109 遺された人々(2)
日が昇ったばかりの朝の砂浜。
紺色の海が橙色に変わる、朝焼けの時間。
浅瀬には白い小舟に乗せられた一人の女性。
長い金髪に小麦色の肌。
着物のような胸巻と腰巻。
わたしのお母さま。
砂浜に集まっているのはゼフィリアの女性たち。みな涙を流し、浅瀬に浮かぶ船にお別れを告げています。
「それじゃあ、いいね?」
浅瀬に浸かり、舟の傍に立ち、みんなに確認を取るシオノーおばあさん。シオノーおばあさんはそれから紐を作り出し、お母さまの右手首に何かを巻き付けました。それはわたしがお母さまに贈った、調理用の火込め石。
その光景を、わたしはイーリアレと手を繋ぎながら、ただ眺めていました。
シオノーおばあさんが浜辺に戻ると、ディナお姉さまが右手に水込め石を纏わせ、船を沖へと流し始めました。
やがて、
その影が小さくなった頃、船がぽちゃんと姿を消しました。きっとそのように作られた船だったのでしょう。
でも、どうして? ディナお姉さま。そんなことをしたら、お母さまが……。
イーリアレの手を離し、ふらふらと浅瀬に足を踏み出すわたしを、シオノーおばあさんがひょいと持ち上げ、
「姫様! いけません、姫様!」
「離して! 離してください、シオノーおばあさん! あれじゃ、お母さまが溺れてしまいます!」
どうして? だって、だってまだわたしは……。
ディナお姉さまが石を作ろうとしたわたしの右腕を掴み、
「メイ、ダメよ! レイアお姉様は、もう……!」
「離してください! だって、だって! わたしはまだ!」
だって、当たり前のことだったから。お母さまが傍にいてくれることが、お母さまが毎日を生きていることが。
わたしはシオノーおばあさんに抱えられながら、残された左手を伸ばしました。海の彼方、エメラルドグリーンの水平線に向けて。力の限り、精一杯に。
朝日の昇るゼフィリアの砂浜。
潮風と波の音だけが聞こえる、静かな朝。
言葉を贈る機会なんて、いくらでもあったはずなのに。
「わたしはまだお母さまに! 大好きって、言ってない!」
すだれの向こうに聞こえる、夕立の音。
お部屋を照らす、火込め石の灯り。
広い広い自室の真ん中。わたしは小さな木の文机に向かい、巻物に書かれた数字を追っています。
お母さまが亡くなって、もう三日。
ただ生きている。数字を覚えて、記して、積み上げて。その繰り返し。ただ記録し続ける。そんな毎日。
わたしが文字を追っていると、修練場側のすだれがざらりと上がりました。お役目を終えたシオノーおばあさんが帰ってきたのです。
「只今戻りましたよ」
「おかえりなさい、シオノーおばあさん」
わたしが文机から顔を上げて返事をすると、シオノーおばあさんは肌に付いた雨粒を水込め石でぱっぱと蒸発させ、
「姫様、その、大丈夫なんですかい……?」
「はい」
わたしは頷き、答えました。
シオノーおばあさんはわたしの横に座り、努めて明るく振る舞い、何か話題を見付けようとして、
「そうそ、姫様。水なんですけどね、ホロデンシュタックじゃ気泡の出る水を作ってるそうで。蔵にね、あれを酒に混ぜたいっていう娘がいるんですが、どうしたらいいんでしょう?」
「炭酸水ですね、ええと……」
見せた方が早い、そう思ったわたしは右手で石を作ろうとして、
「あれ……?」
すだれの外に聞こえる激しい雨音。
宙に浮かび、すんとも鳴らないはがねの風鈴。
動きを止めたわたしを、シオノーおばあさんは怪訝なお顔で、
「姫様、どうされました?」
ばたばたと石畳を叩く、夕立の音。
傷跡まみれの歪な右手。
「石が……」
わたしは両手を開き、シオノーおばあさんをもう一度見上げ、
「石が、作れないのです……」
厚い雲の下で色調を変える、森の自然。
濃い緑と茶色、影の差す黒の世界。
あれから一週間。
わたしは石を作ろうともがき続けました。フハハさんから石作りを教わったあとのように、寝食を忘れ、頭から、体から言葉を絞り出すようにして。どうにか石を作ろうとあがき続けました。
でも、無理でした。わたしは石を作れなくなってしまったのです。
夕立の降る小さな森。
土と草、雨の匂い。
くしゃりという柔らかい草の感覚を足の裏で感じながら、わたしはお屋敷の裏庭を歩いています。
『大丈夫ですよ。腕が治れば、また作れるようになりますさね』
そう言って、シオノーおばあさんはわたしの髪を優しく撫でてくれました。
