119 わたしの夢は(3)
『お-っほっほっほ! おーっほっほっほ!』
音飛び石の向こうから響き渡る、お上品なおほほ笑い。
お布団に横たわるわたしの額に浮かぶ、ひと粒の冷や汗。
「ええーと、ジュッシーお姉さま。それでは合点していただけましたでしょうか?」
『勿論、合点不可能でしてよ!』
「ううーん!?」
今わたしは各島の責任者と島主的なあれこれの連絡中。通話相手は勿論、ホロデンシュタック本島に戻ったミージュッシーお姉さま。
『分からなかったら当ッ然喧嘩ですわ!』
「いえ、ジュッシーお姉さま。声だけではその、どうにもならないのではと」
『お-っほっほっほ! おーっほっほっほ!』
言葉を話しているはずなのに全く話が通じない、久方ぶりの感覚にわたしは仰向け状態でド戦慄。ううっ、ジュッシーお姉さま、やはり何て手強いお方! さっきから完全にジュッシーお姉さまのペースで、一向に話が進みません!
いいえ、落ち着いて、アルカディメイアでジュッシーお姉さまの悩みを聞いた時のことを思い出して。そう、相手の立場で考えるのです。
わたしは小さく息を吸って深呼吸。そして、
「ジュッシーお姉さま、それでは何が分からないのでしょう?」
『それは勿論、木のことでしてよ! わたくしどの木を選べばいいのか、全く分かりませんの!』
「うん? うん?」
木!? 木の立場って何です!? これはもういよいよもって分かりません! ううっ、お母さま、ホウホウ殿! わたしに勇気を与えてください!
お布団の上でガクガクしだしたわたしに、ジュッシーお姉さまはトドメとばかりの明るいお声で、
『それに、弱ったシュトラの隣に何故わたくしがいないのか、わたくし全ッ然分からないのですわ!』
「え? それでは、ディーヴァラーナには行く気マンマンなのですか?」
『それは当ッ然ですわ! すぐにでもディーヴァラーナに飛んで行きたくってよ!』
「え、あ、飛行許可はちゃんと取ってくださいね」
何だかよく分かりませんが、ジュッシーお姉さまの心は既に決まっているようで、安心しました。通話の目的は何とか達成出来たようです。
『お-っほっほっほ! おーっほっほっほ!』
ほっとしたわたしの思考を断ち切るように、ジュッシーお姉さまはおほほと笑い、
『分からないのはあなたの方でしてよ!』
「え? わたし、ですか?」
『ええ! 聞こえる声はへんにゃり弱々しいのに、あなた自身はがっつり強く感じるのですわ!』
「それは……」
驚きました。いえ、そうでした。アルカディメイアで得物作りをしていた時もそうでしたが、ジュッシーお姉さまはちょっと感性がズレているだけで、その洞察力はグンバツな方なのです。
わたしはそのことにちょっとおかしくなって、
「あんまり大丈夫ではないと思いますよ、ジュッシーお姉さま。わたしの状態は、先ほどお話した通りですから」
『お-っほっほっほ! おーっほっほっほ!』
遠く北の海、ホロデンシュタックから届くひと際明朗なおほほ笑い。
『あなたは千風のヘクティナレイア様の娘、ゼフィリアのアンデュロメイアでしてよ!』
ジュッシーお姉さまは多分、音飛び石の向こうでビシッと手をかざし、
『弱くったって筋肉ですわ! あなたなら絶対大丈夫でしてよ!』
「では、各島への連絡は……」
「はい、滞りなく」
ゼフィリアは海屋敷の私室。
クーさんが海に発って、数日後のお昼過ぎ。
お部屋の中空には大量に浮かべられたかなめ石と気込め石。わたしはお布団に横になりながらそのひとつを操作し、枕もとに座るナノ先生へとゆっくり飛ばしました。
石を受け取ったナノ先生はめちゃんこ緊張したような面持ちで、
「それはホロデンシュタックも、でございますか?」
「ええ、ジュッシーお姉さまは早晩ディーヴァラーナに赴くかと」
「流石でごさいます……」
苦渋ッ!!というお顔でまたひとつ石を受け取るナノ先生。うううーん、やはりジュッシーお姉さまの脳筋ブッ飛びっぷりにはナノ先生も手を焼いていたのですね……。
ナノ先生の傍らには白く長い気込め石の箱。紫色の布が敷き詰められたその箱に、ナノ先生は気込め石をひとつずつ並べていきます。
今わたしが作っているかなめ石と気込め石はディーヴァラーナで収集した陸のデータ。極紫の実態とその性能開示のため、そして再生を果たした貴重な陸の資料を再現し、アルカディメイアで保管してもらうためのもの。
「距離のある思いやりは逆効果になってしまいそうで。少しズルイやり方ですが……」
「迂遠なやり方が必要な時もありましょう。我々はどうも直接的に過ぎるのです」
そう、ディーヴァラーナにはまだひとつ懸念が残っているのです。それは世界と連絡を取るべき島主の問題。島主代理であるシュトラお姉さまは、自分にその資格無しと依然ふさぎ込んだままなのです。
