70.シーン4-7(真実に向き合う)
「短刀、貸してくれるかな」
その場に座り込んだまま、小さな声で私は請うた。
不可知なる領域にまで無数が散らばり広がりゆく森羅万象のなかにおいて、人ひとりに手繰れる世界はどうしようもなく限られている。自身の手だけで全て片が付けられないというのであれば、せめて貸しつ貸されつ、ギブアンドテイクで事を運びたいのであるがしかし私は彼に物を借りすぎていて、まるでもって話にならない。
自身の現状が伴わない悲しい事実にひっそりと心のなかで唇を噛んで涙を流し、おとなしく彼の答えを待つ。げに世知辛い世の中である。
しばらく待てども彼から答えは来なかった。つまるところ、これまでの行程から作り出された法則により沈黙とは彼の黙認、ちょっとだけ盛って言い換えたなら、これすなわち暗黙のうちに行われている彼にとっての了承である。
どの辺りかと念のために確認するも彼は何も言わないため、仕方なく適当に狙いを定めてマントのなかへ手を突っ込んだ。彼の利き手が右であることを考慮すれば、真後ろから右にかけての範囲であろう。
「どこを触っている」
「ちょっ……気持ちの悪い言い方をするなっ!」
やっと来たと思った反応は、あまりにも膠無くしかもあろうことか誤解を招く恐れのある物言いであったが故に、まずは乙女としての威信をかけて憤慨した。そして止めてしまった両手を再びごそごそと適当に動かすのだが、彼自身は特に動く気配がない。壁と背中に挟まれていて、拳ほどの間隔もないごく僅かな隙間のなかで、目視を頼らず探し出すのはなかなか苦しいものがある。
その後も彼はたびたび何か喋ってくれたが「違う」とか「そこじゃない」とかそんなことしか言ってこない。じゃあどこなんだと少し苛々してきたところになって、ようやくベルトに下げられているものに指先が触れ、そっと先を辿ってみると何やら小さな袋のようだ。
よもやあらぬものを掴みとってしまったのではと不吉な予感が脳裏をよぎり、一瞬冷や汗が吹き出たが、さすがに後ろ側でそれはない。
一応試しにくいくいと軽く引っ張ってみたのだが、早く離せと怒られた。うるさいわいいっそこのまま貴様のタマごと握り潰して引きちぎるぞこの野郎なんてことはさすがに言えるはずもない。
「サシェか。君ずいぶん洒落たもの持ってるね」
焦りで手元の覚束ない私の動きにつられ、揺れるマントのかげから微かに空気が流れてきた。花か何かのすっきりとした香りが鼻腔を突く。謎の袋の正体が判明したため、私はひとまず胸をほっとなでおろした。
嗅覚というのは五感のなかでも少し変わった感覚であり、匂いは情動や記憶などを司る大脳辺縁系まで直に働きかける情報であるらしい。本能や感情といったものと深く結びつきがあると言われ、実際香り成分の中には交感神経や副交感神経を刺激し、生理的な効果を示すものもある。
古来より精油は医療に使用され、さらには神聖なものとして祭祀や儀礼などにもしばしば利用されてきた。人は香りに刺激を求め、安らぎを求め、様々な匂いを嗜みながら心身を整えているというわけだ。
ややあって短刀を探り当てた私は歓喜とともにそれを取り出し、さあ早速としばらく両手で短刀を握りしめて見つめたまま固まった。両手首がぐるぐる巻きにされているこの状況で、どうやって己の手首を固める縄を切れというのだろう。
「……君の分を切ったあとで、君は私の分の拘束を切ってくれたり」
彼から答えは来なかった。前言撤回、これはどう考えても暗黙の拒否である。絶対に切ってくれない。むしろ短刀を取り上げられて終わりである。
しばし懊悩煩悶したのち、せめて二人のあいだに垂れる分だけでもまずは切断しようと思い至り、再び短刀を握りしめる。苦労の末に、ようやくひとりで動きまわれる状態になった私は、すぐさま座る場所を変えた。
彼から離れた場所に落ち着き、両足の靴の裏で短刀の柄を挟み込んで固定する。手首を縛る縄の方を上下に動かし刃で擦り切り、さらに倍の苦労の末にようやく両手が自由になる。そして私は深呼吸とともに大の字を描いて寝転がると、しばらく不羈を堪能した。
「お前は」
短刀を返すために一度そばへ戻った私にちらりと視線だけを寄越し、彼は何やらぼそぼそと話しかけてきた。
「本当は女なんじゃないのか」
「……は?」
いきなり何を言い出すのかと横で目を点にしていると、彼は私の顔に真っ直ぐ向き合い、今度こそはっきりと声に出して聞いてきた。
「お前はやはり女だったんじゃないのか」
「えっ……」
あまりにも当たり前の事実に対して彼の言葉の意味が分からず、何と答えて良いものなのかが見当つかない。
疑問符とともにその場でしゃがみ続ける私に対し、彼は「違うのか?」と少し怪訝そうな顔になった。
「お前がコクヤで言ったのだろう、自分が小娘だと……」
「……は?」
「あの封術師もお前を小娘だと言っていた。やはりお前は」
「えっ、ごめんちょっと待って」
君は今まで私のことを何だと思っていたというのだ。それ以外に何があるのだ。
寝言は寝て言え短珍野郎とその辺りは主に心のなかで叫び、私はそうだけどと話す。
「今も昔も生まれてこの方ずっと変わらず女だけど」
私の答えに彼は眉根をわずかに寄せて苦い顔を形作った。そして、やはりな、という独り言とともに視線を外し、次いで顔の向きも正面の方へと戻して黙り込んだ。
何なのだ。何だというのだ。私が女であることが君はそんなに気に喰わないのか。何がやはりだアホなのか。どう考えてもそうではないか。
彼の反応があまりにも不愉快そうなものであったために一応何かあったのかと尋ねてみたが、彼はさらに眉根を寄せるだけで特に語らず、その真意は分からない。
仕方なしと未だ手に持っていた短刀を彼の横にそっと置き、簡素な礼を述べて腰を上げたところになって、私はふと思い出して足を止めた。
「もしかしてあの森で言ったこと?」
思い返せば魔の森を抜けているとき、頓痴気なことを言われてカチンと来たお返しで、思わず少々無理のある冗談を彼にしてしまっている。
彼は私の問いに対して始終険しい顔で無言を貫き、それがかえって暗に肯定の意を示す。
言わせてもらおう、それで私を一瞬たりとも本気で男と勘違いするうすら馬鹿がどこにいる。彼は喧嘩を売っている。次があったら受けて立つから覚悟しろ。
君のあたまも一度手刀打ちでかち割っておくかい訂正、君の手の拘束も今のうちに切っておくかいと念のため聞いておこうと思ったところで、何やら入り口で見張っていた人物の魔力の気配が動き出し、どこかへ去っていってしまった。一体そとはどうなっているのか、適当な窓から顔を出して入口あたりを確認できないものなのかと思ったが、窓の位置が目の高さより少し上と若干高く、加えて一辺の長さに十分な余裕がないおかげで叶わなかった。
それと入れ違うように、今度はミリエの魔力の気配が近づいてくる。なんとか様子をうかがいたくて扉の近くへ足を動かしていた私は、慌ててミリエがやって来る方向にある窓のそばへ走り寄った。ミリエが来たのは扉のある出入口とは反対側、ちょうど私とギャラクシー・パラリラがもともと立ったり座ったりしていた壁側の窓である。




