スリルとショックとサスペンスな就職。
――――――楽しい事が、好きだ。
楽しい事や、面白い事がすき。
愉快な事や、痛快な事がすき。
例えばさ、危なくて短くて楽しい人生と、安全だけど長くてつまらない人生と、君ならどっちを択ぶ?
俺なら断然前者だな。
面白おかしく生きられるなら、明日死んだって満足だ。
今この一瞬が全て。
だって、どうせ人生一回きりなんだし。
面白くなきゃ、生きてる意味なんてないでしょ?
人生楽しまないと損だよ?
――――――遊興こそが人生だ。
「何か、想像以上って感じっスねえ」
町の様子をぐるりと眺めた青年は、しみじみと呟いた。
その声音には感嘆とも、はたまた単なる揶揄ともとれる感情が入り混じっている。
この国は、霧の多い国だ。
年中、昼といい夜といい濃霧が立ち込め、雨が降りこめることの多い島国。それはかつてこの国が十世紀以上も昔に世界に覇を唱えていた頃と何ら変わらない。昔の栄華など知る由もないが、今のこの国が寂れて疲れ切っていることは、この末端の町からも伺えた。
つい数分前に職場の先輩となった二人に連れられて、自分がこれから守ることになる街を値踏みしていた青年は、新人らしからぬふてぶてしさで肩を竦める。
――――――美しい青年だった。
一言で言って、眉目秀麗。
さらさらと揺れる目映い金の髪。
長めに伸ばした前髪から覗く、群青色の眸。
すらりとした身体つきと、整った顔立ちはモデルや俳優だと言われても納得してしまうほどだ。しかし、彼の職務はそういった類のものではない。
その均整の取れた身体を包むのは青灰色の制服。
それは、この国では警官隊の制服を意味している。
警官。
モデルでも俳優でもなく、それがこの美しい青年に与えられた職務だった。
彼の名前はキリ・アルストロメリア。
彼は本日付でこの町――――――イーストエデンの西区担当に赴任してきた新任警察官なのだった。
後輩の暢気な感想に、無感動に応じたのは灰色の髪の青年だった。
「はい、君のチンケな想像力ではとても賄いきれない惨状でしょう」
彼の名前はシスル・アイリス。
先述の通り、色素が抜け落ちたような灰色の髪が印象的な青年だ。くすんだ灰色の髪とは対照的な鮮やかな藍色の眸。キリよりは大分小柄で、背も低い。こう見えて警官歴九年のベテランである。
先輩の毒舌に、キリはくちびるを尖らせる。
「・・・・・出会って五分かそこらで、俺の何を知ってるっていうんスか!?」
「その煌びやかな頭には脳みそなんて小鳥のエサほどしか内蔵されてないんじゃねえの? ・・・という、僕の予想と希望です」
「予想は兎に角、希望!?」
「イケメンのくせに頭もいいなんて生意気です。常道に則ってバカキャラでお願いします」
「そんな理由で俺のキャラ付けしないでほしいっス!」
「まあまあ、あんまり新人苛めんなよ、シスル。あんまり脅すと、また辞めちゃうよん?」
そう、二人の間に割って入ったのは、気立てのよさそうな青年だ。二人よりは年上と思しき青年は、けらけらと笑いながらやんわり仲裁に入る。
彼の名前はジニア・オーキッド。
警官隊に入って六年目のベテランだ。シスルとは、イーストエデンに赴任してから四年の付き合いになるそうだ。二人はイーストエデンに赴任してきた新任警官であるキリを、上司の元へと連れて行くために連れ立って歩いてくれているのだ。
彼は自分より背の高い後輩の、綺麗な顔を見上げるように覗き込むと、呆れたように苦笑した。
「まあ、シスルの気持ちもわかるけどねー。お前、警官隊の中途入社試験、実技トップだったんだろ? もっといい赴任先、希望出せただろうが」
「んー? まあ、そうっスけどね」
謙遜など微塵も見せない後輩に、ジニアは苦笑した。
「それにしても物好きだよなあ、わざわざこんなトコに望んで来るなんてよ」
――――――そうジニアが告げたのには理由が在る。
この国は円い。
隔壁都市国家ノイエ・バビロニア。その円い国土は、五つの区分けによって成立している。
中央に堂々と坐するは首都――――――セントラル。
その首都を中心として、円を描くようにして四つの都市が展開している。
第一都市、ノース・ニルヴァーナ。
第二都市、ウエスト・ヘヴン。
第三都市、サウス・パラダイス。
そしてここ――――――最終都市イースト・エデン。
これらの都市は首都セントラルをぐるりと渦巻き状に巡っている。この特殊な形状が、諸国から『カタツムリ』と揶揄される所以だ。
この四都市の出入り口は互いに高い城壁に仕切られ、都市間を繋ぐ通路は一方通行にしか開拓されていない。また上位の都市へは自由に出入りすることは固く禁じられている。たとえば、首都セントラルには第一都市ニルヴァーナからしか入れず、第一都市ニルヴァーナには第二都市ヘヴンからしか入れない。
そして、これらの都市は下位の区域程――――――つまり首都から遠ざかるほど治安が悪く、風紀が乱れている。
中でも最も首都から遠い区域であるイースト・エデンの治安は最悪だ。
毎日、毎時間、毎分、毎秒――――――どこかで事件が起こっている。
毎日、毎時間、毎分、毎秒――――――どこかで事故が起こっている。
絶え間なく、淀みなく、間断なく――――――
誰かが誰かを殺し。
どこかで何かを盗み。
いつかの全てを犯している。
その犯罪率の高さに比例して、逮捕率はつい数年前まで僅か一桁だった。警官隊の殉職人数は年間で3桁にも上る。新任警官として配属されたもののうち、実に七割もが一年以内に命を落す。
そんな犯罪者にとっての楽園――――――凡そ人が人として暮らすための底辺の場所。
彼の地を人々は皮肉を込めてこう呼ぶ――――――
天国に一番近い場所――――――イースト・エデン、と。
そんな荒廃した町に、キリは新任警官として配属されてきたのだ。
新人でそんな劣悪な状況下に放り込まれることになったのだ、普通ならば不幸の極みといっても過言ではないが、彼の場合は少しばかり事情が違う。
警官になる方法は大きく分けて二つある。
一つは、警官育成専門学校を卒業する事。
