1-10 刀になる
「お嬢、どうしやした?」
「ナギさんっ?」
夕食の後片付けをしていたのだろう、キッチンから出てきたケンタとシュリとぶつかりそうになり、慌てて身をひるがえす。それでも駆ける速度をゆるめないナギのことを「ケンタさん、あとはお願いしますっ」とシュリが追いかけた。
母屋を出て、狭くもない庭を突っ切り、あっという間に表に出る。素足なのにナギは足が速い。しかしシュリも負けてはいない。玄関でつっかけたサンダルを履いてはいるが、ナギよりも長い足でぐんぐん距離を縮めていった。
「待てよ……!」
追いついたシュリがナギの肩を掴んだのは公園がすぐそこに見える暗がりだった。寿命が近いのだろう、付近の常夜灯はどれも半分ほどの光量しか発していない。
「なあ、おい。どうしたんだよ」
だがナギは振り向かない。荒い息を吐きながら、頑ななまでにシュリに背中を向けている。
「何か……あったのか?」
おそるおそる問いかけてみても返事はない。
「おい。何か言えって」
それでも反応を示さないナギに、シュリは肩に触れていた手に力を込めて強引に自分の方に向かせた。
「……なんで泣いてるんだよ」
深いため息が出た。
「泣いてなんかいないわ」
「バレバレの嘘をつくなよ」
涙目で睨まれても怖くもなんともない。というか、年下らしくて可愛らしくも感じる。
「どうした? 勝手に飛び出したら皆さんが心配するぞ」
「心配なんてしないわ」
いつまでも駄々をこねているような態度に、とうとうシュリがかっとなった。
「本当にそんなふうに思ってるのか? まだここに来て間もない俺にだってわかるぞ、ナギさんがどれだけ大切にされているかくらいは」
正直、それは羨ましいほどだ。
これにナギがはっと笑った。
「大切? ねえ、本当にそう思うの?」
ナギが放つ雰囲気が突如変わった。
「私はただここで飼われているだけよ。誰も私のことを姐さんと呼ばないのがその証拠じゃない」
ナギが荒ぶるままに声を張り上げた。
「鳳だって……あの人だって私のことを妻だなんて思っていないんだからっ……!」
そして自分の胸を力強く叩いた。
「私、処女なのよっ……!」
「……え?」
大声でのあられもない発言にシュリがついていけずにいると、
「鳳は一度も私に触れたことがないわ!」
間髪入れずにナギが叫んだ。
これまでの三年間を簡単に言い表すならば、この叫びこそが最適だったのである。そしてこの叫びこそがナギの抱える苦しみの源だった。
「鳳が私を妻にしたのは、私が人形みたいだからなのよ! 私がきれいで気に入ったから、だからあの人は私を拾ったのよっ……!」
それはつい先程悟ったばかりの『事実』だった。
「きれいじゃなくなったら私なんていらなくなるのよ……!」
言い切った瞬間、ナギは膝から崩れ落ちるように地面に座り込んでいた。両手で顔を覆い――やがてナギがすすり泣きだした。
「人形でいなくちゃいけないって、そんなこと……とっくに知ってたのに……」
ナギにも薄々わかっていた。重蔵がほしいのは見て愛でるだけの存在で、一人の女として自分を必要としていないことは。そんなこと、三年も一緒にいればわかる。わからないわけがない。触れてくれないどころか寝室も別で、会話をする機会もほとんどないのだから。けれど……自覚すると随分堪えた。
「もうこんなの、嫌……」
重蔵のそばにいるためには――美しい人形でいるしかないのだ。永遠に。
そして人形は持ち主に愛を求めない。醜く顔をゆがめて大声で泣き叫ぶなんてこともしない。常に身なりを整え、見目を愛でてもらい、遊んでもらえるまで待ちつづけるほかないのだ……。
「ねえ。好きな人に愛されたいと思うのって、そんなに贅沢な望みなの……?」
顔を覆う手をおろしたナギが異様に見開いた双眸でシュリを見つめた。
「鳳のことが……好きなの……」
鬼気迫るナギの表情にシュリは言葉を失っている。
年若いナギを無理やり妻にしたのは重蔵で、本来であればナギは重蔵を嫌い、憎むべきだ――さっきまでシュリはそう信じ込んでいた。夫のことが世界で一番憎い――そう言ったのもナギだ。ケンタから初日に「お嬢はおやっさんにぞっこんだから」と聞いていたがそれはまやかしの話だと結論づけてもいた。なのに今、何と言った? そんな男のことが好きだって?
