030 初めてのアルカディメイア
そんな訳で、アルカディメイアに着きました。
アルカディメイアはアーティナの北、この星の中心に位置する島。わたしは今アルカディメイアの都市、その直上で滞空中。
眼下に広がるのはこの島の南部に位置する、講義棟を中心とした半円形の都市。その面積は都市部だけならアーティナと同じ、とても大きなものです。
都市の円周はなだらかな砂浜に縁取られ、海に面しています。直径に当たる大通りからその先はいきなり街が途切れ、広大な草原へ。
半円の直径、その中心地には講義棟と呼ばれる大きな建物。講義棟前の広場からは放射線状に道が敷かれ、土地が分けられています。
うーん、まるで開いた扇ですね。
アルカディメイアにおける各島の領、その面積は人口や序列に比例して仕切られているのだとか。
なるほど、南西部に見える巨大な列柱建築と空中に浮かぶ立方体群はアーティナ領のものなのでしょう。そこだけ異様に大きな区画となっています。
わたしは視線をアルカディメイアの直径、その東端に位置する場所に移しました。そこにあるのは見慣れた作りの小さなお屋敷。
ゼフィリアの島屋敷。
アルカディメイアにおける唯一のゼフィリア領。
「ひめさま、ここがアルカディメイアなのですか?」
わたしの左肩にちょこんと顎を乗っけ、イーリアレが言いました。イーリアレはその背に沢山の瓶を紐で括り付け、わたしのお腹を腕と足でがっちりホールド。
普段はわたしが背負ってもらっているのですが、遠翔けのため、今はわたしがイーリアレを背負っているのです。風を使ってイーリアレを持ち上げているので、重さは全く感じません。
「ええ、イーリアレ。さあ、参りましょう」
風を操る前、空からの眺める知らない景色。
目の前に広がるのはゼフィリアと違う色の空、違う色の海。
今日から一年間、わたしたちはここで暮らすのです。
わたしは初めての風を纏いの外に感じながら、アルカディメイアに向かって下降を始めました。
地面が近付いたところで、お腹に掴まっていたイーリアレがするっと落下。わたしより先にアルカディメイアに上陸です。わたしも続けて着地します。
時刻はお昼過ぎ。
雲ひとつない青空の下。
足元に敷かれているのはゼフィリアの様式の石畳。イーリアレはその地面にドスンドスンと荷物を下ろしていきます。
わたしが下り立ったのは島屋敷の前庭こと修練場。ここ島屋敷の構え、設計はゼフィリアの海屋敷と全く同じもの。しかし修練場の外にはすぐ砂浜が続いていて、その向こうに海が臨めます。
ゼフィリアとは違う、青黒い海。その海の色で、アルカディメイアに来たという実感が湧いてきました。今日からここで、島主になるためのお勉強が始まるのです。
わたしが振り向くと、修練場の中心に立つ一人の女性。その人はわたしたちに向かい、丁寧にお辞儀をし、
「ようこそ、アルカディメイアへ。私はゼフィリアの島屋敷を預かる屋敷番、フィリニーナノと申します」
わたしとイーリアレはフィリニーナノ先生の前まで移動。膝を突き、頭を下げ、
「初めまして。ゼフィリアはヘクティナレイアの娘、アンデュロメイアと申します。こちらは側付きのイーリアレです。今日から一年間、よろしくお願いいたします、フィリニーナノ先生」
「よろしくおねがいいたします」
イーリアレがわたしに続き頭を下げたところで、
「ナノで結構です。私に対し、礼は必要ありません」
「は、はい。ナノ先生」
わたしは立ち上がり、改めて目の前の人物と向き合いました。
後頭部でまとめられた銀髪。
両サイドから垂らされた前髪。
小麦色の肌に、厳しそうな光を宿す青い瞳。
腰巻の帯の位置が高く、胸巻の上から襟だけの布を巻いています。
この人がゼフィリアの屋敷番、フィリニーナノ先生。
歳の頃、背格好は海守のお姉さんと同じくらいに見えますが、シオノーおばあさんと同世代の方だと聞いたので、若い頃に老いを止めたのでしょう。
ナノ先生は上品に会釈をし、
「料理のことは本島より聞き及んでおります。厨房なる設備は用意致しましたので、荷物はそちらに」
「ありがとうございます、ナノ先生。イーリアレ、お願いします」
「はい、ひめさま」
わたしの指示通り、イーリアレは持参した調味料を厨房へ。わたしはナノ先生の背中に続き、島屋敷に向かいます。
石畳を歩きながら、ナノ先生はアルカディメイアの説明をしてくれました。
講義の受け方、行い方。それ以外の私生活はゼフィリアにいた頃と同じで結構。食事やお風呂の時間などは決まっていないようで、いつ何をしようが基本的には自由。