もう一つは、現役警官の推薦状を携えて、中途採用試験を受ける事だ。
キリは後者であり、控えめにいってもとても優秀な成績で試験を合格していた。その結果からいけば、巧く行けばセントラル勤務。少なくとも、こんな底辺の町に追いやられる事などなかったはずなのである。
にも関わらず、何故か彼がイースト・エデン勤務になった理由――――――ジニアに呆れられた理由はまさにそこにある。
それもそのはず。
キリは自ら志願して、このイースト・エデンにやってきたのだから。
その話を聞いて、ジニアは驚き呆れたし、シスルは嫌悪感を隠そうともしなかった。
「わざわざ志願してこんな無法地帯にやってくるなんて、死ねばいいのに」
「酷くないスか!?」
「間違えました。死んでください」
「余計酷くなってるっスけど!」
「失礼しました。地獄に落ちろ」
「改善する気がない!?」
会って間もない後輩に悪口雑言を浴びせるシスルに対して、キリは上目遣いに尋ねた。
「・・・先輩、俺のこと嫌いっスか?」
そういって顔を覗き込んでくる後輩の目を真っ直ぐ見て、シスルはきっぱり言い切った。
「はい、嫌いです」
「会ってまだ五分ちょっとなのに!?」
「人と人が分かり合うのには時間が必要ですが、決別するのにはカップラーメンの待ち時間があれば十分です」
「五分どころか、三分で嫌われてた!」
ここまではっきりと拒絶されたら、落ち込みそうなものだが、キリはめげる様子も見せない。困ったような顔を作ると、懲りずにシスルに纏わりつく。
「具体的に、俺のどこが嫌いだっていうんスか?」
「その綺麗な顔で迫れば誰でも言うこと聞くと思ってるとこ。見た目に絶対的な自信があって、いざという時は切り札にできると確信しているとこ。恵まれた容姿に依存しきって人生なめきっているとこ」
「本当に具体的に言われた!」
「あと、その言葉遣いも気に障ります。それで敬語使えてるつもりですか、クズ野郎」
「人が精いっぱい下手に出てるのにそんな評価!?」
「下手? とりあえず上目づかいは下手にでてるとはいいません。僕に下手に出たいというならその無駄に長い足を今すぐ膝から下で切り離してください」
「理不尽にも程がある!?」
「僕は美人は好きですけど、美しさを鼻に掛けてる美人は嫌いです」
二人の険悪な会話を涼しい顔で聞き流していたジニアが、笑いながらキリの方を振り向いた。
「まあ、変人なのは確かだよなあ。死にたいの?」
新人の一年以内の死亡率が七割を超える赴任先など、望んで就くような輩は滅多にいない。時折、『俺がイーストエデンを変えてやる!』的な正義感に燃える新人が志願してくることもあるが、大抵は成績下位者の島流しの地だ。
もっともなジニアの言葉に、キリは首を傾げる。
「そんな変わってるスか?」
「普通折角イイ成績とったんだからさあ、もっと治安のイイトコ行きたいもんじゃない?」
「え、だって」
キリはきょとん、とした顔を作ると――――――心底不思議そうに応じた。
「折角警官になったんだから、警官ぽい仕事したくないスか? どーせなら自転車の駐禁取締りとか、落し物の管理とかよりは殺人現場の捜査とか、ルパンを追いかけたりしたくないスか?」
能天気すぎる返事に、シスルは氷のような冷たい視線をキリに浴びせかける。
「新人で顔しか取り柄が無いくせに銭形警部気取りとはいい気なものですね。とっつぁんにバク宙土下座で謝りなさい」
「面識のない人には謝れないっス」
「カリオストロで城壁面走りをしたら会えるかもしれませんよ」
「それって俺が捕まるほうの役じゃないスか!?」
「なーるほどねえ」
シスルには不評だったキリの答えを聞いて、ジニアは納得といった風にくすくすと笑う。
「まあそういうことならいいんじゃない? 何せ」
そういって――――――悪戯っぽく笑ってみせた。
「――――――ここにはルパン級な犯罪者がわんさかいるんだからさあ」
イースト・エデンは犯罪者の宝庫だ。
誰もが名を聞いたことがあるような有名犯罪者がゴロゴロしている。道を歩けば犯罪者に出逢う。まさしく犯罪者のバーゲンセール状態といっていい。随分と押しつけがましいバーゲンセールだが。犯罪者が大手を振って横行している状況に皮肉を込めて、イーストエデンはこうも呼ばれている――――――『怪人達の楽園』と。
「で? キリはどれ狙いよ? 快楽殺人狂から人情怪盗から普通の露出狂まで何でもござれ。よりどりみどりだぜ?」
おどけたジニアの質問に対して、キリは淀みなく一人の名を挙げた。
「『蒼き狼』」
その名を聞いて、シスルとジニアは顔を見合わせる。
勿論、その名は二人とも知っていた。恐らく、その名の持ち主についてはキリよりも詳しいだろう。だが正直、その名がキリの口から出てくるとは考えていなかったのだ。
「意外ですね」
シスルは振り向くと、キリを見上げた。
出逢って以来、まともに視線を合わせてくれたのはこれが初めてのことだ。余程キリの発言が予想外だったらしい。
「君の先程の発言から察するに、もっと大物を狙いに行くかと思ってました」
シスルの言葉に頷きながらも、ジニアは一部にやんわりと訂正を入れる。
「大物は大物だろ。Sランクのブラックリストだ。大犯罪者だぜ?」
「そうですけど、・・・『蒼き狼』は義賊ですよ?」
――――――『蒼き狼』とは、国を股に駆けて荒らしまわっている大怪盗のことである。主に貴族や富裕層を標的にしており、その活動の中心地となっているのがここイーストエデンだ。総被害額は四百億円ともいわれている。
警官隊では罪の重篤性や犯罪歴により、犯罪者をランク分けしている。
Dランクから始まってAランクまでが通常の区域でのランクなのだが――――――
ここ、イースト・エデンではさらにその上。
Sランク犯罪者が存在する。
『蒼き狼』は、そのSランクの大悪党だ。
多くの泥棒と一線を画すところがあるとすれば、彼がヒーローであるということだろう。