連絡自体は代理の代理の方がやってくれているのですが、やはりこのままではいけません。
あんなことがあっても、いえ、だからこそシュトラお姉さまには島主の任を負ってもらいたいのです。そんな訳で、シュトラお姉さまと仲良しで人望厚いジュッシーお姉さまに協力をお願いした次第でして。
そこで、わたしはジュッシーお姉さまとの会話を思い出し、
「しかし、木が分からない、というのは何のことなのでしょうか」
「それはホロデンシュタックの杖のことでございましょう」
「杖、ですか?」
「ええ」
ナノ先生の教えてくれる、ホロデンシュタックの飛行技術。
ホロデンシュタックの女性は森の木から杖を作り、その杖にはがね石を頂き跨ることで飛行する。はがね石を使った飛行技術に関しては、ホロデンシュタックが一番速度を出せるのだとか。
「なるほど、飛行に必要な道具を外部資源に頼ることで、翔屍体になる確率を抑えているのですね。それは思い付きませんでした。しかし、うーん、ホロデンシュタック領の図書蔵にはその資料が無かったように記憶しているのですが……」
「飛行杖はホロデンシュタックの秘伝のようなもの。そのことを知ったとして、森から木を切り出し、はがねを使う文化の無い島では真似できないでしょう。それに、あの島の者は人に説明できるお脳を持ち合わせてございません」
「うぅわ、すっぱり」
しかし、自分と波長の合う木が見付からないと中々上手くいかないようで、こればかりはジュッシーお姉さまの感覚に任せる他ありません。
「あの娘ならば大丈夫でしょう。何をするにしても不思議とその選択を間違えない、野性的な勘で物事を把握することに長けていますから」
「ええ、そうですね」
暗く沈むシュトラお姉さまにとって、ジュッシーお姉さまの明るい笑顔は何より代えがたい原動力になってくれる。ジュッシーお姉さまならば、きっとディーヴァラーナを立て直してくれるに違いありません。
ナノ先生はまたひとつ石を受け取り、丁寧な手付きで箱に並べ、
「他の島の者はなんと?」
「特に異論や反対はありませんでした。ヴィガリザさまには、怒られてしまいましたが……」
ジュッシーお姉さまとのおほほな通話前、わたしは音飛び石で昼の島主を集め、ゼフィリアとわたしの事情をお話ししました。そのことで様々な意見を頂いたのですが、
『強き者は与える者。その子の身体をどーにか出来るッてヤツ以外は、黙ッてな』
そう言って、ヴィガリザさまは他の島をぴしゃりと黙らせたのです。でも、
『アッタシもアンタにゃ何も出来ない、だーら反対しないダケよ。納得はしてないかんね』
と、すぐに釘を刺されてしまい、やっぱりあの人には敵いませんと心底思い知らされたのです。
中空に浮かぶ石を操り、ナノ先生へと送る作業。
ひとつ、またひとつと石を積み上げる、ゆったりとしたお役目。
お話がひと段落したわたしは、データの保管作業を進めました。
紫色の石を中心にゆっくりと廻り浮かぶ、白い石。かなめ石を中心とした惑星系のような、小さな光の群れ。
「きれいですね……」
石を見上げながら、わたしは言いました。
石は機能と目的を持って生み出されるもの。いつからかそのことに囚われ、石そのものが持つ輝きを忘れてしまっていたのです。
「何かが出来るようになると、その何かを忘れがちになる。新しい可能性を見付けると、今まで築いたものをおろそかにしてしまう」
わたしが初めて石を作り、石作りに打ち込んだ二週間。裏庭の森、木漏れ日を縫って飛び舞う七色の光。万華鏡のような、あの風景。
「分かっていた筈なのに、わたしは自分が一人だと思い込んで、孤独に浸って……。何でも一人で成し遂げないと意味が無い、そう思い込んで……。周りを見渡せば、そこに人がいると気付けたはずなのに……」
いつも一緒だったイーリアレ。ディナお姉さまにシオノーおばあさん。今は枕もとにナノ先生。そして、不意に思い出す。フハハさんが渚でくれた、あの言葉。
『後ろを見よ』
ひとつ、またひとつ減っていく、石の群れ。お部屋に浮かぶ最後の石。紫色のかなめ石をナノ先生の手に送り、わたしはその作業を終えました。
「あなたの母親は、あなたのことを信じていました……」
わたしが顔を向けると、ナノ先生は石をしまい、箱に蓋をし、
「あなたに胸を張って生きて欲しい。この世界に生まれた、当たり前の人間のように。それが、あの娘の願いでした」
海から山に上がって吹く、潮の香りを含んだ風。
軒下の風鈴がきりんと鳴らす、澄んだ音。
「あなたの考えはこの島に、この世界に必要なものになる。そのことに真っ先に気付き、みなに働きかけたのは他でもないあなたの母親、ヘクティナレイアです。あなたの考えを世界に認めさせる、島主として奨励し、あなたを持ち上げれば済むことでしたが、あの娘はそれをしませんでした」
