122 わたしはアンデュロメイア
夕立を運び終えた厚い雲が、赤い空を流れていく。
森の木々を揺らした風が、土の香りを乗せて吹く。
ゼフィリアは夕暮れ前の海屋敷。
「行って参ります、お母さま」
修練場に面した縁側。軒下に浮かぶはがねの風鈴が、きりんと澄んだ音を鳴らしました。
わたしは正座していた足を手で引き抜き、縁側からそろりと足を下ろします。歩けていた時のことを思い出して、足の親指で石を掴むように、慎重に。一度地に膝を突いてしまったら、もう二度と立ち上がれないから。
足の裏にそっと触れる、濡れた石の感触。縁側に手を当て、背筋を伸ばす。耳、肩、くるぶしが一直線になるよう、真っ直ぐ立つ。
わたしが向かい合う修練場、そこに座る人たちと向き合うために。
この世界に祭事はありません。人を送る時も迎える時も、それらしい風習は無いのです。
それなのに、
修練場の向かって右側、海守の人は胡坐で。左側、蔵守の人は正座で。小さい子供も含め、ゼフィリアに生きる全ての女性がきちんと座り、並んでいるのです。
ゼフィリアの女衆で作られた、人の道。
深呼吸。
わたしは両手を体の前で揃え、出来るだけ深く頭を下げて、
「あとを、よろしくお願い致します……」
お辞儀。
みぞおちに走る激痛。苦悶の声を口から漏らさぬよう、必死に耐える。ええ、まだ大丈夫。お母さまにいただいたこの体は、わたしの望みを叶えてくれる。
引きつるような背中の痛みに耐え、わたしが顔を上げると、
「お任せください」
最前列に座っていたシオノーおばあさんが全力ゴリラな笑顔で頷き、左手に纏わせた水込め石を起動。すると、修練場の石畳が瞬時に乾燥しました。
ありがとう、シオノーおばあさん。
わたしは脇に控えていたイーリアレを見上げ、
「参りましょう、イーリアレ」
「はい、ひめさま」
修練場に拓かれた人の道。夕陽を照らす石畳に、わたしは右足を踏み出しました。
一歩。
バランスが崩れないよう、左足を前へ、次の一歩。そしてまた次へ。一歩一歩踏み締めながら、地面を歩く。
わたしの往く道の両側に並ぶ、人の顔。どの人もみな知る人たち。一緒に食事をして、石の話をして、喧嘩をして。沢山の時間を共に過ごした、わたしの生まれたこの島の人たち。
イーリアレを従え、その間を歩く。
人の道が途切れ、修練場の入り口にようやく辿り着くと、
「メイ……」
階段の下り口に立つ一人の女性。
ふわふわウェーブな金髪に緑の瞳。
白い肌に白い胸巻と長い腰巻。
ゼフィリアの蔵主、カッサンディナお姉さま。
ディナお姉さまは翠玉の瞳に涙を浮かべ、への字になったお口を無理に曲げて、
「きっと大丈夫よ……」
「はい、ディナお姉さま」
わたしはディナお姉さまに会釈し、イーリアレと二人、その隣に立ちました。
小さく息を吐いて見下ろす、長い長い階段。村に続く、一本道。
せめて、みんなが見ている前でだけは、当たり前でいさせてください。そう願いながら、わたしは右足を上げ、一段下の石段にその足を下ろし、
「っ……!」
背骨に杭を打ち込まれたかのような、鋭い痛み。
階段を下りる、この状態になるまで分からなかった、歩く時とは全く違う運動。息が止まり、背中が折れる。ぐらりと傾く体を、必死になって立て直す。歯を食いしばり、二段目へ。
そして、三段目に足を下ろした時、
「あっ……」
「ひめさま」
「ごめんなさい、イーリアレ。お願いします……」
バランスを崩し、膝から崩れ落ちたわたしを、イーリアレが抱き上げてくれました。またしてもお姫様抱っこです。イーリアレの腕にすぽっと収まるくらい痩せてしまったことを、わたしは今更ながら気付きました。
細く息を吐き出し、沈み込む。
これが、わたしの限界。結局、わたしはこの階段を自分の力で上り下りすることは叶いませんでした。
一段一段、ゆっくりと石段を下るイーリアレ。
わたしの視界に映る、赤い海。
そこに並ぶ人の列。
真っ赤な水平線に向かい、海の上に立つゼフィリアの男衆。島を守るため、この時間を守るためと言わんばかりの、無言の背中。ド筋肉。
普段ならまだ寝ている時間なのに、こんなに早く起き出して。もう少し、自分の体を労わって欲しいのですけど。全く、この島の男衆は、この世界の男性は本当に仕方のない人たちです。
また一段、ゆっくりと石段を下るイーリアレ。
ゆっくりと下がっていく、わたしの視界。
その視界に映る、小さな岬。
ひいお爺さまに会った、あの岬。
ふいに吹く、潮の香りを含んだ風。イーリアレの銀髪を揺らし、わたしの金髪を撫でる、ゼフィリアの風。