盗みの標的にするのは、あくどい商法で儲けているような金持ちだけ。しかも盗んだ金品のほとんどは貧民街を中心にばら撒いてしまう。治安の極悪なイースト・エデンでは日々の食事にも事欠くような貧しい人たちが多くいる。彼らにとって『蒼き狼』の存在は希望なのだ。
そして殺しは絶対にしない。
そんなポリシーを持ってイースト・エデンの町を飛び回る怪盗に、市民が声援を寄せないわけは無かった。無能な警官隊などよりも、遙かに絶大な人気を誇っているのだ。
勿論、そんな太っ腹な行いをしていたとしても泥棒は泥棒。当然警官隊の処罰対象だ。だが、逮捕の優先順位が後回しになっているのも事実である。
しかしそれは、『蒼き狼』の犯罪行為が見逃されているというわけではない。より危険で、より凶悪な犯罪者が他に多々犇いているというだけのことだ。害の少ない義賊より、極悪な殺人犯の逮捕が優先されているというだけのことだ。
「だよなー、派手な事件が担当したい! とかいうからてっきりもっと凶悪で極悪で最悪な犯罪者狙いで行くのかと思ったけどなあ。『蒼き狼』捕まえたって得られるのは市民のブーイングだけだぜ?」
「それとヒョーショージョーですね。トイレットペーパーの方がまだ有用です」
「一応警官隊総帥のハンコが押してある紙でケツ拭くのはまずいんじゃない?」
「あんなゴワゴワした紙使ったら痔になりますよ。僕のオシリはキリ君と違って繊細なんです」
「センパイに俺のオシリの何がわかるっていうんスか!?」
「じゃあ『蒼き狼』を君が捕まえられたら、ご褒美に僕が君にスコッティをあげましょう」
「自分で買えるし!」
「先輩からのプレゼントにケチをつけるとは生意気な後輩ですね。警官隊は縦社会だということを身をもって思い知らせてあげましょうか」
「身をもってって・・・何する気スか?」
「痔になる呪いをかけます」
「地味に嫌だし!」
「まあまあ、そしたら俺がネピア買ってやるよ」
「ティッシュから離れてほしいんスけど!」
ネピア担当ジニアは首を傾げると、少しだけ真面目な顔をした。
「でもさ、何でホントに『蒼き狼』なわけ? さっきもいったけど、ここには所謂凶悪で極悪で最悪な大物犯罪者がいくらでもごろごろしてるわけよ? 『ナイト・ザ・リッパー』とか、『青髭』とか、『レッドゾーン』とか『ワールシュタット』とか」
「イーストエデンでは最近名前を聞きませんが、『オルドローズ』、『シルバーフォックス』や『流浪の翼』なんていうのも居ますね」
「まさに、よりどりみどりっスね」
ジニアが指折りしながら名前を羅列したのは、皆現在進行形でイーストエデンを騒がせている犯罪者だ。いずれも罪状が一枚では収まらない程連記されるような犯罪者であり、裁判に掛ければ罪状を読み上げるだけで裁判官の咽喉が嗄れてしまうだろう。危険度においては『蒼き狼』の比ではない。
「その中でわざわざ、『蒼き狼』をチョイスしたのには何か理由があるんですか?」
その質問に、キリは形の良い顎に指先をあてると、
「――――――興味があるんス」
にい、と微笑んだ。
「犯罪者のくせに、自分の利益を貧民に分け与えるような偽善者に――――――会ってみたいと思って」
そういって、にやりと笑う。
そんな気取ったような仕草が、やたらと画になる男だ。
その仕草に一通り見惚れたのちに、シスルは大きく舌打ちをした。
「・・・・斬鉄剣の錆になればいいのに」
「まだルパンネタ引き摺るんスか!?」
「まあまあ、どーせここに配属されちゃったからには嫌でもそのうち『蒼き狼』に会えるって。まあ、リッパーにもレッドゾーンにも会えるけどね。合コン相手じゃあるまいし、こっちは追っかける相手を択べないんだからさ」
「そうですね。死ななければの話ですけど。まあ、合コンも相手択べないパターンありますけどね。この間ジニア君、銭形警部みたいな女の子がとなりだったじゃないですか」
「どーしていちいちネガティブな発言してくるんスか・・・てか銭形似の女の子寧ろちょっと見てみたいッスけど!?」
「お、無駄口叩いてるうちに着いたぜ?」
そういってジニアが指差したのは、眼前の樫の木造りの重厚なドアだった。
「粗相の無いようにしてくださいよ」
「俺のこと心配してくれてるんスか?」
「いえ、指導員として僕の躾がなってないといわれると嫌だなあって」
「自分のことしか! 考えてない!」
「おーい、ドア開けちゃうよー?」
シスルとキリが心温まる会話を交わしながら、扉を開いた先に待ち受けていたのは。
――――――年若い、一人の女性だった。
綺麗な女性だった。
肩甲骨の辺りまで伸ばされたやわらかそうな胡桃色の髪に、紅玉色の眸。
身長は160センチ程だろうか。それほど背が高いわけでもないのに、思わず背筋を伸ばしてしまうような、ぴんとした威圧感を内包している。
整った顔には柔らかそうな笑みを浮かべていた。どこか近寄りがたい雰囲気を感じさせる顔立ちだ。
唯一つ異様だったのは――――――彼女の眼だ。
彼女の右目は、その繊細な顔立ちとは不釣合いな無骨な皮の眼帯で覆い隠されていたのだ。
キリたちと大して年齢は変わらなそうに見える。
しかし、キリと同じ青灰色の制服を身に纏ってはいるが、胸に飾られた勲章とバッチの数は比較の仕様もない。彼女こそが、検挙率一桁だったイーストエデンの事件解決率を、四年間で三割にまで押し上げた英傑だ。
ロサ・ハイドランジア。
東部警官隊長官――――――要するに。
イースト・エデンの最高幹部だ。
「――――――やあ、シスル、ジニア。お疲れ様。そして・・・」
ロサはわざわざデスクから腰を上げて、三人の前へと歩いてきた。その行動に、シスルとジニアが慌てて敬礼の構えをとる。キリもその様子を横目に見て、先輩に倣った。
ロサは身振りだけで敬礼を解除するよう示すと、キリの真正面に立った。
「初めまして、だね。キリ・アルストロメリア君」
そういって――――――柔和に微笑う。キリはその笑顔に緊張を少しだけ解いて、目の前の上司に会釈した。
「――――――初めまして」
「君も随分と物好きだねえ、こんな危ない地区にわざわざくるなんてさ」
そう言って、ロサはくすくすと含み笑いを洩らす。ロサの言葉に、キリは肩を竦めた。