でも、どうしても作れない。どうやって作っていたかも、もう思い出せない。それくらい当たり前になっていた、わたしの一部。
石作りはわたしの全て。石作りはわたしが人として認められるための必要最低条件。肉の弱いわたしがこの世界で生きていくための必須技能。
自分が透明な存在になってしまったような、虚ろな感覚。肌を打つ雨を他人事のように感じながら、わたしは木々の間を進んでいきます。
雨を受け葉を揺らす南国らしい植生の木々。高い高い幹の上、樹冠の辺りにだけモサッと葉を茂らせて、その身を小さく震わせるその姿。
わたしが石作りを覚えた、小さな森。
雨粒に重ね、ぼんやりと思い出す。きらきらと輝きながら森を飛ぶ、わたしの生み出した六種の石。
わたしがひたひたと森を歩いていると、次第に木々が開け、視界に違う色が差し込んできました。
それは、昏くうねる空の色。
わたしは森の端、お山の斜面までやってきてしまったのです。少し先には切り立った崖があり、その下からぶわっと強い風が吹いています。
わたしが初めて石を作った場所。
自然と、わたしの体はそこに向かいました。あと一歩踏み出せば、間違いなく落ちてしまう。石を作れなくなったわたしが落ちたら、間違いなく死んでしまう。
そんな切り立った崖の端に。
わたしが崖の上、雨と風を受けながら佇んでいると、
「ひめさま」
振り返れば、そこには銀髪を雨に濡らした、いつも通り無表情のイーリアレ。
「イーリアレ……」
イーリアレの姿を見て、わたしは俯き、
「ごめんなさい、イーリアレ。わたしには、もう分からなくなったのです」
そう、分からなくなってしまった。
石作りはわたしが人として認めてもらうための最低条件。それが出来なくなってしまった今、どうやって生きていけばいいか、分からなくなってしまったのです。
でも、
死にたくもない。生きたくない訳ではない。
だから、分からなくなってしまったのです。
「ごめんなさい。どうして石が作れなくなってしまったのか、分からないのです」
「わかります」
「そう、分から……、ふえ?」
イーリアレの超意外な返答に、わたしは体ごと振り返りました。真っ直ぐ向かい合ったわたしに、イーリアレは、
「しかし、ひめさまはそのままでもよいとおもいます」
「でもそれでは、お役目が……」
「いいえ」
イーリアレは形のいい顎をふるふると揺らし、
「ひとはいきているだけで、じゅうぶんなのです」
この世界の人は一度着想を得ると、それを独自に進歩させることが出来る。お料理や、わたしが伝えたことはこの世界に根付き切ってしまった。だからこの世界に、わたしはもう必要ないのです。
それはイーリアレにとっても同じはず。わたしがイーリアレに与えられるものは、もう殆どないはずなのに。
それでもいいと、イーリアレは言っているのです。
イーリアレは石作りを覚える前のわたしを知っている。あの頃の、何も出来なかった頃のわたしでいいと。でも、それは……、
「でも、イーリア……」
言いかけ、一歩進もうとしたわたしはつるりと岩肌に足を滑らせ、バランスを失い、
「れ……」
重苦しい灰色の雲。濃紺に染まる海。回転する視界。宙に投げ出されるわたしの体。
「ひめさま!」
イーリアレの叫び声。風を切り、落ちていく。海に叩き付けられる寸前、馴染みのある体温に包まれ……、
全ての音が遠くなる衝撃。
半身を強く打ち付けた痛みと、喉に流れ込んでくるしょっぱい海水。わたしはその中で手をもがき、
「ぴはっ! けほっ、うにゅっ!」
「だいじょうぶですか、ひめさま」
「ふぁい、ええ」
「とびます」
言った途端イーリアレが海中で筋肉し、わたしたちはあっという間にもといた場所へ。筋肉。
「ふえ、おぷっ、ふええ……」
「だいじょうぶですか、ひめさま」
「ひゃい……」
イーリアレはわたしの金髪を撫で付け、両手を握って立たせてくれました。そして、
「ひめさまは、なぜいしをつくりたいのですか?」
「わたしは、どうして石作りを……」
海に落ちたショックが抜けないまま、わたしはイーリアレの言葉を繰り返しました。求められなければ、生きている意味はない。わたしとは全く逆の、我の思考。
目の前にはお屋敷の裏庭。南国らしい木々がうっそうと茂る、小さな森。わたしが初めて石を作った、わたしの秘密の修練場。
あの二週間で、わたしが打ち込んだこと。
知ったから作った。作れたから作った。キラキラ光る虹のような石がきれいで。わたしの肉と違って思い通りに動いて、そう、自分に何が出来るのか試したくて。
