめたい欲求に駆られた。
唇を奪い、全てを奪い尽くしてしまいたい。
「俺も同じだよ。姫様」
「……いいわ。許してあげる。でも、戻ってきたら旅行に行きましょう? お互い、結婚式の話もしないといけないし」
結婚。
考えてはいたが、これまでの付き合いからなんとなく実感のわかなかったその言葉が、オリバーの背中から寂しさを、激しい痺れとともに流して行く。
本当に彼女を妻にできるのだ。
幸福感で視界が明るく染まった。
夜会の演奏のために控え目にされていた会場の明かりが、元通りになったせいではあるまい。
「そうだな。次に会えるまで時間がある。今夜は最後の晩にしたいしな」
「最後の晩?」
片方の眉を上げて、カナリアは意味を問う。
「恋人としての最後の夜だ。次は純白のドレスを着た君を見たい」
「……指揮のレットーと会うことになっているの」
「二人でか?」
レットーとはこの国の第二王子だ。
オリバーが剣を教えている相手でもあり、三十代の才能豊かな音楽家でもある。
今夜の夜会で指揮を務めたのも彼だった。
「いいえ、楽団のみんなでよ。振り返りと、次の公演についての説明も」
「それなら仕方ないな」
結婚式を匂わせるオリバーの言葉に、カナリアは恥ずかしそうに頬を赤らめて、踵を返した。
あと少し。
もう少し待てば、本当の愛が手に入る。
カナリアが去る際、半分ほどに伏せた瞼の合間から寄越した眼差しは初めて見るものだ。
オリバーの心は高鳴った。
手を伸ばせば届くところにいる少女を引き寄せて、荒々しくキスをした衝動を我慢した。
情熱と純粋な愛の炎で、欲望を焼き尽くされるまで唇を重ねられたら、どんなにいいことか。
「待っているよ」
「ええ、オリバー。早く終わらせる」
彼女のうわずった声は潤いに満ち、オリバーの胸を期待感で満たした。
しかし、この夜。
いくら待っても、カナリアは戻ってこなかった――。
5.
第二王子レットーとともに視察団が王都を離れ、二週間が経過した。
その間、どうして恋人は来なかったのかと、悶々とした想いに苛まれながら、オリバーは辺境を視察した。
今回の目的は、ここを水源として南に下る運河の度重なる氾濫を抑えるために必要な、ダム建設のための用地を確認するためだ。
国庫から資金を出して行われる国家事業のため、どうしても王族による視察が不可欠な案件だった。
ダムの用地には人が住む土地や、森林、田畑など海抜の低い土地を用意する必要がある。
移転用に補助金が申請され、ただしくその運用が行われているか。
ある意味で被害者となる者たちに不満がないかを確かめることも、指針に含まれる。
ダムを作ったはいいが、運用を巡り、土地の者と権利者である領主や代官との間で揉め事が起こるのは、これまでの常だった。
「なるべく、いいようにしたい。立ち退く住人にも、我々、国側にとっても‥‥‥」
臨時に用意された宿の一室を借り受け、視察団の予定表や近隣を俯瞰した地図が壁に貼られている。
第二王子レットーは視察団の主らしくもっともらしいことを述べていたが、その心にあるのは夜の接待だと誰もが思っていた。
彼は芸術や武芸、建築のような分野で才を表したが、同時に女性にも貪欲な男だった。
あの夜、カナリアが戻って来ず、レットーの意志で楽屋に残された。
そこまでをオリバーは掴んでいた。
二人が密室に残り、さらに何があったかは彼女のその後の行動に鑑みれば、如実に理解できる。
想像にやすくない。ただ、証拠がなかった。
カナリアはあれから何の連絡も寄越さず、当夜はオリバーを置いたまま、王宮を後にしたと門番は言う。
真実はあの男が知っている―――。
レットーについつい、疑いの眼差しを向けそうになり、オリバーは視線を足元に落とす。
不敬な行為は慎まなければならない。
例えどんな犯罪の疑いがあっても、相手は王族なのだ。
言葉一つ、仕草一つで不敬罪に問われかねない。
それは愚かな選択で、オリバーは賢明な男だった。
昼が過ぎ、夕方が近づいたことで会議に参加した面々の瞼がゆっくりと重たくなる。
実際に現地を視察する予定は消化され、あと数日は現地貴族や要人からの接待を受けるのが殆どだ。
この会議も所詮は、視察という名目をこなすための茶番に過ぎない。
誰が損をして、誰が得をするのか。
ダム建設の計画が立案されたときから、甘い汁を吸う人たちは決まっている。
自分も第二王子の派閥にいて、その一部を享受していると思うと、オリバーは心が妙に虚しくなった。
そんな彼を現実に引き戻すように、ひとりの男が訪れる。
カナリアの父親、レブナン伯爵だった。
「娘から、そして貴族院からだ」
その一言とともに、手紙が三通。
オリバーの前に並べられる。
一通はあの馬車の中でカナリアがしたためたもの。
一通はここに向かおうとした矢先、神殿にいるカナリアがリゲルに新たに郵送したもの。
最後の一通は、貴族院からの通達。
「貴族院‥‥‥?」
レブナン伯爵は同じ伯爵でも、オリバーの実家アーミッシュ家よりも格上に当たる。
とある公爵家の傍流で、王族の係累だ。
彼がこの地を自ら訪れることには、それなりの事情が含まれるということになる。
オリバーはまずカナリアの手紙を開きたかった。
しかし、貴族として優先するべきはまず、貴族の統治機関である貴族院からの通達だ。
それを開き、一読してから最後にあるサインを目の当たりにした青年は、うっと呻くように声をあげ、驚きに目をみはった。
「どういうことですか。新たに聖家を認めるとは?」
聖家とは、文字通り、聖人の家。
聖女や勇者、聖騎士など、神殿から聖なる存在として認められた者の実家が名乗れる家のことだ。
文書にはレブナン伯爵家を聖家として、伯爵から聖家に相応しい侯爵位に列するとあった。
「読んで字のごとく」
「誰が聖人になったと‥‥‥カナリア?」
国王のサインが真新しい筆跡となって読めた。
レブナン伯爵、もとい侯爵は重々しくうなずく。
何の連絡もなく愛娘が女神神殿に上がったのは、二週間前。
つい先週頭に、神殿が発した公布で聖女へと列せられたことを知る。
かつて魔族との戦いの時代ならばともかく、現代において聖女はそれほど多くない。
その歌の才能を女神に愛されることで、文字通り歌姫になったのだと、侯爵は語った。
「娘の手紙がある」
そちらも読むように促された。
6.