「先輩方にもさんざん言われたッス」
「・・・・言葉遣い」
長官相手にも砕けた敬語を使うキリに、シスルが顔を顰める。
「あ。えーと、言われ、・・・ました」
慌てて言い直したキリに、ロサはさらにくすくすと微笑う。
「別に構わないよ、普段はね。セントラルのお偉いさんが来訪した時とかだけは、気を付けてね。・・・君と僕はそう歳が離れているわけでもないし」
そういって、手元の資料に目を落とす。どうやら、キリの履歴書らしい。
「君、今年二三歳だろ? 僕は二四だから」
「ええっ!? 長官、若!」
思わずキリは敬語も忘れて叫んだ。
「・・・・言葉遣い」
じろりとシスルに睨まれたが、忠告も耳に入らない。
だが、キリが驚くのも無理はない。
齢二十四にして、しかも女性の身でありながら東地区の最高責任者にまで上り詰めるとは。凄まじいまでのスピード出世だ。
「そんなに驚くことでもないよ。イースト・エデンは事故も事件も多いからね。事件が多いってことは、手柄をあげる機会が多いということだからね」
そういうと、ゆっくりとデスクに腰掛ける。
「出世には持って来いの場所だよ・・・・死ななければね」
そういって口角をあげて嗤う。今までの柔和な親しみやすい笑顔とは一線を画す、何処となく凄みを感じさせる笑顔に、キリは表情を引き締めた。
だが、そんな表情は一瞬で消し去ると、ロサは気さくな表情を浮かべる。
「さて、当初の予定通り君の指導官にはシスルに就いてもらう。シスル、キリ君に・・・キリと呼んでもいいかな?」
「どうぞッス。でも俺、シスル先輩に早速嫌われてるっぽいんスけど」
「そうなのかい? シスル」
「まさか。優秀で有望な後輩だと期待していますよ」
しれっとした顔で放たれた言葉に、あんぐりと口を開けたキリだったが、シスルはこちらを振り向こうともしない。完璧なまでの鉄面皮である。思わずジニアの方を見ると、必至で笑いをかみ殺していた。
「ならよかった。まずはキリに警官隊舎を案内してあげてくれるかな」
そんな三人の様子を知ってか知らずか、にっこりとロサはそう続けた。
「正直、イーストエデンの人員不足は深刻でね。君の三か月前に赴任した今年の新人は、もう半分しか残っていないし」
「・・・三か月で半分死んだんスか?」
「よくあることだよ」
ロサは顔色を変えもしない。相変わらず柔和なままの口調と笑顔で、淡々と告げる――――――惨憺たる現状を。
「不慣れな新人の死亡率は当然高い。研修期間でその年赴任した新人が全員殉職、なんてのもありうる話だ。しかも、基本的に学校卒業者は、成績順に配備されるから・・・痛ましい現実だね」
優秀な成績上位者は、安全な首都へと送られ、イーストエデンには成績下位者が送られてくる。ただでさえ厳しい任務に就くのは、多くが劣等生だった者たちだ。自然、死亡率は高くなる。
「だから、君のような優秀な人材がこの地を択んでくれた事は本当に嬉しいよ。でも・・・どうしてセントラルに行かなかったんだい?」
シスルやジニアと同じことを疑問に思ったらしい。
キリはこれから先輩刑事に会うたびにこのことを訊かれるのかとゲンナリしつつも、先刻と同じ答えをした。別に隠すことでもない。
「『蒼き狼』に会ってみたかったんス」
「『蒼き狼』――――――?」
またもや、「名だたる犯罪者の巣窟であるイーストエデンにわざわざ義賊を探しに来た」という点にツッコミを受けるのだろうか。内心うんざりと思っていたキリだったが、ロサ長官は特に疑問を持たなかったらしい。寧ろキリの応えに満足したように頷いた。
「成程ね。警官がこんなことを言うのもなんだけど――――――彼は気持ちのいい男だからね」
ロサは盗んだ金を貧しい民草にばら撒く義賊様に対して、好感を抱いているらしかった。確かに、死体を飾り付ける性癖の持ち主や、原型を留めないほどに被害者を切り刻むような異常殺人者が跋扈する街だ。それに比べたら、悪徳な金持ちからしか盗みを行わず、盗んだ金を貧しい人に分け与える怪盗の存在は、清涼剤のように感じるのかもしれない。
キリがそんなことを考えていると――――――
突如、頭上で鐘の音が鳴り響いた。
「な、何スか!?」
慌てて壁の柱時計を見ると、朝の十時四十二分。こんな中途半端な時間に鐘を鳴らすなど、聞いたことがない。何か特別な意味があるのだろうか――――――
慌てて周囲を見回すが、驚いているのはキリ一人だ。シスルもジニアも表情を引き締めてはいるが、鐘の音に慌てる様子はない。
その様子を訝しんでいるキリの耳朶を、長官の洩らした含み笑いが打った。
「ああ、丁度よかったじゃないか――――――」
ロサの声にそちらを見ると、ロサは窓の外を眺めていた。
「どうやら、直ぐに会えそうだね?」
ロサの視線に釣られて窓へと視線を移したキリは、思わず目を見張った。
――――――金が降っている。
雨でも、雪でも、霰でもなく――――――金が。
それこそ雨あられとばかりに、ジェル紙幣が、ばらばらと。
「――――――ああ、やっぱりでたんだ」
「お布施の時間ですね」
その光景を見たシスルとジニアは、納得したように呟いた。特に驚いた様子も見せない。
「二人して通じ合ってないで説明してほしいっス」
キリはくちびるを尖らせる。不自然な時間に鳴らされる時計塔の鐘、そして空から雨あられと降り注ぐジェル紙幣。キリにはわからないことだらけだ。
「・・・よくあることですよ。イースト・エデンでは」
口をぽかん、と開けているキリにシスルがいう。
「特殊な高気圧の関係で月に一度程、お金が降る日があるんです」
「まじスか!?」
「嘘です」
「だまされた!」
「いや、この程度の嘘に騙されるお前がどうよ」
ジニアも呆れたように笑う。
「確かに、高気圧では紙幣は錬成できないだろうねえ」
くすくすと笑いながらロサは細い指先で窓の外を指さす。
「そうじゃないよ。妖怪カネフラシという生き物が警官隊舎にとりついていてね、毎日この時間になるとくしゃみをするんだ。カネフラシは有難い事にくしゃみと同時にお金を吐き出すんだよ」
