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眼中にない  作者: アンリ
第一章
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1-2 中途半端は好かん

 その夜、帰宅した夫、重蔵の羽織を脱ぐのをナギが手伝っていると、重蔵の方からシュリについて問いかけてきた。


「なんや拾いもんしたって?」


 ナギの目の前にある重蔵の背中はとても広くて、たくましい。そして重蔵自身も度量の大きい人間だった。それは三年も一緒に暮らしていればわかる。こんなに素晴らしい人をナギは他に知らなかった。見上げた視線の先、重蔵の頭髪のちらばる銀に近い白髪も、夫のものだと思うととても美しく見えるのだ。


 けれど、こうして夫である重蔵のそばにいるとナギはいまだに緊張してしまう。鼓動は速まり、手の平にはうっすらと汗をかいてしまう。御年五十二歳――財前会傘下の鳳組組長である鳳重蔵からは唯人ではない空気が常に発せられていた。


「桜田から聞いたで。同じ大学に通っとる男を子分にしたって」


 重蔵の発する衣擦れの音すら、ナギには自分を責める小道具と思えてしまう。


「そいつ店に無断でウリをしとったらしいな。さっき玄関におったのを見たで。賢そうだが下半身緩そうな顔しとったわ」

「……いけませんでしたか?」


 細い口調でナギが問うと、「いいや。ええんちゃうか」と言葉どおりの表情で重蔵が振り向いた。「さすがに大学構内に舎弟は入れられんからの。ナギのことを任せられる人間がいた方がええ」


 だがナギがほっとしたところで重蔵が意地悪く笑った。


「でもなんであいつにしたんや。惚れたんか」

「そんなことっ! あんな男、眼中にもないです……!」


 だがナギの反論は重蔵には大したことのないものと受け止められたようだ。「まあええわ」と正面を向くとさらに着物を脱いでいく。その背、襦袢ごしに透けて見えるのは一面の深紅の炎、そして一匹の虎だ。


「ナギ。浴衣着せてくれや」


 魅入られていた虎からナギはあわてて視線をそらした。


「ほんじゃ風呂入ってくる」

「行ってらっしゃいませ」


 頭を下げかけたナギの視線が重蔵のそれとふと絡んだ。

 ほんの少し――重蔵が真剣な面持ちになった。


「引き取ったからにはちゃんと面倒みたりいや」

「え」

「わしは中途半端は好かんからの」


 次の瞬間には重蔵は笑みを取り戻していた。


「じゃ、おやすみな」




 重蔵が寝室に戻ってきたのは一時間後のことだった。そしてものの三分で深い寝息をたて始めた。


 ナギは――壁一枚隔てたこちら側で夫の気配を感じてはいたものの、そのまま夢の世界へと戻っていった。



 *



 朝、ナギがダイニングに行くと一番下っ端のケンタが食事の支度をしていた。いや、『一番下っ端』という肩書は今やシュリのものか。当の本人はキッチンの奥の方で何やら作業に勤しんでいる。


 普通、ヤクザの下っ端は事務所に住み込む場合が多い。だが鳳組では、組長の自宅がある敷地内に別邸を建て、そこに十人ほどの組員を住まわせていた。要は身辺を警備する部隊をプライベートでも抱えているというわけだ。そしてケンタやシュリのような末端には、重蔵とナギが暮らす母屋の家事全般を請け負わせることを通例としていた。


「おはようございやす」


 ナギの目の前にケンタがてきぱきと皿や椀を並べていく。


 ケンタは半年前に前歯を折られて以来、話すときにちょっとごもるようになってしまった。特に、ま行がや行に聞こえてしまう。だが仕事は早い。何より明るいところが組員全員に好まれていた。


「おはよう。あの人は今日は?」


 ナギの問いに手を止めることなくケンタが答えた。


「おやっさんなら朝一の飛行機で福岡に行きやした」

「……忙しい人ね」


 一人で朝食を摂るのにも、もう慣れた。だが、いただきますと手を合わせ、味噌汁に口をつけるや、ナギの眉間がきゅっとひそめられた。


「これ、今日は誰が作ったの?」


 それは驚きゆえの問いだった。いつもの味と全然違ったのだ。シンプルな感想を述べれば、おいしいという一言に尽きる。わかめとねぎの歯ごたえが絶妙だし、何より風味が抜群にいい。


「おいしいっすよね」


 ケンタが自分の手柄のようにへへっと笑った。


「だから誰が作ったのかって訊いてるのよ」


 ナギが若干いらつきながらも問うと「シュリっす」と今度は正直に答えた。

 ケンタの後ろでシュリが所在なさげに小さく頭を下げた。


「へえ。天は二物を与えずっていうけど、あんた料理もできるのね」


 盛られたご飯も、いつもならべちゃっとしているが、今日は一つ一つの粒が立っている。干物の焼き具合もいい。


「いい拾い物をしたわ」


 極上の食事から始まる朝――なんて贅沢なんだろう。

 ナギがたまらずといった感じでほうとため息をついた。

 これにシュリがなぜか一歩退いた。


「……なによ」

「いや。なんでもない」

「こらっ。お嬢にため口なんて百年早いぞ」


 ぽかっとシュリの頭を叩いたケンタにナギがすかさず箸置きを投げつける。


「あいてっ!」


 瀬戸物だから、当たればそれなりに痛い。


「お嬢、どうしてっ」

「姐さんって呼ばないからよ」

「あ。すみません」


 しょげたケンタが「でもみんなお嬢って呼んでるし、お嬢はお嬢って感じだし」と、もごもご呟いている。確かに、腰まである黒髪も色白な肌も清楚系の服も、ナギを構成する要素のどれもがお嬢様的ではある。


 でも、それでも。


「またお嬢って呼んだらぶちのめすわよ」


 黒々とした怨念を込めて睨みつければ、ケンタは真っ青になってこくこくとうなずいた。


「あんたもよ。先輩」

「あ、ああ。いや、はい」


 シュリもつられてうなずいた。


「あ、ちなみに先輩は敬語は使わないでね」

「どうして。ですか」

「今日から先輩はここから大学に通うの。私と一緒にね」

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