一枚目には後悔を含む、深い悲しみの謝罪が書かれていた。
もう妻になれない身体であると、告白がつづいてあった。
約束を破り、貞節すら守れない愚かな自分を許して欲しい、と。
二通目は聖女に選ばれた旨が詳細に書かれていた。
女神はカナリアの罪を許したこと、才能を愛で歌うことで全てを癒す聖なる力を授かったこと、そしてこうなってしまった原因についても――カナリアは触れていた。
第二王子レットーの暴行を訴え、王室法典に基づいて裁きを求めることを決めた彼女。
女神の意を得て神殿はカナリアの全面的な支援に乗り出し、いま王都では権力をかさに着た王族の暴行を受けたと名乗り出る女性が、少なくても十数人を超えたとか。
何年にも続く長い裁判が始まろうとしていた。
「レットー‥‥‥ッ」
腰から外し、脇に携えていた剣へとつい手が伸びる。
侯爵が立ち上がり、復讐に燃える若者を諌めるようにして、椅子に押し戻した。
「この件について、陛下はとてもお悩みだ。私を使者としてこの地に寄越したことも、その兼ね合いがある。わかるな? はやる気持ちは抑えて待て」
「しかしっ、あれのせいで」
「カナリアは戦うことを選んだ。お前はそれを無駄にする気か? 今ここで王子を殺せば、すべては闇に葬られてしまう。恥をさらけ出し、王に盾突いてでも戦うことを選んだ娘の気持ちを汲んでやってはくれないか」
「……」
諭され、大きく息を吐き出す。
心臓の脈動はどんどんと大きく激しく、怒りを伴って鼓動を早くする。
今この瞬間、第二王子がいたなら彼を斬っていただろう。
誰もいない場所で良かった‥‥‥オリバーは、二人だけでひっそりと会う場を設けてくれた侯爵に感謝した。
「婚約を」
「何だ?」
「まだ、俺は婚約を破棄していません。カナリアが望んだとしても――俺は彼女を愛している」
「ならば、待ってくれるかな? 戻って来る娘の為にも」
侯爵は自身でも納得のいかない悲し気な表情のまま、父親としてそう言った。
――戻って来る? 一度、神殿に入れば、俗世間への帰路はないはず。
当たり前の常識に、オリバーは眉根を寄せる。
「聖家を設けることで、役柄を全うした聖人は、俗世間へも戻れるし、神殿に残ることもできる」
「そのための――っ?」
「陛下は側室の子、第二王子様よりも第一王子様の王位継承を密やかに進めている。これは王命にも近い。だから、待て。いいな?」
「……ええ。そのような事情であるならば」
侯爵はいずれ義理の息子になるだろうオリバーの意思を確認すると、席を立つ。
容疑者として一時的に権利が剥奪された第二王子が王都へと戻されたのは、それから数日後のことだった。
+++++++++++++++
あれから数年。
父親のあとを継いで伯爵になったオリバーは、名実ともに栄誉職である近衛第二騎士団、団長となっていた。
オリバーは静かに婚約者を待つ。
彼女のために用意しようとしていたドレスも式場の予約も、一度は無駄に終わったかと思ったが。
こうして再び、役立つこともあるのだと、にんまりと頬を緩めた。
いま、カナリアは別室でドレスの生地やデザイン選びをしたり、既存のドレスを着て試したりと賑やかに乙女の世界を満喫していることだろう。
昇進をすすめる傍らで世間と王族と戦う聖女を応援し続けた日々。
柄の間の安息を楽しむ彼の手元には紅茶のカップと、新聞がテーブルの上に開いてある。
「あなた! ちゃんと一緒に見てよ! 二人で選ぶって言う約束だったでしょう?」
そんな彼の背中に、新妻になる女性が隣室の扉を開けて、声をかけた。
隣にはオリバーの妹、エレンもいて早くしろと手招いていた。
「ああ、わかった。君には赤よりも青の方が似合うと思うんだ」
「本当? なら、このドレスは――?」
御婦人たちの賑わいの中で、まるでデパートで買い物をするときのような溌溂とした顔で、カナリアが幾つものデザインが載った誌面を見せてくる。
不慣れな環境に戸惑いつつ、彼はこれがいいかも、と指先で青いドレスを選んでみた。
黒髪に美しく映える夜の青。
深みを帯びた優しさが、二人の仲をより温めてくれるような気がした。
女性たちの要望を聞き、彼はさらなる注文を判断し始める。
その脇で、一陣の風に煽られた新聞の紙面が、はらはらと舞う。
『第二王子、度重なる暴行事件により、王位継承権を剥奪。最高裁は王室法典に則り、死刑を求刑した。刑は月末、王宮内の特別室にて執り行われる模様――』