「成程! そんな素敵な妖怪がイーストエデンにはいるんスね!」
「嘘だよ」
「また騙された! しかも長官に!」
長官は笑いながら地団太を踏むキリを諌めると、さらりといった。
「本当はね、――――――『蒼き狼』の仕業だよ」
「!」
その言葉に、途端にキリは表情を引き締める。
「今、外に出れば逢えるよ。見たかったんだろう?」
手振りで行っていいよ、と示すロサ。
キリはぴしりと敬礼を示すと――――――長身を翻して駆け出した。
警官隊舎から一歩外に出ると、そこは大勢の市民でごった返していた。
鐘の音を聞きつけた大勢の市民が、『蒼き狼』の撒く金を拾おうと建物から外へと出てきているのだ。
キリは足元に落ちていた金を一枚拾い上げる。
国の共通紙幣である一万ジェル紙幣。
専門家でないキリには断言はできないが――――――手触りや印刷から見るに、本物ではないかと思われる。
それを、惜しげもなくばら撒いている。まるで紙吹雪か何かのように。
「『蒼き狼』はああやって、仕事の後に屋根から金をばら撒いて回るんだ」
豪勢すぎる紙吹雪に見惚れていたキリの後ろから、ジニアが声を掛ける。
「奴は『お布施』の前にああやって時計塔の鐘を鳴らす。鐘が鳴った地区にだけその日は金を配るっていう合図らしい」
本来、地区ごとに設置されている鐘は、夜明けと正午、それに日暮れの三回しか鳴らされない。それ以外の時刻に鐘が鳴るときは、災害などの異常事態を知らせるためだが――――――イーストエデンで鳴る鐘にはもう一つ、別の意味がある。
『蒼き狼』のお慈悲―――――― である。
「――――――でも、これどうやって・・・」
「空が降らしてくれないなら、自力に決まっているじゃないですか」
無感動にシスルが指差す――――――その、先に。
探し求めていた姿が、あった。
屋根の上を身軽な仕草で飛び回る――――――人影。
屋根から屋根を飛び回りながら、背中に背負った袋から紙幣をばら撒いている。その大きな包みを背負った姿は、さながら季節外れのサンタクロースのようだった。良い子にしていてもイーストエデンにはサンタは来ないが。
「あんな荷物背負って、よく身軽に動けるよなあ」
ジニアがひゅう、と口笛を吹いた。
「・・・? キリ君、何処に行くんですか」
シスルの訝しげな声にジニアが振り向くと、併走していた筈の後輩の姿がない。
キリはUターンすると、さっき出てきたばかりの警官隊舎へと戻って行ってしまったのだ。
「あれえ? てっきり『蒼き狼』を追っかけるかと思ったけど・・・」
首を傾げるジニアに、無表情にシスルが応じる。
「忘れ物ですかね」
「いや、それ後でよくね? 今どうしても取りに戻る必要あるか?」
「急を要する忘れ物といえば、財布じゃないですか」
「いや、警官隊舎の中で財布忘れて盗まれたら目も当てられないじゃん」
本来、一番安全でなくてはいけない場所である。
「というかジニア君、『蒼き狼』のおこぼれをくすねるのは警官としてどうかと思いますが」
ジニアのポケットには『蒼き狼』のばら撒いたジェル紙幣が数枚、ねじ込まれている。シスルの指摘にジニアはシレリと笑った。
「えー? いいだろ。俺も貧しい一般人の一人だぜ?」
「警官隊のお給料は一般人に比べて大分いい方だと思いますが」
「いや、ここに赴任してから友達の葬式が多すぎてさ。弔問費がかかって仕方ないから」
「そういう不謹慎な冗談はどうかと思いますが」
「でも事実ジャン。ぶっちゃけ仲間の葬式代、経費で落としてほしいんだよね」
「僕はそんなことありませんけど」
「え? でも葬式多いだろ」
「いいえ、葬式出るほど親しい友達いないんで」
「悪いこと聞いてごめん!」
「いえ、気にしてませんから」
「ちょっとは気にしようよ・・・」
本来ならばこんな雑談に興じている暇があったら『蒼き狼』を追うべきなのだろうが――――――二人は緩やかに会話しながら、遠ざかる彼の背中を見送るだけだった。
今更二人が血相を変えて追わずとも、市内を巡回中の警官が既に追っているだろう。
そして――――――恐らくそれは徒労に終わる。
まず、屋根の上を俊敏に駆け回る『蒼き狼』を、路上から追いかけたところで触れることさえできない。地べたを這いずることしか出来ない鼠が、鳥を捕えようとするようなものだ。かといって屋根の上に登ったところで、『蒼き狼』のように俊敏に駆け回れるわけもない。
更に、市民の協力がほとんどない。
元より積極的に警官隊を支持してくれるような民は少ないが、『蒼き狼』に至っては皆無といっていい。それどことか、警官の動きを妨害してくるものまでいる。
『蒼き狼』が捕まってしまえば、彼の仕事のおこぼれを預かることができなくなるのだから、当然と言えば当然だ。市民は、『蒼き狼』が逮捕されることなど望んではいないのだ。
「・・・・あ、」
「何?」
ぽつりと呟かれた言葉に、ジニアが振りかぶると――――――シスルは上を見ていた。釣られて上を見たジニアは、同じように声をあげていた。
「あ・・・・」
頭上を大きく、美しい鳥が舞った――――――
瞬間、ジニアはそう錯覚した。
しかし、それは屋根の上へと降り立ったキリの姿だった。
キリは警官隊舎に戻って6階まで駆け上がると、窓から隣の屋根へと飛び降りたのだ。
『蒼き狼』と同じフィールドに降り立つために。
『蒼き狼』ほどとはいわないが、そのままキリは危なげもなく屋根の上を駆けていく。地上で見守る、二人の先輩を振り返ることもしなかった。
『蒼き狼』を追って、キリの姿が遠くなるまで――――――二人はアグレッシブな後輩の背中を呆然と見送ったのだった。
――――――速い。
『蒼き狼』の背中を追うキリは、屋根の上を駆けながら舌打ちをした。
相手は大荷物を背負っているというのに――――――差が縮まる気配が全くない。
――――――まるで猫のようだ。
その俊敏な動きは人のそれとは思えない。
屋根の上など走るのは初めてだったが、何度練習したところであのスピードが出せるとは思われなかった。
(――――――早めに、動きを止めないと!)
