060 深海の屍屋敷(2)
「姫様、クルキナファソ本島から返答がありました」
「ありがとうございます、ナノ先生」
翌日、ゼフィリア領の島屋敷、その大広間。
すだれから明るい陽の光が射し込む、お昼過ぎ。
わたしは海底であったことをナノ先生に報告し、あの人のことを調べてもらうようお願いしたのですが……。
「クルキナファソのヒンラーキさん……」
それは三百と七年前の失踪記録。
フハハさんが言っていた先代の銀海、オルグノットさまが亡くなった時期とも符合する年月。わたしは帰りがけに海底の変形情報を読み取り、館が作られた時期を解析したのですが、その結果とも一致します。
男性はともかく、この世界の女性に行方不明者は殆どいないのです。水葬されていない人間の記録を当たれば、それはすぐ明白なものとなる。
わたしの対面に座り、報告書の束を持ったナノ先生が、
「事実は創作より奇なり、と申しますが、まさか三百年もの間、深海で……」
「ええ……」
信じられないというように首を振るナノ先生に、わたしは同意。ちなみに、海域調査でわざわざ深海まで潜る必要はない、潜り過ぎ。とわたしはしっかり叱られ済み。
「このことをフハハさんは知っているのでしょうか?」
「確かに、イオシウスに確認を取るべき案件のように思えます。しかし……」
ナノ先生の危惧。ことは陸の者が起こした問題。フハハさんの手を煩わせていいものかどうか、難しいところです。
ナノ先生は紙束を床に置き、
「この件に関し、各島の島主による緊急の話し合いが行われました。会議の結果、陸は深海に干渉せず、という結論に至ったとのことです」
「不可侵。妥当ですね」
「はい。正直、みな戸惑っています。我々の弔い方に問題があるのかどうかすら、分からなくなったようで……」
「わたしたちは自然の流れに則った生き方を既に獲得しています。あの人の行いに触発され、思想や習慣を変える必要はありません。儀礼の新案など以ての外です」
はっきり言い切るわたしに、ナノ先生は戸惑った様子で、
「姫様、もしや、怒っていらっしゃるのですか……?」
「わたしが、怒る……?」
わたしはナノ先生の言葉に顔を上げ、それから俯き、
「そう、かもしれません」
「姫様……」
「何をしても、何があっても、人は絶対に生き返らないのです」
腰巻をぎゅっと握る、わたしの両手。わたしの身体の底、心の奥に根付いた、石のように固い確信。
わたしは再び顔を上げ、
「ナノ先生、わたしにはある仮説があるのです。その実証のため、クルキナファソ領に頼みたいことがあるのですが」
「仮説? 姫様。どのような御用でしょう」
わたしはナノ先生に考えを伝え、それを聞いたナノ先生は怪訝なお顔になって、
「姫様、それでは……」
「ええ、ナノ先生」
頷き、わたしはすだれの向こうに横たわる青い海に目を向けました。
「あの場所には、もう一度足を運ばねばなりません」
わたしの後ろ、イーリアレはいつも通りの無表情でカタカタと震えながら、
「わたしはおそろしいかたにおつかえしてしまいました……」
「ヒンラーキさん、ですね?」
大空洞の最奥。クルキナファソの装飾で埋められた、小さなお部屋。わたしはガクブル状態のイーリアレと共に、その入り口に立ちました。
お部屋の中心には一人の男性の屍体。
その屍体を小さな手で撫で続ける、一人の女性。
「ご挨拶が遅れました。わたしはゼフィリアの島主、千風のヘクティナレイアの娘。名をアンデュロメイアと申します。こちらは側付きのイーリアレです」
わたしはぺこりとお辞儀し改めてアイサツ。無言の返事に顔を上げ、
「やはり、無駄のようですね」
「ひひひひめさままま」
「大丈夫ですよ、イーリアレ。この人はもう正気を失っているようですから。会話するに値しない。ここにいるのはそういう生き物なのです」
わたしは自分でも驚くほど冷めた思考で、石の床に置かれた銀色の石を眺めました。
五海候の、男性の石をよく観察して分かったこと。
男性の石はわたしたち女性の石とはその根幹が違う。通常、脳で行われる思考演算とその処理機能の殆どを石によって代行させているのです。もしかしたら、自我のようなものまで仕込まれているかもしれません。
それは、石をもう一人の自分として生み出すようなもの。そして、至銀のさだめ石とオルグノットさまの肉体、その繋がりは既に断ち切られている、ということ。
何故こうなったのか、わたしには分かりません。興味もありませんし、調べるつもりもありません。
「しかし、一石は投じさせていただきます」
わたしは二人の間に割って入るように踏み出し、白い石を一つ置きました。すぐに立ち上がり、石を起動。わたしの指示で音を放ち始める、気込め石。
