098 あの日に続く海の底から(1)
「う、わあ……!!」
夜空に瞬く、星の光。
眼下に広がる、砂の海。
「きれいですねえ、イーリアレ!」
「はい、ひめさま」
砂の丘の上に立ち、わたしは思わず声を上げてしまいました。みなが寝静まるのを待ち、こっそり幕屋を抜け出したわたしたちは、夜の砂漠にやってきたのです。
ローゼンロールさまに教わった、人生の楽しみ方。
それは夜更かしでした。
『夜の砂漠は凄いのよ、ヴァヌーツの砂には星の光が混じってるの。とってもステキなんだから』
ヴァヌーツの砂にはガラス質の何かが含まれているのかもしれません。風が吹くたびにその砂がさらさらと崩れ、それが星の光を微かに反射して、まるで宝石の流れる海のようです。
目の前に横たわる、昼とは違う世界の表情。
改めて感じる自然の雄大さと、恐ろしさ。確かに、基本的に昼しか行動しない、早寝早起きなわたしたち女性は知らないことで、とても新鮮且つ大興奮です。
手が届きそうな星空。今にも降ってきそうな、そんな錯覚を覚えるほど強い光。足の裏に感じる、氷のような砂の感覚。
「ふわあ……」
夜空に手をかざしながら、わたしは胸一杯に夜の空気を吸い込んで、
「くちんっ!」
くしゃみをしてしまいました。
知識としては知っていたのですが、砂漠の夜がこんなに冷えるとは……、さすが大自然。昼間の熱を一切感じない、肌に突き刺さるような冷気です。
「ひめさま」
「大丈夫です、イーリアレ」
わたしはふるっと肩を震わせ、イーリアレが差し出す手を握りました。そして、左手にイーリアレの温かな体温を感じながら、
「それでは、ローゼンロールさまにお返しをしに行きましょう」
夜の砂漠から砂浜へ。
遠く彼方から響く、寄せては返す波の音。
昏い海を前に、わたしとイーリアレは向かい合って座っています。
「くちんっ!」
「ひめさま」
「大丈夫です。始めましょう、イーリアレ」
「はい、ひめさま」
わたしは腰巻をたぐって胡坐をかき、弦に弓を当て準備完了。イーリアレが弓をゆっくり滑らせると、砂浜に音楽が生まれました。
弦から空気へ、陸から海へ。
これがローゼンロールさまへのお返し、音楽が大好きなあの方へ、わたしたちからの贈り物。
ゆったりとした旋律を何度か繰り返し、イーリアレは歌い始めました。
「あおいかぜのなか、わらってた。
あなたのよこがおを、まだおぼえてる。
ねえ、いまのわたしをみて、
あなたはわらってくれるの」
細い細い音から、静寂へ。
途切れてしまった歌に再び命を込めるような、囁くような入り方。
「いまもかんがえてる。
あしたをくれたあなたに、わたしができたこと」
長い長い間奏。
息吹を乗せて重なる、わたしの弦。
主旋律を弦だけで奏でる、長い時間。
四度繰り返したところで、イーリアレはひと際深く、響くような声で、
「なにもいえなかった。なにもつたえられなかった。
まだいえたのに。まだとどいたのに」
閉じ込めていた感情を一斉に放つような、そんな声で、
「おわりのうみにふくかぜを、
あなたのひとみが、きえるのを」
もう一度だけ繰り返す主旋律。そして、
「もう、めをそらさない。
かぜのつづき、あしたのうみへ……」
最後の一音を弾き切り、イーリアレは演奏を終えました。
波の音だけが残る、夜の砂浜。
イーリアレが歌を覚えて二年とちょっと。様式やサビの調子など、イーリアレの作る歌にも変化が見られるようになりました。
……ですがそのー、メロディはとてもキャッチーでキレイなのですが、贈り物にするには歌詞の内容が暗いような気がするのです。
そこでわたしは、うーん、と考え、
「イーリアレ。せっかくですので、この間作っていた明るい曲を……」
言いかけて、わたしの時間がピタリと停止しました。