このまま追いかけっこを続けていても、恐らく永久に差は縮まらない。それどころか、『蒼き狼』は荷物を捨てながら走っているのだ。大荷物を抱えた状態でも追いつけないというのに、手ぶらになってしまったら――――――。
あっという間に振り切られてしまうだろう。
(・・・でも、どうすれば)
どうにかして『蒼き狼』を足止めする方法を手にしようと、キリは必死に周囲に視線を巡らせた。単純な方法としては、後ろから何か投げつけるということが考えられるが――――――
「・・・・・・ん?」
手頃な投擲物を求めていたキリは、あるものを見つけた。少し考えてから、一度屋根から飛び降りると、それを抱え上げる。そのまま躊躇うことなく照準を合わせる――――――『蒼き狼』の前方にそびえる――――――時計塔へと。
『蒼き狼』が時計塔の前方を駆けぬける瞬間を狙って、その引き金を引いた。
「――――――?」
それは危機管理能力や警戒心などといった理性の成せる技ですらなく。まさしく、野生動物の勘といえた。
嫌な予感がした。
そうとしか、表現のしようのない、何か――――――その衝動に突き動かされて反射的に彼は身を引いた。その瞬間。
――――――ガッシャアアア!
まるでシンバルだけで構成された楽隊がデモを起こしたかのように――――――鈍い激しい音が目と鼻の先で巻き起こった。
あまりの轟音と衝撃により、直ぐにはその正体がわからなかったほどだ。あと半瞬、身を引くのが遅かったらあの衝撃に巻き込まれていただろう。『彼』――――――『蒼き狼』は、それに目を凝らした。
目の前の轟音の正体は――――――時計塔の短針だった。
鉄と鉛で作られたそれが、どういうわけか『蒼き狼』の目の前へと落下してきたのだ。それが古びた瓦に激突した結果、先刻の轟音が奏でられたということになる。
「――――――?」
思わず『蒼き狼』は頭上の時計塔を仰ぎ見た。
古びているとはいえ、自然に落ちてくるような代物とも思えない――――――よく見れば、針は根元ではなく途中から無残に折れていた。
続いて、彼は背後を振りかぶる。
これは、自分の背後に誰かが駆け寄ってきた気配を感じてのことだ。
「やあっと足止めてくれたんスね?」
――――――そう声を掛けてきたのは、男だ。青灰色の制服を着ている。先ほどから自分を追いかけてきていた、警官隊の一人だろう。
続いて『蒼き狼』が眉をひそめたのは、男が抱えているものを見たからだ。彼が肩に担ぎあげているのは――――――グレネードランチャー。それで時計塔の短針を撃ったのだろう。時計塔の一部を破壊して――――――自分の足止めをする為に。
街中で一人の盗人相手にぶっ放すような代物ではない。
そのあまりに常識外れな行動を呆れた顔で眺める『蒼き狼』に、警官はご機嫌そうに走り寄ってきた。
「まったく、バカみたいに足早いっスねー。おかげでこんな真似までするハメになっちゃったじゃねえスか。・・・ま、別にいいけど」
そういって口角を上げて笑う――――――その男は。
「こうして、アンタに会えたんだし」
まぶしい金髪と、綺麗な顔していた。
果たして、キリは彼と屋根の上で対峙した。
『蒼き狼』の行く手は落ちてきた短針と、それと激突したことによってひび割れた瓦が散乱していて、直ぐには身動きが取れない。だが、モタモタしていればこの獲物は身軽に目の前から駆けて行ってしまうことだろう。
キリは逸る心を抑えて、彼を見つめた。
彼――――――正確には彼であるかどうかすら定かではない。何故なら、逃亡者の顔は幾重にも巻かれた布によって、頑ななまでに隠されていたからだ。ただ、その身体つきから恐らく男であろうと判断しただけだ。
キリはまじまじと相手を観察した。
彼が会いたいと思っていた――――――相手を。
恐らく男。
距離があるので正確には測れないが、身長はキリと同じくらいに見える。
顔だけでなく、頭までターバンのようなものでぐるぐる巻きにしてある。唯一、彼の顔で露になっている部分といえば眼だけだ。
眼だけが、爛々と輝いている。
夜明け前の空の色――――――オリエンタル・ブルー、だった。
――――――これが、『蒼き狼』。
恐らくコードネームの由来は、その印象的な蒼の瞳だろう。
「・・・何だ、意外ッスね」
思わずもらした感想に、『蒼き狼』は首を傾げる。
「――――――何がだよ」
応じるその声は若く、やはり自分と同年代ではないかと思われた。
「その眼。狼の眼ってイエローじゃないスか。・・・・『蒼き狼』なんていうからてっきりウルフアイかと思ってたッス」
「知らねーよ。勝手に付けられた渾名だもん」
「ええっ!? 自分でカッコよく名乗ったんじゃないんスか!?」
「違ぇよ! そんな痛い真似誰がする!」
「・・・・しないんスか・・・」
何故かがっくりと肩を落とすキリ。
「まあいいや、俺は警官。アンタは泥棒。・・・だったらやる事は一つっスよね?」
「ラブフラグか・・・! 残念ながら俺に男色家のケはねえ」
「俺にもないかな!?」
「悪いけど俺、一目惚れは信じないタチなんだ。俺と付き合いたいならお友達からお願いするぜ」
「・・・まあそれも案外楽しそうっスけど。俺キャッツアイごっこよりルパンごっこがしたいんスよね。だから、」
小粋に肩を竦めたキリは、ランチャーを屋根の上へと放り出した。