「島主だからこそ、身内贔屓は許されない……」
「ええ」
ナノ先生は背筋を伸ばした、とてもお行儀のよい正座で、
「まず学問として、研究される場を作ること、人に押し付けられたものではなく、学問として認めさせること。あなたならば、きっとその場で結果を出せる。ヘクティナレイアは、そう信じてあなたをアルカディメイアに送り出したのです。結果、あなたの行った講義は世界中の人間の生活を変え、島主の負担を軽減させました」
それから、ほんの少しだけ、可笑しそうに眉を上げて、
「似たもの親子だったのですね。母親は娘の命を繋ぐことに、娘は母親の命を繋ぐことに尽力したのですから」
南海らしい元気な太陽と、海の香りを含んだ風。
すだれを通り抜けて入ってくる、島の空気。
「あなたは……、母親を恨んでいないのですか?」
ナノ先生はすだれの外、太陽の光射す修練場に目を向けながら、言いました。
『恨んで、憎んでくれていい。お前さんからすれば、どうでもいいクソ話だ』
かつて、スナおじさまにもそう言われたことがありました。
わたしはナノ先生の視線を追うように、すだれの外に顔を向け、
「考えたこともありませんでした……」
何処までも続く、青い空。
「わたしのことは、全てわたし自身の責任だから……。それに、わたしはゼフィリアが、この世界が大好きなのです。この素晴らしい世界で生きるものとして相応しくありたい、それがわたしの望みでした」
悠然と流れる、白く大きな雲の山。
「わたしの夢は、当たり前になることでした」
そう、お母さまの願い通りのこと。
「海で泳いで、イーリアレや同い年の子と友達になって、遊びたかった。気込め石で服を編みながら、みんなと一緒に弦を弾いて、砂浜に寝転がって、青い空の下でお昼寝をしたかった。そして自分の力で魚を獲って、自分でお料理をして、みんなに食べてもらって、そして……」
お母様と同じ、海守になりたかった……。
すだれを揺らす、南海の風。
きりんと答える、小さな鈴の音。
ナノ先生は外の景色からわたしに視線を戻し、
「あなたは本当に手強い生徒です」
膝の上に置いた手をぎゅっと握り、
「五十年です。五十年間、私はアルカディメイアの、ゼフィリアの屋敷番として務めてまいりました。学問の島で積み重ねたその知識がありながら、少女一人救えない。こんな小さな少女の夢ひとつ叶えることができないとは……。あなたと向かい合うたびに、私は自分の無力を思い知らされるのです」
そして、とても悔しそうなお顔で俯き、
「本当に酷い生徒……」
ナノ先生は何かを飲み込むように息を吸い、姿勢を正しました。それから、わたしの両目を真っ直ぐ見据え、
「決意は変わらず、でございましょうか」
「はい、ナノ先生」
「では、それを理解した上で、お願いがございます」
ナノ先生の厳しく優しい、青い瞳。
ゼフィリアにたった一人の、最高の先生。
「個人として生きる喜びを放棄してまで、世界に尽くす道理はございません。どうか、考え直してくださいまし……」
わたしはナノ先生の青い瞳から目を逸らし、ぼんやりと天井を見つめ、
「無駄だったんです……」
お風呂で使う香りの油。好きな食べ物や腰巻の着こなし。いつかお母さまと、みんなと同じになれますように。そう願って真似し続けてきたもの。
憧れて、真似て、追いかけて、全部無駄だったもの。
弱くても同じ筋肉。ジュッシーお姉さまはわたしのことをそう言ってくださいました。でも……、
「わたしはお母さまや、この世界に生きる人とは根本的に違うのです。だから、わたしはみんなと異なる戦い方をせねばならないのです」
「メイ様……」
掛布代わりの白い着物からはみ出した、わたしの左手。その左手を両手で包み、ナノ先生は折れるようにうずくまってしまいました。
ぽたぽたと肌に落ちる、雨のような感覚。
傷跡だらけの左手に流れる、熱い雫。
ナノ先生は、結構泣き虫さんなのです。
ナノ先生の小麦色の両手。その気になればわたしの手なんてくちゃりと潰せてしまう、強い肉。わたしとは違う、普通の肉。
でも、伝わってくる温かさは、きっとわたしと同じもの。わたしがナノ先生の温もりを感じるように、わたしの熱はナノ先生に伝わっているのでしょうか。
今のわたしに出来る、たった一つのこと。
石になら言葉を込められる。だから、石に込めて言葉を贈る。
「ここではない何処か。わたしの知らない誰か……」
もし、言葉に温もりが備わるのなら、
「わたしにはまだ、伝えたいことがあるのです」
青い空と青い海。白い砂浜と南海らしい緑の木々に囲まれて、わたしたちはのんびりのほほんと暮らしています。