顔を上げたわたしの視界に入った、一つの影。わたしたちの背後、群青色の砂浜の上。いつの間にかそこに片足を投げ出して座っていた、一人の女性。
チョコレート色の肌に赤色の髪。
ぼろぼろと涙を流す、大きく見開かれた橙色の瞳。
ヴィガリザさまは、いつも通りの気だるげなお声で、
「どうしたの。つッづけなよ」
「はひっ……!」
瞬間、わたしの頭を駆け巡る、幼稚な恐怖。
どうしましょう、ヴィガリザさまに見付かってしまいました。怒られてしまいます。しかし、夜の浜辺で歌うことは特に禁じられてなかったような、ちょっとよく分かりません。
そもそも、ヴィガリザさまはやる気が無いように見えるだけで、おそろしく責任感の強い人。その人がゼフィリアの客人であるわたしから目を離すはずがなかったのです。
しかし、次にわたしが感じたのは全く別種の恐怖。
ヴィガリザさまは爬虫類のような動きでキロッとイーリアレを見て、
「イーリアレ。アンタ、追ッたね?」
「はい」
はっきり答え、何かを警戒するような雰囲気を放ち始めるイーリアレ。
わたしたちが固まっていると、ヴィガリザさまの涙がピタッと止まり、
「はっ……、ははっ!」
突然笑い始めました。
一切瞬きせず、その瞳を見開いたまま。口元だけ弧を描いて笑う、不気味な笑み。
「そーだよねー! アッタシは旦那が一番! ソレ以外はどーでもいーの! 陸のことだって、他のヤツらのことだッてどーでもいい! そーだよ、ソレでいーんじゃん!」
わたしの背筋を伝う、大粒の冷や汗。肌に感じる凶兆の予感。
「あーあーあー、そーだよねー! アッタシもねー、お行儀のいい常識ッてヤツに縛られちゃッてさー! ぜーんぜん思い付かなかッたワケよー! 今からだッて遅くない、追ッかけりゃいーんじゃんねー!」
血の気の引く発言。かたかたと震え出す、わたしの体。
ヴィガリザさまは笑うのを止め、片膝の上、ダラリとその右腕を乗せ、
「そーそ、石と式は違うけどさー。ローゼンロール様のアレ、アッタシ出来そうなんだよねー」
開いた手の中に生まれる、ひとつの小さな赤い石。その火込め石を見て、わたしはヒュッと息を飲み込みました。
完璧な応用。
火込め石に水の式を代入した、人体を変質させるための起爆スイッチ。無駄なくスムーズに人の領域を踏み越えるための、禁忌の結晶。
女も夜に討って出る。
ですがそれは、男性のような出力の高い石を扱うことが出来たらの話。世界中の女性が頓挫したその計画を、ヴィガリザさまはあっさりと達成してしまったのです。
ヴィガリザさまは、空っぽになった相貌で、
「シグドゥに突っ込んで死ぬ、か。そーよ、そーすりゃいーのよね」
十八の時に老いを止めてしまったヴィガリザさまは、言葉が枯れない限り死ぬことはありません。そして今のヴィガリザさまは、強者の義務を全うするためだけに生きている。
もしヴィガリザさまが責任感を放棄し、自分のためだけに生きたら。
わたしが考えるのを避けていたその可能性、その帰結。
もしこの人が、納得する死に方を知ってしまったら。
もしこの人が、望む死に場所を見付けてしまったら。
この人は、迷わずそれを実行する。
この人は、臆さずそこに直行する。
「あ、う……」
からからになったわたしの口から、小さく漏れ出る呻き声。
止めなければいけない。でも、どうやって? 喧嘩? 言葉?
旦那さまはヴィガリザさまとリガニアちゃんのことを本当に大切に思っていたから、だから海に出たのですよ。
そんな当たり前の理屈では、この人は止まらない。そんな当たり前の理屈で納得することを、この人の感情は許さない。
遠くなっていく波の音。口を噤んだまま、ピクリともしないイーリアレ。わたしにはヴィガリザさまを止める言葉が見付けられないまま。
混乱と焦燥。
動揺と恐怖。
ですが、ヴィガリザさまを止める言葉は、海から投げられたのです。
「やめた方がいいよ。無駄だから」