ぽつりと口ずさむ、イーリアレの夜の歌。
「喜びも悲しみも……」
そうよ、
この世界に生きるわたしたちは、
「波の数で数えるの……」
「ちょりっす」
わたしたちが麓に辿り着くと、村から続く坂の上り口に人が立っていました。
右のもみあげから垂れる白い三つ編み。
眠そうオーラバリバリの紫色の瞳。
傷だらけになった白い肌と、ぼろぼろになった白い着物。
見た目小さな女の子な成人男性。
レンセン殿。
その立ち姿、右手に持つ得物を見て、タイロンを出た、と言った意味がようやく分かりました。レンセン殿が持っているのは紺色の鎚。周囲の空間を歪ませる程の力を放つ、はがね石の極致の技。
至界のはざま石。
そう、おそらくゼイデンさまが亡くなり、レンセン殿は名を継いだのです。
つまり、
「塵海のレンセン殿……」
「ありがとね、フェンツァイを止めてくれて」
相変わらずぽやーんとしたレンセン殿に向かい、わたしはほんの少し首を上げ、
「レンセン殿、夜を守る男たちに通達です。傷を負ったらゼフィリアに向かうよう。そこに命ある限り、わたしが全ての傷を癒してみせます」
「君はめちゃんこ弱いのに、本当に強いなあ……」
レンセン殿は呆れたお顔で、はあとため息。そして、
「陸は無くならないよ。アルカディメイアも、タイロンも、そしてこのゼフィリアも」
ぐおんと空間を捻じ曲げるはざまの鎚をひょいと担ぎ、
「そのための俺達だ」
それだけ言うと、レンセン殿は海に向かって坂を下りていってしまいました。
あの人がこれから向かうのは、陽の昇らぬ夜の世界。千の月を越え海を渡り、ただひとつの目的のためだけに生きる、道なき道。
赤い砂浜に足跡を残す、小さな小さな白い背中。
風に揺れてチラ見えする、短くほつれた白い三つ編み。
わたしはイーリアレの二の腕に頭を預け、瞳を閉じて、
「参りましょう。お願いします、イーリアレ」
「はい、ひめさま」
ゼフィリアには村から続く階段が三つあります。
海屋敷に続く石段、蔵屋敷に続く階段。そしてもうひとつ、ゼフィリアに唯一あるお山の頂上、島主の庵に続く大きな階段。
この世界にも礼儀はあります。大切なものを運ぶ時は急がない。大地を踏みしめ、ゆっくりと歩く。それがこの島の、この世界の人たちの礼儀。
そして、大切な場所を移動するときは急がない。大地を踏みしめ、ゆっくりと歩く。だからゼフィリアの人はよほど急いでいることがない限り、島主さまの庵に続く階段を歩いて登るのです。
一直線に頂上まで続く、白く大きな石の階段。その石段を、イーリアレは一段一段、ゆっくりと上がっていきます。
イーリアレの腕の中、肌に感じる夕焼けの光。
ゆっくり空に近付いていく、風の気配。
お山の中腹を越え、もう少しで頂上というところで、イーリアレがその足をぴたりと止めてしまいました。わたしは不思議に思って瞼を開き、
「どうしたのですか、イーリアレ」
「もうしわけありません、ひめさま。もう、うごけません……」
かたかた震え始めた小麦色の肩。
荒くなっていく彼女の吐息。
「わたしはひめさまのおそばで、いっしょうおいしいおもいがしたいのです……」
「イーリアレ、言い方……」
零れてくる、ぽろぽろと。
「おねがいです、ひめさま……」
わたしの体に、わたしの胸に降り注ぐ、温かな雫。
それはイーリアレから感じる、初めての感情。歌う時以外鉄面皮だったイーリアレが初めて見せる、初めての顔。
「わだじをひどりにじないでくだざい」
ぐちゃぐちゃに歪み崩れた、彼女の泣き顔。
ああ、表情筋、死んでなかったのですね。出来れば、笑顔を見たかったのですけれど……。
わたしは涙でぐずぐずになったイーリアレの頬に右手を添え、
「大丈夫ですよ、イーリアレ。ゼフィリアは、あなたをひとりぼっちになんかさせません」
「ぴめさば……」
「さあ、イーリアレ」
「ふぐ、う、ううぅ……」
イーリアレはうずくまるようにわたしを抱え、それから胸を反らし、
慟哭。
草を薙ぎ風を震わせ、雲を散らす。空に響き渡る、獣のような咆哮。言葉ですらない、ただ感情を乗せただけの、叫び声。
震える体。震える世界。
びりびりと体の芯まで響く、彼女の激情。
声を上げ、泣きながら、彼女が山を登っていく。
ふらふらな足取りで、一段一段、わたしを空へと運んでいく。
おかしなイーリアレ。
片手で大岩を持ち上げ、小さなお山なら文字通りひとっ跳びで飛び越えてしまう。それがこの世界の人間。いつもなら、枯れ枝のようなわたしの体を運ぶなんて、小指でひょいなはずなのに。
