1-1 般若
「先輩、名前は?」
腰まである艶やかな黒髪をなびかせながら見目麗しい女が訊ねる。
「森岡広志って偽名よね。本名はなんて言うの?」
だが男は口を開こうとしない。
これに女――ナギがすっと目を細めた。きっちりとひいたアイライナーが印象的な二重は、そうすることで鋭利な刃を彷彿させた。だがその印象は間違っていない。男の背中をパンプスで踏み続けている野蛮さも、今その足にさらに体重をかけていった無慈悲さも、その双眸の持ち主であれば妥当だ。
「がっ……!」
男の背中がぐっと下がり、色あせた畳と平行になる。男の歪んだ顔は痛みと息苦しさの相乗効果によるものだ。だがナギはかまうことなくさらに踏みつける足に力を込めていった。
自分よりも体格のいい男を当然とばかりに蹂躙しつづける様は同年代、いや一般人にはない迫力に満ちている。正統派美人ゆえの凄味も相当なものだ。
「早く言いなさい」乱れた髪を耳にかけつつ、もう一方の手で親指を立てて背後に向ける。「でないとうちの人間が何をするかわからないわよ」
これを合図に女の一味である男がゆらゆらと前に出てきた。
「なあ。まーるいのと、うすーいのと。どっちがいいんだ?」
薄ら笑いを浮かべながらの、ファンキーな質問。
「あー、よくわからなかったみたいだな」男――瀬名がもったいぶりながらジャケットの裏ポケットに手を入れる。「まーるいのは銃弾。うすーいのはナイフってことよ」
まるでそこに隠し持っているかのように。いや……その実、そこには明言した二つの武器が仕込まれている。
細身のブラックスーツがトレードマークの瀬名は、普段は就職二年目のサラリーマンといった風体をしている。六四に分けた黒髪もぱっと見では好感がもてる。だが『本業中』の瀬名は生粋の危険人物へと豹変する。いや、本性があらわれるといった方が正解か。へへっと鼻をこすり、口づけできるほどに男に顔を近づけ、「で、どっちがいいんだよ」とすごむ様はヤクザ以外の何者でもない。
数秒の間を置いて、意味を理解した男の体が畳の上で条件反射のように震えた。
「新井だ、新井修理だっ……」
かすれた声は窓の外、間の抜けたカラスの鳴き声に埋もれそうになったが二人にはしっかりと聞こえた。
「知っていたわ」紅をひいた唇でナギがにんまりと笑う。
絶句した男――シュリだったが、「鳳、さん……だったよな?」横に向いた頬が畳に押しつけられた状態で器用にナギを仰ぎ見た。
ちなみにナギが自身の名をシュリに告げたのはほんの五分前――玄関のドアごしでのことだ。こんにちは。X大学の一年、鳳凪です。ちょっといいですか。それにシュリは無警戒でドアを開けてしまった。まあ、その数秒後にはドアの裏の方に潜んでいた瀬名にまで押し入られてしまったわけだが。
「俺、君に何かしたか……?」
シュリの疑問はもっともだ。普通の女はヤクザを顎で使わないし、初対面の男の腕の関節をきめたりもしない。
「何もしてないわよ」
「えっ」
じゃあなんで、と上目遣いで問いかけてきたシュリの顔があまりに卑屈で醜くて、ナギはほぼ無意識に踏む足に限界まで力を込めていた。
「気持ち悪い顔しないでくれる?」
ピンヒールが背に突き刺さる痛みに耐えかね、シュリの体は完全に床につっぷした。
「じゃあどうしてこんなことをするんだっ……」
必死の形相で問いかけられ、ナギはなんとはなしに視線を動かした。築三十年はくだらない木造のぼろアパート、西日が強烈に差し込む六畳一間からは燃え立つような夕日がよく見える。ふと電線に止まっているカラスに目がいった。その無感情な目を見つめながらシュリの問いについて頭をめぐらせていく。
どうして私はここに来たのだろう? 昨夜ホストクラブで偶然シュリを見かけ、同じX大学の二年生だと履歴書で知って――それでどうして私はわざわざこの男のアパートまでやって来たのだろう?
「……興味、本位?」
「なんですかそれ」
疑問形に瀬名が小さく吹き出した。
「……瀬名。あとでしばくから覚悟してなさい」
ナギの一言に瀬名がひええと声を発する。だがナギは瀬名を無視し、あらためて足元の男へと視線をやった。
「ねえ、先輩。あなた、三丁目のPurple catsでホストをしているわよね。しかもそこの客を相手にウリをしているでしょ」
「なんでそれを……!」
「あそこ、うちのシマなのよね」
告げると、今度こそシュリの思考がストップした。ぽかんとするどころか、感情の一切が表情から消えている。ややあって「本当、だったのか……」とシュリがつぶやいた。「一年にヤクザの娘がいるっていうのは」
「今、なんて言ったの?」聞き捨てならない発言に、ナギはシュリの髪をつかむや強引に上を向かせた。「違うわ。私は妻よ! 鳳重蔵の妻よっ!」
「お嬢、顔が般若になってますよ……っと」ナギの回し蹴りを瀬名がぎりぎりのところで避ける。「落ち着いてくださいよ。てか、今日はピンクなんですね」
「お嬢じゃないわ! 姐御よっ!」
余計にいきり立つナギに、「そんなことより、そろそろずらかりましょうや」と言う瀬名はのんきな口調だ。ジャケットからカラスの羽根よりも黒いサングラスを取り出し、掛ける様も悠然としている。
「ここ壁が薄いですし、人の目を集めてもめ事でも起こしたら俺がおやっさんに叱られますから」
これにナギが不承不承といった感じでうなずいた。
「……それもそうね」
と、シュリの髪をずっと掴んだままだったことに気づいた。
「さ。一緒に来てもらうわよ」
指から力を抜くと、シュリは反動で体勢を崩したものの、そこから小動物並のスピードで壁際まで一気に後退した。
「いやだ! なんで俺があんたらと一緒に行かなくちゃいけないんだ! ヤクザなんかと!」
それなりにいい店でホストをしているだけあってそれなりにいい顔をしているのに、高速で首を振るシュリの顔はひどく情けない。床に打ち付けた額は真っ赤だし、涙目だ。頬には畳の痕がくっきりとついている。
「ふーん。そんなこと言うの。この私に」
わざとらしく目を細めたナギが腰を落とした。
「極道の妻にそんなことを言って」シュリと同じ目線の高さで吐息がかかるくらいに顔を近づけていく。「ほんとうにいいと思っているの?」
シュリは何も言えなかった。これにナギが笑いながら立ち上がった。
「今日からあんたは私の子分よ。光栄に思いなさい」
それはまさに般若の顔だった。