029 わたしはアンデュロメイア
南海らしい元気な太陽と、海の香りを含んだ風。
きりんと澄んだ音を立てる、軒下に浮かぶ風鈴。
お母さまがはがね石で作った、気持ちのよい風が吹くと鳴る風鈴。風鈴と言っても舌、短冊のような紙が釣り下がっていない、鈴だけが宙に浮いたもの。
海屋敷の前庭、修練場の中心にて。その涼やかな音を聞きながら、わたしは目の前のやりとりをぼーっと眺めています。
「イーリアレ、大丈夫かい? 忘れもんはないかい? お腹は空いてないかい?」
「はい、シオノーおばあさま」
「エイシオノー、さっき食べたばかりではありませんか」
「だってレイア様、あたしゃ心配で……!」
お母さまがシオノーおばあさんをなだめ、今度は自分がイーリアレの前に出て、
「イーリアレ、大丈夫ですか? 忘れ物はありませんか? お腹は空いてませんか?」
「はい、レイアさま」
「レイア様、さっき食べたばかりじゃないさね!」
「そう、そういえばそうでした……」
そんなお三方を眺めながら、わたしはなるほどと頷きます。
このやりとり、これでもう三回目ですね。
しかし、とわたしは頷き確かに納得。忘れ物があってはいけません。
わたしは帯に挟んだ研究資料の気込め石を確認。以上、荷物はこれだけ。わたしたちには石作りがあるので、持ち物が少ないのです。
ついでに四度目のやりとりを始めたイーリアレを見て、彼女の荷物も確認。
イーリアレが背負っているのは紐で括られた沢山の大きな瓶。中身は勿論ゼフィリア産のお酒に調味料。
準備万端、出発準備完了なのです。
そんな訳で、わたしはシオノーおばあさんとお母さまに、
「あの、お母さま、シオノーおばあさん。そろそろ……」
「でも姫様。いざ出発となると、あたしゃやっぱり心配で……」
「エイシオノー、ナノ先生をお待たせする訳にはいきません。それでは……」
お母さまは口元をきゅっとさせ、超お真面目なお顔になり、
「イーリアレ、大丈夫ですか? お腹は空いてませんか?」
「お母さま、それ終わらないやつなので……」
お約束を続けたお母さまは、イーリアレからわたしに向き直り、
「アン。アルカディメイアに行っても、何となくいい感じに頑張るのですよ」
「お母さま、それはその、ふんわりし過ぎでは……」
「物事には柔軟な思考で対応せねばなりません」
お母さまが上手いことを仰っています。
それはともかく、そう、今日は新しい年度の始まりの日。いよいよアルカディメイアに発つ日がやってきたのです。
修練場にそよりと吹く風を肌に感じながら、わたしは何となく思いを新たにしようと心掛けました。
お母さまは金色の髪を風に揺らしながら、何だか改まった様子で、
「アン。アルカディメイアに発つ前に、あなたに訊かねばならないことがあります」
「ほえ?」
サラサラストレートな金髪に青い瞳。
小麦色の健康的な肌に、うっすら割れた腹筋。
サラシのような胸巻と長い腰巻に細い帯を締めた、ゼフィリアの服装。
いつものお母さま。
お母さまはわたしの前でむんと胸を張り、キリリとしたお顔で、
「あなたは何者ですか?」
「ほえ……?」
その問いに、わたしは頭の中が真っ白になりました。質問の意味が分からなかったのです。
しかし、これはいつもの脳筋発言ではないように思えました。意図の分からない質問の答えを、わたしは頭で考えます。
視界に映る建物。わたしの傍に立つ人たち。
わたしの住む海屋敷。シオノーおばあさん。イーリアレ。
一度はわたしが諦めた景色。そして、今のわたしを構成する風景。
今、この時のわたし。
そして、目の前には胸を張って立つお母さま。ゼフィリアの千風のヘクティナレイアさま、その人。
思い出すのはゼフィリアでの毎日。この一年でわたしが知った様々なこと。それを振り返って、わたしが気付いたこと。
そう、それはシオノーおばあさんがお母さまに意見した、もうひとつの理由。
わたしが倒れ、お母さまにお料理を伝えたあの日、あの時間。既に日は沈んでいたのです。
つまり、夜。
お母さまはわたしのため、夜の海に出たのです。
それはこの世界の女性として、どんなに勇気のあることだったのでしょう。
今のわたしの身体。
海屋敷に続く階段はまだ踏破できませんし、海守のお姉さんたちみたいに筋肉的跳躍も出来ません。
でも、もうお部屋で行き倒れたり、気を失ったりしない。お部屋で寝ることしかできなかったあの頃に比べ、わたしの体はずっと丈夫になりました。
あの日のお母さまの勇気が、今のわたしの身体を作っているのです。
「わたしは……」
そう、わたしはわたし。
わたしは石畳に真っ直ぐ立ち、その青い瞳を真っ直ぐ見て、
「わたしは千風のヘクティナレイアの娘にしてゼフィリアの島主候補、アンデュロメイアです!」
わたしの返答に、お母さまはにっこり笑い、
「よろしい」
お母さまの隣、シオノーおばあさんも眩しい笑顔で胸を張っています。
修練場に降り注ぐ、南海らしい元気な太陽の光。
海の香りを含んだ風に、お母さまの風鈴がきりんと鳴る。
わたしは右手に風込め石を作りました。それはお母さまに教わった、遠翔けの石。わたしはその石をギュッと握り、
「イーリアレ」
「はい、ひめさま」
わたしは左手でイーリアレと手を繋ぎました。
背すじを伸ばし、上を向いて、
ゼフィリアの島主候補として、学ぶべきことを学ぶために。
「はいっ!! アンデュロメイア、行って参ります!!」