それは人の作り出した弦の音。
これは気込め石による人口音帯と情報記憶機能の複合的応用。
小部屋に流れるのは、三百年前から伝わるクルキナファソの弦の調べ。ナノ先生にお願いし、クルキナファソ領に頼んで録音してもらったもの。
やがて、その音に合わせるようにオルグノットさまの遺体が振動し始めました。すると、
「あぁっ、あおっ! おああああああっ!」
オルグノットさまの遺体に、お腹にすがりつき、泣き叫び始めるヒンラーキさん。そしてゆっくりと動きだす、遺体の口。
「そ、こにいた、のか」
「ああっ! あおっ、あうあぁっ!」
クルキナファソに問い合わせて知った、オルグノットさまの人となり。この世界の男性らしく、性格は温和で穏やか。音楽が好きな方で、弦の音を求め昼の陸に足を運ぶ回数が多く、とりわけクルキナファソの音楽をとても好んだのだとか。
頭の中の記憶では死んだ生き物の肉体を解剖し、様々な実験を行っていました。わたしがしているのはそれと同じ。もしかしたら、これは冒涜的なことなのかもしれません。
記憶とは生き物の脳や細胞に蓄えられた情報の反射。その反射が複合的に組み合わさり、文脈を得て形成されたものが思考となるのです。
わたしたちの肉体に絶えず行き交う電気信号。そのネットワークを揺さぶり、電気的な刺激で動く脊髄反射のように、生前慣れ親しんだものと共鳴させる。
「う、みにいこう。きょ、はい、いてんきだか、ら」
「あうっ! あうあっ! あうぅ……!」
ここにあるのは体に刻まれた情報の中から無作為に言葉を選んで出力するだけの、ただの屍。生者の歌に共鳴して思い出を繰り返し再生し続ける、オルゴールのような物体。
わたしにはヒンラーキさんに安らぎを与えることは出来ません。わたしにはそれを叶える力も、それをする理由もありません。
何にせよ、亡くなった人間は絶対に生き返らないのです。
そう、この人は間違っている。
この人が死を否定するなら、わたしは死を肯定します。
「失礼します。行きましょう、イーリアレ」
「はははい、ひめさままま」
屍にすがりつく女性をそのままに、わたしは回れ右をして回廊に戻りました。
階下には屍体の納められた無数の階層。平坦な石の床を歩きながら、わたしは再び考えます。
この終孔に集められた屍体は生きているのでしょうか、それとも死んでいるのでしょうか。
言葉が枯れると、人は死ぬ。かつてスナおじさまはわたしにそう教えてくださいました。では、この世界に生きるわたしたち人間にとって、死とはどのようなものでしょう。
石を作りすぎると言葉が枯れる。細胞に蓄積された信号情報を石として体外に出力し続けた結果、そのネットワークが疲弊し、わたしたちは記憶を、思い出を失って死に至る。
そして、記憶とは外部からの刺激によって生まれ、わたしたちの体に刻み付けられるもの。いわば言葉の化学反応。
生あるものでなければ新しい言葉を紡ぎ出せない。それがこの世界に生きるわたしたち人間の、命の証明。
玄関ホールに戻ったわたしは、大空洞に向け手をかざしました。
この終孔を崩落させる。
今のわたしなら、それは簡単に行えること。しかし、陸の決定は不可侵。この場所を海の底に沈めることは、今のわたしには許されていないのです。
わたしはかなめ石を生もうとしていた手を下ろし、
「帰りましょう。もう、この場所に用はありません」
「はい、ひめさま……」
玄関に向かっていた足を止め、わたしはふとイーリアレの顔を見上げました。気付けば、イーリアレの震えが止まっているのです。
「イーリアレ、もう恐くないのですか?」
「いえ、まだこわいとおもうのです。こわいのですが……」
イーリアレは銀色のまつ毛を伏せ、とまどったような雰囲気で、
「それよりもずっと、さみしいとおもうのです」
「イーリアレ……」
ぎい、と音を立てて開く館の扉。風を纏い、わたしとイーリアレは暗い海の中に身を投げ出しました。海面へ。わたしたち、生者の世界へと向かって。
背後で閉じていく館の扉。海の底に響く、重苦しい音。
振り向けば、暗闇に灯る小さな館の光。館の窓から漏れ出す光の帯の中、踊るように揺れる小さな粒子。ゆっくりと積もり、重なっていく、かつて人であった欠片たち。
ここは深海。全ての命が等しく眠りに落ちる場所。
この世界の人間は言葉が枯れると死んでしまう。では、死んだ人間は夢を見るのでしょうか。言葉の無い世界で見る夢とは、どのようなものなのでしょうか。
館の扉が閉まる時に漏れ聞こえた、小さな話し声。
囁くように交わされる、二人の会話。
「あ、んしんし、て。お、ねむり……」
「はい、おんかた……」




