<04>厄介事ふたたび
シャンテナは契約書を何度も読み返した。
製作者はミュテシーとエヴァンス。ミュテシーはやはり、水晶庭師三大家の一家だ。
契約書の内容は、アーメインの持参したものとほぼ同じだった。
エヴァンスだけが鍵を解ける――。その一文も明示されている。
これは偶然か?
空の茶器を手早くどかして、彼女はクルトを盗み見る。落ち着かない様子できょろきょろしている若い軍人。
彼の依頼を受けるべきなのだろうか。
契約書上の制作依頼者はシュプワ氏だが、前回の訪問のときクルトは『水晶庭の持ち主は明かせない』と言った。
アーメインはシュプワ氏の子息から委任されたらしいが、クルトの水晶庭は、どういう経緯でそこに辿りついたのかがわからない。シュプワ氏から託されたのか、闇で売り買いされて流れ着いたのか、あるいはシュプワ氏から奪い取ったのか。
念の入った異教徒狩りである可能性は捨てられない。
――まずは、水晶庭の所持者を明らかにしてもらわないことには。
「あの、受けてもらえますか、依頼」
期待のこもった眼差しを向けられ、シャンテナはそれを正面からひたりと見据えた。
「残念ですがお受けできません」
「えっ! でも……」
「家にあげたのは、立ち話をする内容ではないからです」
シャンテナはお茶を並べ、椅子をすすめた。クルトは困惑した表情で素直に従う。
「私が水晶庭師の末裔なのは認めます。ですが、三十年前、我が家の技術は断絶しました。あなたがお持ちのそれは、我が家の遺産。そして過去の過ちです」
「そんな、過ちだなんて」
意外にも、反論の語調は厳しかった。
灰色の双眸が何かを訴えたそうにしている。
軍人のくせに、しかも、都――フラスメンのお膝元の所属のくせに、異教に寛容なのか。
シャンテナは疑問を慎重に秤にのせた。
――彼は信に足る人物だろうか。
――ここまでの彼の態度が、すべて裏のないものなら、彼に本当のことを話してもいいかもしれない。
――もしすべてが演技だったら……?
――だが、かつて王宮で栄華を極めたとはいえ、今は没落したエヴァンスに、そこまでして摘発する価値があるとは思えない――。
――彼はどんな目的を持っているのだ?
机上に置かれた契約書を見下ろして、シャンテナは冷たく言う。
「我が一族は名を捨て技術を捨て、エウスの徒になりました。それでもまだ足りませんか。異教徒として私を殺したいのでしたら、かまいません、素性を裁判所へお知らせください」
「タッセケイルさん……」
シャンテナは無意識のうちに胸元をまさぐっていた。服の下に、当主の証でもある翡翠の首飾りの感触がある。
「ただしその際は私もあがきます。あなたとあなたの上役が禁忌の品を持っていたということを上申します」
「タッセケイルさん!」
シャンテナは口を閉ざした。
困惑と焦燥と憐憫と。そんなものを綯い交ぜにした表情で、クルトが机を叩いたのだ。
怒鳴られたのはシャンテナなのに、クルトのほうがいじめられた子供のような顔をしている。
「本当に、そんなんじゃないんです。信用してください。俺はあなたを密告する証拠が欲しくてきたんじゃない。他の三大家は既に技術が断絶していて、頼れる人はあなたしかいないんです!」
ばっと手を掴まれて、シャンテナは硬直した。
振りほどこうにも、握力が強すぎる。痛くはないが逃れられない。
クルトの手は大きく厚みがある。掌にはいくつもまめがあり、職人の手に似ていた。
「それに、それに……! 俺は、軍人ですけど、異教徒狩りをする部署じゃないんです! 近衛師団の所属なんです!」
「このえしだん?」
そういえば、最初の挨拶でそんなことを言っていたような気がした。端から追い出すつもりで対応していたから、今の今まで忘れていたが。
その肩書きの意味がよくわからず、シャンテナは眉間にしわを作った。
いや、理解は出来たが、納得できなかった。
近衛師団。
つまりこの男は――王族の直轄部隊の所属だということだ。
「俺を遣わしたのは、王太子ベルグ殿下です」
がっちり掴まれた手を振り払って、今すぐでもこの男を外へ摘み出さなければ、とても大きな災難が振ってくるという確信があったにも関わらず、シャンテナはしばらく動けなかった。
彼女の手を片手で確保したまま、クルトは「ええと……」と、思い出したように鞄をあさる。そして、一枚の紙を取り出した。
「現在、ベルグ王太子はとある目的のために失われたある財物を取り戻そうとなさっています。その手助けをできるのは、エヴァンスの末裔であるあなただけです。もし、技術を持っているのに隠しているのなら、早く口を開かないと後悔します。本人・家族を拉致監禁して拷問するもよし、家を解体してよすがある者のもとをすべて調べるもよし。