うーん、学問の島とはいえ、やはりこの世界の人間の社会。超絶ゆるいですね。
しかし、わたしの予定は初日から混み混みなのです。講義の受け方、その方法は頭の中の記憶の教育機関と似ていて、掲示板に貼り出された予定をチェックし、指定された時間と場所に向かう、というもの。
そんな訳で、本日の第一目標は掲示板が設置された講義棟前広場。その後アーティナ領に向かい、わたしと同じ島主候補であるアーティナのセレナーダさんを訪ねなければなりません。
わたしが島屋敷の縁側に上ると、ナノ先生がすだれをめくり、中へと促してくれました。わたしは島屋敷の広い板間に足を踏み入れ、ナノ先生に振り向きながら、
「ナノ先生、わたしたちはさっそく講義棟に向かいたいと思います」
「承知致しました、姫様。私も同行いたします」
「ありがとうございます、ナノ先生。その後すぐアーティナ領にアイサツに伺おうと考えているのですが」
「アーティナ領、ですか……」
ナノ先生はちょっと困ったようなお顔で、
「ご存知かと思われますが、屋敷番である私は学生同士の交流には介入出来ません」
屋敷番のお役目はアルカディメイアに来た学生のお世話。
なのですが、その立場はあくまで中立。アルカディメイアにおける学生の評価や島の序列は、全島の屋敷番による話し合いで決まるのです。
公平を期すため、学生間の行動には一切干渉しない。それが屋敷番というお役目。
それに、ゼフィリアの屋敷番はナノ先生一人しかいないのです。それはつまり、厨房などの用意も全てナノ先生一人で済ませたということ。
屋敷番のお仕事はとても沢山あり、とてもお忙しいと聞きます。これ以上ナノ先生のお手を煩わせるわけにはまいりません。
「ナノ先生。アルカディメイアに慣れるためにも、今日はわたしたちだけでお出かけしようと思います」
「しかし……」
ナノ先生は少し言い淀み、
「本島から連絡を受け、心得ていたつもりだったのです。しかし失礼ですが、姫様の肉は私の想像以上に弱いものでした。それに……」
悲しそうに目を伏せ、わたしを見つめ、
「千年公のことです。長年のご功労に衷心より感謝の意を捧げ、謹んでそのご海去を悼み申し上げます」
わたしたちの頭上、島屋敷の天井。そこに設えられているのは本島同様、ひいお爺さまの火込め石。
「姫様はアーティナに赴き、公のお役目を完遂されました。ゼフィリアに生まれた一人の人間として、私はあなたを誇りに思います」
静かに頭を下げるナノ先生。
微かに震える銀色のまつ毛。
そんなナノ先生を前に、わたしは両手で腰巻を握り締め、
「ううっ、ありがとうごじゃいます。ナノ先生……」
わたしの瞳からぽたぽたと床板に落ちていく、小さな雫。突然泣き始めたわたしに驚いたのか、ナノ先生はサッと膝立ちになり、
「どうされたのですか、姫様」
「だって、ナノ先生がちゃんと話が出来る人で、わたし、安心してしまって……」
ナノ先生は厳しいけど、優しい人。どっかのおじさまの言っていたことは本当だったのです。それにナノ先生は超常識人ぽいお人で、しっかり話が通じる、言葉で意思疎通ができる。非脳筋なお人ぽいのです。
リルウーダさまはベッカクとして、まともなコミュニケーションが成立した人に出会ったのは生まれて初めてで。わたしはとても安心したのでした。あ、スナおじさまは別です。あれはスナおじさまなので。
わたしの吐露に、ナノ先生は全てを諦めたような空虚なお顔になり、
「ゼフィリアの人間は思考がゆるうございますから。私くらいはしっかりせねばと、心掛けている次第でございます」
「うう、ご立派。ご立派でしゅう……」
「あなたも苦労されたのですね……」
眉間に深いしわを刻み、ナノ先生はめちゃんこ大きなため息を吐きました。そんなナノ先生を見て、わたしは心を新たにします。
島主候補として、ゼフィリアの非脳筋派の一人として。これ以上ナノ先生にご心配をおかけするわけにはまいりません。
わたしは涙を拭い、ナノ先生の青い瞳に向かい、
「ナノ先生、わたしはイーリアレといつも一緒なのです。だから大丈夫なのです」
「地理は問題ありませんか?」
「はい、上空から大まかな位置は確認済みです」
ナノ先生は立ち上がり、丁寧にお辞儀をして、
「承知致しました。それでは姫様、行ってらっしゃいませ」
そんな訳で、決意を新たに出発したわたしは以下略であっさり力尽き、イーリアレに背負われやっと講義棟前広場に到着した次第でございます。
