16.群雲
おおい、侍従はどこだ。
わたしはここだ、ここにおる。
おい……どこだ。皆どこへ行ったのだ。誰もいないではないか。
……どこだここは。
急に霧が濃くなってきたぞ。ぬ……前が見えぬ。
まるで雲の中を歩いているような……。
誰かおらぬのか。
……おや、何の音だ。獣の鳴き声か?
いや、誰だ。侍従か? おい、そこにいるなら返事を……!
――何だお前は。何者だ?
チャチャ姫の父にあたるルロチャ国王チャコチャは、最近頻繁に同じ夢を見る。16年前、彼がまだ王位を継ぐ前の出来事だ。
それはまだ雪が残る冬の終わり。チャコチャは友人や城の者たち数人と鹿狩りに来ていた。
今冬の狩猟シーズンとしてはおそらく最後の機会。もう少し暖かくなると冬眠から覚めたばかりの熊が食料を求めてうろつき出すので危ない。
既に友人たちによって2頭の鹿が射止められている。自分も獲物を求め、チャコチャは林の奥へ進む。
進んでいて、ふと彼は違和感を覚えた。
あまりにも静かなのである。
もともと冬の林は静かだが、それにしてもこの無音状態は何事かと思い、もと来たほうを振り返る。
春間近とはいえまだ木々は葉をつけていない。見晴らしは良いはずだった。
なのに、背後はぼんやりと霞がかかったように見えにくい。
(この時期に、霧?)
冬の朝に川から霧が立ち上るのは見たことはあるが、そもそもこの近くに川はあっただろうか。
おおい、と彼は仲間たちがいるであろう方向に呼びかけた。やはり返事は無い。
今度はもう少し大きい声で、おおい、と呼びかける。
やはり返事は無い。
何か、異世界に紛れ込んだような奇妙な感覚に包まれる。声を出しても見えない幕に遮られているような感覚さえあった。
と、思うと。急に右方から霧が濃くなってくる。チャコチャは避けるように左へ進む。
霧はすぐに左からもやってきた。前へ進む。
数歩も進まないうち、いよいよ彼はその濃い霧にすっぽりと包まれてしまった。
まるで雲の中にでもいるようで、数歩先の地面が見えないほどだ。
呼びかけを続けるが、やはり誰からも返事は無い。そう遠くまで離れてはいないはずなのに。いつもなら近くにいるはずの侍従が誰も返事をしないとは、やはり何か妙なことが起きているに違いなかった。
この雲のような霧の中あまり動き回るのも得策ではない気がして、どうしたものかと考え込む。
――……キュイー……
無音のこの空間に聞こえてきた音に、彼ははっと反応する。
獣の鳴き声か?
なんでもいい、この状況を打破できるのならば。
チャコチャは音の方向に迷わず進んだ。
音は断続的に続く。何かの会話のようにも聞こえた。
そうして唐突に霧から抜けた。まるで水面から陸に上がったかのように、急に切り替わった感じである。だが、明らかにおかしい点があった。狩りをしていたのは日中だというのに、霧を抜けたこの場所は薄暗い闇だったのである。
霧が晴れた空間に、それはいた。
(ウサギか? ……いや)
真っ白い毛に長い耳。これを見知った動物に当てはめるとしたら、ウサギだろう。
だが、似てはいるがウサギではなかった。ウサギにしては頭が大きく丸すぎる。本物のウサギというよりは、デフォルメを効かせたウサギのぬいぐるみに近い。
そして一番の違いは、黒髪が生えていることだ。ほかの多様な動物のように一部だけが黒い毛色になっているのではなく、人のように長さを持った毛で、これは髪としか言いようが無い。見たことのない生き物だ。
その生き物は小さな腕で人の赤ん坊を抱いて座っていた。困ったような眼で、チャコチャを見上げる。振る舞いだけなら人とそう変わらないのが、不思議なような、恐ろしいような気持ちにさせた。
「なんだお前は。何者だ?」
この生き物は人の言葉を解する――そんな直感があり、チャコチャは思わず話しかけた。
ウサギモドキは口を開いた。
「ワタシたちは、陰の一族の末裔……。アナタは縁があった……どうかこのコをアナタのコとして育ててクダサイ……。天の月が196回巡って消えるまでに、このコを陽の者とめあわせてクダサイ……。崩壊をトメナケレバ……魔法が解けてしまわないうちに……」
暗号めいたセリフを口にすると、ウサギモドキは手にしていた赤ん坊をチャコチャに渡してくる。赤ん坊はすやすやと眠っている。
「おい、育てろって一体……」
チャコチャが顔を上げた時。そこにいたはずのウサギモドキは姿を消してしまっていた。
同時にたちまち辺りから霧が晴れ、明るくなってきた。頭上からは鳶の鳴き声も聞こえてきて彼は自分が現実に戻ってきたことを悟った。
夢でも見ていたのだろうか。
だが、腕の中の赤ん坊がこれは夢ではないと告げている。
「王子ー! どちらにおいでですか、チャコチャ様ー!」
少し向こうで侍従たちが自分を探している声がする。
戻らなければ。
赤ん坊を抱えて戻った王子に、一同は狩りどころではなくなってしまった。
その後、妻に誤解をされて一悶着あったが、チャコチャ王子はこの赤ん坊を我が娘として育てることにした。そうしなければならない何かがあるような気がした。
赤ん坊には彼自ら、チャチャ、と名付けたのだった。