「――――――追いかけっこしようか?」
――――――『蒼き狼』と追いかけっこをした翌日。
キリは早速、警察隊舎に遅刻した。
正午を大きく回って漸く姿を現したキリに、シスルは冷然とした一瞥をくれた。
「早速重役出勤とはいい度胸じゃないですか。僕を満足させる謝罪の方法は考えてきたんでしょうね」
「ごめんなさいッス★」
「死んでください」
モデルのようにばっちり決めたウインクと共にサラリと寄越された謝罪に、シスルの視線はますます冷え込んだ。このままだと、視線の冷たさでアイスクリームが生成されてしまいそうだ。
「何でスか! この俺のウインクで落ちない女の子とかいないんスよ!」
「君、僕を口説いてたんですか。なんかムカつき過ぎて吐き気がします。ユンケル買ってきてください」
「いや、オレ女の子しか好きじゃねえっス」
「じゃあ君、僕のことを女の子だと思ってたんですが。その馬鹿さ加減にムカつきを通り過ぎて哀れになってきました。ハイチュウ買ってあげましょうか」
「思ってないし、馬鹿にされてる!」
「もののあわれを感じてきました」
「何でいとおかしくなってるんスか!」
「ハイチュウ要ります?」
「もう少しいいもの買ってほしいっス!」
完全に論点のずれた応酬を繰り広げる二人の間に、ジニアがやんわりと割って入った。
「まあまあ、その辺にしとけよシスル。ちゃんと遅れるって電話あっただろ? お前にも伝えたじゃん」
「そうっスよ・・・長官の許可もとってるし」
頬を膨らませるキリに、シスルは冷然と応じる。
「知っていますよ。ですが、本人の口から直接謝罪の言葉を言わせたかったんです」
「だから、謝罪したじゃねえスか」
「直接謝罪させた挙句、文句を言いたかったんです」
「文句をいいたいだけじゃねえッスか!」
――――――昨日の『蒼き狼』の追走劇の最中。
およそ二時間にもわたる追いかけっこの末、キリは3階建ての屋根から転がり落ちた。
ちなみにこれは、『蒼き狼』に突き落とされたなどというわけでもなく、単純に疲労によりキリが足を滑らせたのが原因だった。完全に自業自得である。
本人は怪我もなくいたって無事だったのだが、何せ3階から落ちたのだ。念のため、病院で検査を受けてくるようにと、長官から有難いお言葉を頂いたのだ。
「結局、大丈夫だったわけ?」
「ばっちり」
Vサインを作るキリに、ジニアは呆れた顔をする。
「丈夫だなあ・・・・」
「まあいいです。君の脛骨が砕けていなかったことは大変残念ですが、またの機会に期待します。無事だったのならお仕事しましょう。馬車馬の如く働いて下さい」
「残酷な期待しないでほしいっス!」
「何なら鞭も打ちますので」
「馬車馬の方に話題が移ってる!?」
「イケメンを鞭でびしばしとかいいストレス発散になりそうじゃないですか。ドカ食いや衝動買いでストレスを紛らわしている全国のOLに推奨したいですね」
「そんなSMちっくなストレス解消法を警察が推奨していいんスか!?」
「でも、肥ったり貧乏になったりしないから平和ですよ」
「びしばしされてるイケメンの人は!?」
「その役はキリ君が一手に引き受けてくれるんですよね」
「俺一人でOLのストレスを一手に!? 手に余る!」
「そうすれば、キリ君一人が不幸になるだけで済むので、何の問題もないです」
「俺に問題があるっスけど!?」
「おーい、漫才やってないで行くぞー」
抗議の声を上げるキリを差し置いて、外出支度を整えていたジニアの声が飛ぶ。その声にキリはきょとん、として顔を上げた。見ればシスルも外套を羽織っていた。
「・・・何処行くんスか?」
「仕事だよ仕事・・・ていうかさ、シスル。本当にキリ連れていくの?」
「そのつもりですが。何か問題がありますか」
相変わらず顔色一つ変えずに応じるシスルに、ジニアが大袈裟に肩を竦めて見せる。
「キリはこんなんだけどまだ赴任二日目だぜ? いくら馬車馬の如く働かせるっていっても、アレは――――――正直まだ、きついんじゃないの」
「キリ君は神経が図太いので大丈夫ですよ。寧ろ僕としては若干凹んでくれた方が可愛げがあって今後付き合い易くなると思います」
「嫌な先輩だな・・・」
ため息を吐くジニアに、シスルは少しだけこのトーンを真摯なものに変えて呟いた。
「それに、甘やかしていてはここでは生き残れないでしょう。アレはここでもかなりレベル高いですから、早いうちに触れておいた方がよいと思います」
「・・・まあ、確かにアレはなあ・・・。一応慣れといた方がいいか」
「さっきから何の話してるんスか? アレって何すか?」
キリは二人の間に割り込むとそう尋ねた。それにさっきから自分抜きで語られる会話が、蚊帳の外に置かれているようで面白くない。
今にも地団太を踏みそうなキリの様子に、漸くシスルがこちらをみた。
「今から行く現場の話ですよ」
「現場・・・何か事件があったんスか?」
「大量殺人です」
その言葉に目を見開くキリに、ジニアが説明する。
「キリが出勤してくる二十分前に通報があったんだよ」
ジニアは表情を引き締めると、こう告げた。
「『ナイト・ザ・リッパー』がでたんだってさ」
――――――その光景を見たとき、キリはそれが殺人現場だとはわからなかった。
現場となった路地には濃厚な死の臭いが立ち込めていたし、血の痕もあった。しかし――――――肝心の遺体を。