「ね……今の私はきれい?」
問うたナギの手、すべての指がかたかたと震えている。
重蔵に初めて逆らった恐怖が今更になって迫ってきたのだ。
「それとも……醜い……?」
怖いのは――重蔵がヤクザの組長だからではない。重蔵がナギにとっての恋しい男だからだ。重蔵に見限られること、それが何より恐れることだからだ。
果たして今の自分はきれいだろうか――?
「ナギさん……」
シュリはためらった。
ナギの二重をふちどるアイライナーはすでに原型をとどめていないし、口紅もはがれかけている。暗がりの中、ナギではなく、ナギの顔を模した般若と対峙している錯覚すらある。しかもナギの発言の真意をシュリはいまだ理解できていなかった。
だが、シュリはためらいつつも地面に膝をつき、今思っていることを正直に伝えた。
「俺はおやっさんでもナギさんでもないから二人のことに口を出す権利なんかない。でもこれだけは言える。ナギさんはきれいだよ」
「シュリ……」
「そう……花にたとえるなら百合のような人だ。ほら、覚えてるか? 今日花屋で俺が言ったこと」
芍薬に比べたら百合は凛として賢そうな感じがする、ただ立ったり座ったりするだけの存在では身に着けることのできない品位と知性を感じられる――そう言ったのだ。
「俺はそんなナギさんのそばにいるから」
ナギはきれいで、強い。だがいくら背筋をぴんと伸ばしていても、誰にも頼りたくないと言っているわけではなかったのだ。愛されたいと願うことも、そう。そして百合が剪定鋏に恋をすることだってあるわけで――。
だったら慰めも同情も、ナギには不要だ。
「いつでも、どんな時でもそばにいるから」
ナギのために他にしてやれることはない。
「……なら、お願い」ナギが震える声で言った。「私を護って。すべてのことから」
だが声は震えていてもナギはシュリに懇願などしていない。夫のことを憎いと告げた時と同じように強い目力でもってシュリを睨んでいる。
「私に傷をつけないで。汚さないで。きれいなままでいさせて。……いつまでもずっと」
こうも純粋で強い意志を語る人間を――女をシュリは初めて見た。
それは奇跡に近い驚きとなってシュリの心を震わせた。
「ナギさん……」
そして涙に濡れる瞳で自分を睨みつづけるナギのことを、これまでで一番美しいとシュリは思った。
実は出会った瞬間からナギのことを美しい女だと思っていた。だから突然家に押しかけられた際にもついドアを開けてしまった。そのあと無言で腕の関節をきめられた時も、背中をパンプスで踏みつけられた時も、「このような美しい女にされるのであれば」と半分流されてしまった。……これまでの人生を毒々しい母親に費やしてしまった反動のように。
あの瞬間、今日のこの日、この瞬間が定められていたのかもしれない。
女によって狂った人生は、最後まで女によって支配されるものなのかもしれない。
だがそれも――ありかもしれない。
「わかった。番犬でいてやるよ」
これにナギが泣き笑いの表情になった。
「違うわ。シュリは私の刀になるの」
「なんだよそれ」
「いつでもいらなくなった私を刺し殺せるように」
「……え?」
「私は犬なんかに殺せる女じゃないわ」
夫に捨てられるくらいならあなたが私を殺して――そうナギの瞳が語っている。
シュリの喉が無意識に鳴った。
「……わかった」
いつかナギが想い人に純潔を捧げるその日まで、もしくは尊厳を打ち砕かれるその日まで――百合が百合でなくなるその日まで。
「俺はナギさんの刀だ」
その誓約を口にした瞬間、なぜか滾るものをシュリは感じた。人はそれを運命と呼ぶのかもしれない、頭の片隅でそんな非論理的なことを思いながら。
お読みくださりありがとうございます。
あらすじに書いているとおり、本作は序破急の序までを想定した内容で終わっています。参加企画の規定と時間の都合もあり……すみませんm(_ _)m
一応ここまででストーリーの山谷は作ったつもりでいますがどうでしたか?汗
なお、本作は十万字強の長編にしてきっちり終わらせたいと思っています。時期は未定ですが続きを投稿、公開した後に本作は完結にしようと思います。目標は今年中!
今のところここまでの話をベースにもっとヤバイ奴を出し、かつ愛憎劇的なシチュを繰り出していくつもりでいます。ヤクザ成分はここまでの話のようにスパイス程度に留める…つもり。
ではでは。
同じ性癖をお持ちの方がいましたら、ぜひ感想、web拍手等で教えてくださいね^^
また、『私の神シチュ&萌え恋』企画では多数の作者様の「好き」が詰まった作品が集まっています。ぜひ読んでみてください。