<06>災難も間に合っています
もう町は眠りについたようだ。民家に灯った明かりはなく、薄暗い夜道をふたりは歩いた。
「う~ん。足がふにゃふにゃします~」
「最後の一杯は余計だったか。重たい……っ」
足取りの覚束ないクルトに肩を貸し、シャンテナはぜいぜい言いながら自宅を目指していた。
最後の一杯をきゅっと飲み干した途端、上限を超えたのか、クルトはつぶれた。
ひとりで宿に帰れるかという問いに、この男は『女の子をひとりで帰せません!』と見当違いなことをわめき勝手に歩き出したので、周囲への迷惑を考えると止むに止まれず、担いで歩いている。
こんな男放っておいてもいいのにそうできなかったのは、自分も多少酔っているのかと自問自答する。酒場で、顔見知りたちに一緒にいることを見られているので、変な噂をたてられたくないというのもあった。
ここまで重労働が重なる日は珍しく、体の丈夫さに自信のある彼女も、明日の体調が心配になりつつあった。
やっとの思いで家の前に辿りつき、上着から鍵を取り出す。
差し込んだ鍵を回しても、何の手ごたえも得られなかった。
シャンテナは小首を傾げた。
「掛け忘れたかな」
ひとりごち、ドアを開けた。肩を貸した青年が、ぴくりと目を開いたことには気付かずに。
部屋に踏み込み、シャンテナは違和感を覚えた。その正体が何か理解する前に、部屋の隅に凝った闇が、そしてクルトが動いていた。
「危ない!」
肩を掴まれ、うしろに引きずり倒された。
強かに腰を打ち、呻いて手を突いたその横に、トンっと何かが落ちてきた。
鈍く輝く短剣。
ぎょっとしたシャンテナの頬に、生暖かいものが二滴、三滴落ちてくる。
反射的に手で触れる。――血の臭いがした。
部屋の奥の闇の中に、人影があった。上から下まで黒い衣装を纏い、顔も黒布で隠している。
クルトがシャンテナを庇うように影と対峙した。
その右手から血が滴っているのが辛うじて見えた。怪我の程度は暗くてよくわからない。
「どこの手の者だ」
クルトの声は別人のように低く冷たい。
もちろん、答えがあるはずもない。
影は躍るような足取りで一瞬にしてクルトとの間合いをつめた。
その手に銀色に輝く利器を見て、シャンテナは思わず叫んだ。
「クルト!」
その声より早く、クルトは動いていた。
彼が何をどうしたのか、シャンテナには全くわからなかった。
瞬き一つの後には、影が背後から首を締め上げられ、凶器を持つ右手首を背中に捩り上げられていたのだ。
苦しげな男声の呻きが聞こえる。
「もう一度聞こう。どこの手の者だ」
捩られた黒い影の手首が嫌な音を立てて軋む。折れたのではないか。シャンテナは息を吸うのを忘れて、目の前の出来事を凝視する。
「答えろ」
言葉をかき消して、空気を切り裂く音がした。
とととん、と軽妙な音を立てて、複数の飛来物が壁に刺さる。投擲用の鍔のない短剣だ。
クルトはそれを、身をひねって避けた。
だがその隙を衝いて拘束を振り切った影が、窓の木枠を突き破り、路地へ身を躍らせていた。
派手な音が響く。作業部屋のほうでも。
「仲間か!」
路地に出て行ったクルトが戻ってくるのに、そう時間は掛からなかった。
「すみません、捕り逃しました。怪我は?」
あの酔いぶりはどこへいったのだろう。
見たこともない、落ち着いた顔で彼は手を差し出してくる。
茫然としていたシャンテナだが、握り返した手に滑りを感じて正気に返った。
「怪我をしてる。待ってて、今明かりを」
声こそ平静だったが、燭台に火を灯すシャンテナの手は震えた。
明かりの下で見ると、クルトの傷口は深く、手の甲側に中指の付け根から手首まで一直線で続いていた。
あの短剣を素手で弾いたのだろう。
「これくらい平気です。毒もなさそうだし。ありがとうございます」
どこが平気なものか。
そう睨みつけると、クルトは困惑した顔になった。何故睨まれるか、理解できない顔だった。
「とにかく止血するから」
シャンテナは寝室まで走ると、常備してある薬箱をとってくる。
ひとり暮らしだとこういった備えが特に必要になるのだ。ちゃんと用意しておいてよかった、というのが正直な感想だった。
ぱっくり開いてしまった皮膚を、火で炙った針で縫い合わせ、軟膏を塗り、清潔な布を当て、その上から包帯を巻く。
その間、クルトは灰色の目で大人しく、シャンテナのよく動く手を眺めていた。
なんとなく、シャンテナは自分の手が気になった。荒れて節くれだった、ちっとも娘らしくない手である。
いつもはそんなことまったく気にしないが、都の、いや城に来る貴族の綺麗な娘の手を見慣れているだろうクルトに、そんな自分の汚い手を見られるのは、何故か嫌な気分だった。
今でもフラスメンの下でお気楽に暮らしている貴族の、同年代の娘たちに対する間接的な嫉妬なのかもしれない。自分は、もう、一生日向には出られないという自虐的な考えが根底にある。シャンテナはそう思った。
手当てを終えると、クルトが尋ねた。
「シャンテナさん、何か無くなっているものはありませんか。お金とか、高価なもので」
「報酬のお金は大丈夫だったみたいだけど、他はわからない。見てみないと」
燭台を携えて作業場に入ったふたりは絶句した。室内は嵐でも過ぎたような有様だった。割れるものは割れ、折れるものは折れ、破けるものはすべて破けている。
「物取りにしてもやり過ぎじゃないの、これ。酷いよ」
愕然としているシャンテナの横にクルトが跪いて手に取ったのは、大粒の紅玉だった。その近くには、完成した金剛石をはめ込んだペンダントも転がっていた。
「ただの物取りならこんな品を残しては行きませんよね。あんな卓抜した体捌きもおかしい。あれは本職の暗殺者です」
きっぱり言い切られ、シャンテナは蒼白になりながら、荷物を掻き分けて棚に歩み寄った。
そして、そこの惨状に貧血を起こしかけ、床にへたりこんだ。
「シャンテナさん!」
慌ててクルトが腕を支える。
「……ない」
「え?」
「水晶庭用の工具がない」
「え、ええっ!」
棚の下にはがらんどうになった床穴がぽっかり口を開けていた。