わたしは、世界の色を変えることが、
「石を作ることが、本当に楽しくて……」
その言葉で、イーリアレの雰囲気が変わりました。そして、
「ひめさまはおしえてくださいました。むりなことばをこめると、いしはうまれてこないのだと」
それはわたしがイーリアレに教えたこと。イーリアレと一緒に学んだこと。わたしに作れるものがイーリアレにも作れるようにならないか、何度も何度も試して、分かったこと。
「ひめさまがいしをつくれなくなったのは、ひめさまがじぶんのことばをしんじられなくなったからです」
遠ざかる雨音。イーリアレの解答を聞き冷静になった思考で、わたしは頭で考えます。
それは、言葉の機能。
無理な言葉を込めようとすると、石は生まれてこない。確かに、わたしが信仰を失った言葉を込めようとしても、石が生まれる筈がありません。では、わたしは今までどんな言葉を込めてきたのでしょうか。
考えて、特定する。
わたしの中で機能を失った言葉。
それは、「ずっと」
ひいお爺さまの石、ホウホウ殿の石にも込められていた言葉。
「ここよりずっと、永遠に」
その言葉はわたしの中で、お母さまと共に亡くなったのです。永遠なんて信じられるほど、子供ではなくなってしまったから。
「ああ……」
胸に落ちる、深い納得。
耐用年数を伸ばすために、作りをタイトにするために、不要となる情報は極力省いてきたつもりでした。それでも、わたしはその言葉を自分でも知らないうちに、石に込めていたのです。
わたしも、「ずっと」を願っていた。
もう一度石を作りたい。でも、これはわたし自身に掛けられた無意識のロックのようなもの。その鍵を開くには、どうしたらいいのでしょうか。
わたしはイーリアレの手を離し、胸の前で手を重ねました。
計算も何もない。目を閉じて、ただ願う。石作りの原理は曖昧なもの。わたしが本気で願ったら、石はそれを叶えてくれる。
手のひらに集まる熱。肌から放射されていく、微かな熱と光の粒子。わたしは崖際の原っぱに立ちながら、頭の中で思い願いました。
ええ、「ずっと」という言葉を仕込まないなんてありえません。だから、わたしは願いを込めて付け加えるのです。
そうして、わたしは目を開く。傷だらけの手の平の上、渦を巻いて回転し、収束していく光の粒子。
その言葉は、「きっと、ずっと」
手のひらから放たれる、一瞬の強い光。キンッと鋭い金属音をさせてわたしの目の前に現れる、緑色の小さな石。
機能は初めて作った時と同じ、つむじ風。
わたしは右手に石を纏わせ、空にかざしました。すると、重苦しい雲が一瞬で晴れ、雨が止み、雲間から夕暮れの光が差し込みました。
これがソーナお兄さんの技の種明かし。規模と出力は全く及びませんが、指定座標に烈風を出現させ、雲を散らしたのです。
仕組みは速翔けと同様のもの。風を放つ力の投射ではなく、遠距離に風を作る力の遠距離配置。
風がちぎった雲の隙間から漏れる、光の梯子。
傷だらけの手のひらを、光にかざす。肉を透かして見える、内部に流れる真っ赤な血潮。肌を落ちる雨粒と、鼻腔をくすぐる潮の匂い。体に当たる海風が髪を吹き上げ、遠く空の彼方に消えていく。
全身で感じる、この世界の息吹。
わたしは腕を下げ、その手を差し出し、
それから、もう一度だけ瞼を閉じて、
「ありがとうございます、イーリアレ……」
「姫様……」
お屋敷の裏庭に戻ると、森の入り口にシオノーおばあさんが立っていました。
草の上、手を繋いで立つわたしとイーリアレを、シオノーおばあさんは心配そうに見つめています。
わたしがイーリアレと一緒に頷くと、今度は泣きそうなお顔になって、それから無理に笑おうとして、びしょ濡れの腕を開いてくれました。
わたしとイーリアレは手を繋いだまま、並んで前へ。シオノーおばあさんの胸の中に飛び込みました。
わたしの背中を、イーリアレの背中を、優しく包み撫でてくれる、シオノーおばあさんのゴリラな両手。
雨に混じり、落ちていく。
わたしの頬を伝う、一粒の雫。
きっと、これが生きるということ。
悲しみを抱えたまま、陸で喜びを忘れぬよう、笑顔と共に日々を過ごす。それはとても難しいことのように思います。
それでも、何を失っても、何が欠けていても、
昨日と今日を、ただ繋いでいくために。
「ご心配お掛けしました、シオノーおばあさん。もう、もう大丈夫です……」