わたしは酷い女の子なのです。
ぼろぼろになって泣き叫ぶイーリアレを見て、ほんの少しだけ、
嬉しいと、
そう思ってしまったのです。
ゼフィリアのお山の頂上。
この島で最も空に近い場所。
南海らしい木々に囲まれた、小さなお庭。石段から続く石畳の先、開けた場所の中央に建つ、東屋のような庵。
島主の庵。
ゼフィリアの様式通りに組まれた梁や桁、石の天井。壁の無い、白い柱に囲まれた小さな空間。イーリアレはその床の上に、わたしの身体を横たえました。
沈みゆく太陽。お山のてっぺんに吹く風の音だけが聞こえる、無言の時間。イーリアレの影に抱かれながら、わたしは彼女を見上げ、
「イーリアレ、わたしと約束して欲しいことがあります」
「なんなりと。なんなりと、ひめさま……」
がくがくぶんぶん首を振るイーリアレに微笑み、
「あなたはこれから、沢山の人たちの間で、沢山の言葉を紡いでいくのです」
傷跡だらけの左手を伸ばす。
わたしの全てを与えた、わたしのお側付きへ。
この世界の誰よりも近くにいた、わたしの半身へ。
「わたしが起きたら、あなたの言葉を聞かせてください。あなたの歌を聞かせてください」
手の平に感じる柔らかな頬。温かな雫。
「あなたの物語を、わたしにください」
私の左手を包む、イーリアレの両手。
わたしとイーリアレ、二人の熱。
「それは、きっとすてきな物語」
わたしは左手にイーリアレを感じながら、胸の上で右手を開きました。そこにあるのは、紫色の小さな石。
この世界は行き止まり。
フハハさんたちがシグドゥを撃滅させたとしても、わたしたちこの世界の人間の生態が変わらない限り、滅びは必ずやってくる。百年後か千年後か、それは分かりません。
わたしに出来ることは、この世界の今を維持することだけ。やがて来る終わりを、出来る限り先延ばしにすることだけ。
わたしがかなめ石に仕込んだのは、自身を操作し治療するための、自動生成プログラム。肉が弱いとはいえ、わたしもこの世界の人間。その活動が追い付いていないだけで、わたしの体にも自身を回復させる力があるのです。
そう、クーさんが言った通りのこと。
その力を心臓の回復に充てるため、極紫の力でわたしの生命活動をぎりぎりまで抑え、休眠状態にする。お母さまにいただいたわたしの身体が、わたしの心臓を回復させるまで、プログラムに従って眠り続ける。
そして、眠りながら石を作る。
わたしが成るのは、限りなく屍に近い石作りの生産器。人が生きるために必要な石を作り続ける、人の形をした願望器。
胸の上、紫色に光るかなめ石。
わたしはほんの少しだけ息を吸って、
「思考速度切り替え、圧縮言語解放。記述呼び出し」
自動的に動く、わたしの口。自動的に紡がれる、わたしの言葉。
「解凍完了、機能確認。構築開始」
かなめ石の指示で両手から作り出される六種の石。赤、青、黄、緑、白、灰。六色の石がわたしを取り巻き、わたしの身体がふわりと宙に浮かんでいく。
わたしの作ったプログラムが、わたしの思考を、わたしの身体を占領していく。
「ひめさま! ひめさま!」
イーリアレの手から引き抜かれる、わたしの左手。
どんどん遠ざかっていく、イーリアレの呼び声。
赤い夕日が沈む水平線を臨みながら、わたしは頭で考える。
わたしの頭の中には、別の人の人生があります。
わたしにはその人の顔も名前も分かりません。
でも、わたしにはその人の記憶があるのです。
地球の、日本で生まれ育ち、そして死んだ人の記憶。
わたしのこの言葉が、その証明。
わたしという意識に付随したその人の記憶という情報は、わたしが生まれたその日から、わたしに自己を認識させました。
その模倣子が、わたしの自我を形作りました。
記憶が感情によって想起される情報であるならば、その人はもう一人のわたしと言ってもいいのかもしれません。
この記憶はわたしの自我を形作った、いわばもう一人のわたし。
だけど、わたしの一部であるはずのこの記憶は、答えをくれたことがありません。
でも、それでいいのです。
だって答えを見付けたのは、わたし自身だから。
わたしはアンデュロメイア。
千風のヘクティナレイアの娘にして、ゼフィリアの島主。
わたしはアンデュロメイア。
千風のヘクティナレイアの娘にして、ゼフィリアの島主。
わわわたわたしわわわわ回路切り替え、自動生成記述に則り更新開始。思考速度上昇、優先順位確認。第一位、生産機能確認、構築終了。段階移行。第二位、戦闘機能確認、構築準備。段階移行。第三位、回復機能確認、構築完了。段階移行。
計数開始。