死体を――――――死体として認識できなかったのだ。
現場は、如何にも犯罪向きな薄暗い路地で、大人が肩をぶつけずにすれ違うのがやっとと思われる程の道幅しかない。その――――――道幅いっぱいに。道幅を形成する左右の壁に。
ペンキで塗りたくったような赤黒い染みが広がっている。
それは血痕、などという控えめな表現ではとても追いつかない――――――路地の一角が縦横二メートル近くにもわたって、血の海と化しているのだ。
そしてその――――――血の海に。
遺体らしきものは、見当たらない。
人の形をしたものは、何も――――――見当たらない。
だが、よくよく目を凝らしてみれば――――――辛うじて見て取れた。
その血の海と化した路地に――――――何かが転がっているということが。
それは人の形をしていない。
それは頭の形をしていない。
それは胴の形をしていない。
それは腕の、足の、あらゆる部位の形を成していない。
それほどまでに切り刻まれ、分解され、解体されている。
何に、と問われればとさつ場に似ていたかもしれない。
人が豚を肉に変えるように。
解体された――――――人だったもの。
それが――――――赤黒い池の中に無造作に散らばっている――――――ばらばらと。ごろごろと。ぼろぼろと。
そこにあるのは、最早人ではなかった。そこにあるのは――――――只の肉塊でしかなかった。
「うわ、今日はまた派手にやったなあ」
キリの後ろから現場を覗き込んだジニアが顔を顰める。
「・・・もう少し、人の形を保っていることもあるんですよ」
そういって、言葉を失ったキリを振りかぶるシスル。
「――――――大丈夫ですか?」
『ナイト・ザ・リッパー』。
並み居る犯罪者がひしめき合う、このイーストエデンの中でも指折りの犯罪者である。
リッパーの犯罪は無差別に行われる。
男も女も貧民も金持ちも――――――平等に。
リッパーの前では平等な肉袋でしかない。
今までの被害者を洗ってみても、共通点などは何も見当たらない。恐らく、目が合ったものを、すれ違ったものを、偶々気が向いたものを――――――
とりあえず、刻む。刻む。切り刻む。
メタメタに、ぐちゃぐちゃに、ずたぼろに。
週に一度か二度ほど、思い出したように人を解体する。
奴の『仕事』の後は決まって原型を留めないほどに切り裂かれた無残な死体と、血の池が生成される。
異常殺人者。快楽殺人鬼。無差別殺人犯。
それが、S級大量殺人犯。
『ナイト・ザ・リッパー』――――――夜を切り裂く者。
「洒落になんねえっスよね、マジで。何スかあの現場」
現場検証を終えて帰ってきた三人は、警官隊舎内にある社員食堂で遅い昼食をとっていた。
「・・・僕的には、君の方が洒落にならないですけど」
チキンのトマトソース煮込みを元気に頬張る後輩を横目で見ながら、シスルがため息を吐く。普通、初めて殺人現場に足を踏み入れた日には心身ともにショック状態に陥るものだ。食事が咽喉を通らなくなる事などザラである。ましてや、それがリッパーの現場となれば。
そのあまりに凄惨な現場は見た者の精神を強烈に蝕む。それがトラウマで警察を辞職してしまう者まで出る始末だ。
――――――それをこの後輩は。
赴任二日目。初めての殺人現場の捜査にも関わらず、泣き言ひとつ漏らさずに捜査をてきぱきとこなし。血の海にめげる様子もなく、元気に遅い昼食をぱくついている。
「しかもそのメニューのチョイスはどうなんですか」
チキンのトマトソース煮込み。あの血の海を見た後によくぞそんなものを食する気になるものだ。万が一、あの光景によりこのメニューをインスパイアしたとしたらとんだ変態だ。
密かに毒づくシスルに、キリは首を傾げる。
「ん? 確かにちょっと味薄いっスね。もうちょい塩味を効かせてほしいっす」
「いや、味付けの問題じゃないだろ」
図太すぎる後輩の反応にはジニアも苦笑いだ。
「ま、ここの社食は確かにイマイチだよなあ・・・・ああ、じゃあ近いうち、俺の家に飯食いに来いよ。初めての非番の日まで生きてたら、御馳走してやるよ」
「ジニア君は料理うまいですよ」
その言葉に、キリは瞳を輝かせる。
「へえ、そうなんスか。楽しみにしてるっス」
「お勧めはボルシチかな。ああでも、アマトリチャーナも結構いけるぜ」
「僕はビシソワーズが好きですけど。ジニア君は安い材料でおいしいご飯作るの上手ですよね」
「褒めんなって。張り切っちゃうじゃんかよ――――――さて、と」
皿に残っていたパスタをかきこむと、ジニアは席を立った。
「あれ、何処いくんスか?」
まだパンを口に銜えていたキリが、それを追って慌てて立ち上がろうとするのを手で制し、ジニアは肩を竦める。
「長官に呼ばれてるんだよ。こないだの報告書にミスでもあったかね。お前らは飯食っててくれ」
「そうですか・・・行ってらっしゃい」
ジニアは軽く手を振ると背を向けた。ジニアの背中を見送ると、キリは改めて薄味のチキンを処理にとりかかった。
「・・・俺の非番いつだったかな。何作って貰おう」
しかし、キリがジニアの家に招待されることはなかった。
――――――彼はまだ自覚出来ていなかったのだ。
彼が勤める職場が――――――この地が、どういう場所であるかということを。
ジニアが消息不明になったのは、それから三日後のことだった。