「だいじょうぶですか、ひめさま」
「らい、じょうぶれしゅ……」
抜けるような青空の下。わたしはふらっふらになりながらイーリアレの背から石畳に着地。
足の裏に感じるのはざらついた石畳の感触。
生まれたての小鹿のようにがくがく震えるわたしの両膝。
いえ、頑張ったのです。頑張ったのですが、わたしはまたしても体調を崩してしまったのです。
その理由はアルカディメイアの空気。
ゼフィリアの爽やかな空気と違い、もったりとして重く、肌がベタつくような凄まじい湿度なのです。頭の中の記憶で言いますと、蒸れっ蒸れの熱気のこもった運動部の部室みたいな感じでしょうか。
何より酷いのがその臭い。
汗臭いというか、生臭いといいますか。先日訪れたアーティナとは比べ物にならないほどキッツイもので、中心部に近付くにつれ、そのキツさがどんどん強まり、もう呼吸したくないくらいヤバイ状態なのです。
「ひめさま、だいじょうぶですか」
「らい、じょ、うぷっ……」
いつも通りの無表情、平然とした様子のイーリアレ。わたしは両手で口元を押さえながら、周囲を観察します。目の前に建つのはアルカディメイアの要所である中央講義棟。
石で出来た超大きな建物で、まるで頭の中の記憶のオベリスクのような異様です。わたしの立つ講義棟前広場も超広大で、遠くに見える各島領の街並みが霞んで見えるほど。何というか、スケールが違います。
そしてアーティナと同じく、広場に行きかう沢山の女性。
様々な瞳の色、肌の色。
様々な髪型に様々な着こなし。
流石アルカディメイア、正に世界の縮図です。
なのですが、やはりみなさんその身だしなみが荒れてるように思えます。
ボッサボサの髪に着崩れた胸巻。お肌は汗と脂でギラギラと輝き、固まった塩や小さな海草の欠片が貼り付いてたりして……。
いえ、ここはいわば大都会なのです。みな忙しくて身だしなみに気を回す余裕がないのです。なんかそういうのなのです、きっと。
朦朧としだした意識の中、わたしはやっと第一目標を発見。イーリアレに手を繋いでもらい、そこまで移動。わたしたち二人、ふわーっと見上げます。
それは石で作られたとても大きな掲示板。
その表面には既にずらーっと沢山のお名前が。
なるほど、こういう部分は頭の中の記憶の世界と似てますです。頭の中の記憶にある通信方法に比べその在り方はかなりアナログですが、わたしたちにとってはとても効率のいいやり方だと思います。
振り向けば、遠く屋根の上から掲示板を見る人。空に作った足場に立ち、こちらを眺める人。そう、この世界の人はその視力も超スゴイのです。
更に筋肉による筋肉移動で時間距離が超短い訳でして。パッと行ってパッと帰ってこれるのは当たり前。
生活のクロックが違えば、当然効率も変わる。重要なのはこの世界の人間にとって手軽である、ということなのですね。
しかし、やはりこの世界らしいのはその情報。場所の指定はあれど、詳細な開始時刻が全く書かれていません。講義開設者の名前だけで研究内容がさっぱりだったり。
うーん、これは慣れるまで苦労しそうです。戻ったらナノ先生に詳しく聞く必要が出来てしまいました。
「うぶっ……」
「ひめさま」
急にふらついたわたしを、イーリアレが支えてくれました。更にキツくなった臭いに、意識が途切れかけてしまったのです。
わたしはぐわんぐわんに揺れる頭で、再度辺りを見回しました。
どうやらこの広場に人が集まり出したようです。なるほどやはり学問の島。みなさん掲示板に用があるのですね。
わたしはふらふらとイーリアレを見上げ、
「イーリアレ、凄いでしゅね……。この世界には、こんなに沢山の人がいるのでしゅよ……」
「はい、まったくよくわかりません」
よく分からないイーリアレの隣で、わたしは気を引き締めます。ふらふらになっている暇などないのです。
ゼフィリアの序列を上げるため、立派な島主になるために。わたしは頑張らねばならないのです。
イーリアレの手を放し気合を入れ、わたしは左手で気込め石を作成しました。そこから編みだす一枚の紙。
抜けるような青空の下。
ここはアルカディメイアの講義棟前。
肺を満たす、酷い臭いの湿った空気。
わたしは必死で、だから気付かなかったのです。
広場に集まった沢山の人。
アルカディメイアの学生、そのお姉さまたちの視線。
わたしが掲示板を見上げ、講義予定を写していると、
「あなた、ゼフィリアの人間?」