いずれにせよ、王太子の名を聞いた時点であなたの命は握らせてもらいます。協力する以外道はありません。技術が途絶えているというのなら、残念ですが、ここで死んでもらいましょう。……って、言っておけよ、クルト……とと、ここは読まなくていいんだった」
申し訳なさそうに、クルトが紙をシャンテナの顔の前に掲げた。
一言一句違えぬ内容がそこに記されている。
「すみません。こんな脅迫みたいなこと、俺は嫌なんですけれど、四の五の言っている場合じゃないんです」
「みたい、ではなく、立派な脅迫ですよ」
冷や汗が背を伝う。
今すぐここを出て行ってくれ! と、怒鳴りたい心境だった。
それすら叶わないことはわかっていた。
クルトはただの出来の悪い飼い犬だ、そのうしろの飼い主がしっかり首輪を掴んでいる。飼犬の頭は本当に犬並だが、その主が人を力で屈服させるのに慣れているのは確実だ。
そして、抵抗すれば――この男は迷わず主の命令を実行するだろう。忠犬のように。
「お願いです、言う事を聞いてください」
シャンテナの手を握り締めたまま、クルトが訴える。
シャンテナはじっと掴まれた手を見つめていたが、やがて、大きく息を吐いた。
もう、自分は巻き込まれているのだ、この面倒に。しかも逃げ出せそうにない。
だったら、考えるだけ無駄だ。
「……ご要望にお応えします」
赤毛の青年の顔が輝いた。目に涙まで浮かべて、手をぶんぶん上下に振る。
「うわあ! ありがとうございます!」
追い詰めておいて白々しいと言ってやりたかったが、シャンテナはこらえた。
「その代わり、王太子殿下が探しているものというのは」
「あ、国璽です!」
クルトがシャンテナの言葉を遮りあっさり言った。
その瞬間、部屋を沈黙が支配する。
「……おい」
しばししてシャンテナの口から絞り出された地を這うような声に、青年はびくりと肩を震えさせた。
「私は、探し物の内容だけは聞きたくない、それ以上は関わらないと言うつもりだったのよ」
視線で人を殺せるなら、クルトは既に死んでいるだろう。しかも直視しがたいほどの惨殺だ。
「ご、ご、ごめんなさい」
国璽だって? と呟いて、シャンテナは椅子の背もたれに体重を預けた。
リングリッドの国璽は建国時に、初代国王がこの地の支配者の証として作らせた、唯一無二の品だ。金印だったと伝わっている。あまりに細かく精緻な彫りで、完全な複製ができないという、芸術的な印。
二頭の踊る角馬が、蘭を挟んで角を交差し、そのまわりを蔦が囲う。それがリングリッドの国紋だが、その角馬の毛並み、蘭の花脈、蔦の葉脈をみごとに彫り込んだ金印が、かつてあった。作ったのは、そのとき国一番と言われていた彫金師だ。
これは、子供でも知っている建国史だ。
国璽の所有者こそこの国の政柄を握るに相応しい統治者であるということも、国民の誰でも知っている、一種の伝説である。
その国璽はフラスメンが摂政の地位に就く直前、突如姿を消したという。今は似せて作らせたレプリカを使っているという話だ。
消失の理由は定かではないが巷説は種々あった。
実はまだ城にあるがフラスメンが国王に実権を与えないために隠している。
逆に、王族が頑なにその存在を守っている。
エウス国教化時の混乱に乗じて城外に持ち出された。
それこそエウス神の怒りで忽然と消え失せてしまったなどなど。
どの説も下々の者には関係のない話だった。
何しろ、自分たちが一生踏み込むことのない王宮内での話なのだ。
だが、反フラスメン派は、これこそフラスメンが統治者として歓迎されていない証拠と、なにかとその話を持ち出して騒ぐ。庶民にもその流れはあり、税が上がったり、新たな禁制品が設定されたり、不幸なことがあると『あの国璽に見放された不届きものの摂政が』とののしったりするのだ。
ただし、シャンテナの場合、また話が変わってくる。
関わってしまった。
話を聞いてしまった。これは、国璽を摂政への、ののしり言葉に使っていられるほど、のんびりした状況ではない。
「王太子殿下は国璽を武器に、政権を奪取するおつもりか」
「……えっと」
視線を逸らしても、否定しないということはつまり肯定だった。嘘は苦手らしい。
怒りのあまり敬語を使うことすら放棄した娘の前で、軍人はただ萎縮するだけだ。さっき彼女を脅迫していたときとは、完全に立場が逆転していた。
「よくそんな面倒に巻き込んでくれたわね」
「こ、王太子殿下が政権を奪還できれば、この国は元の正常な状態に戻れます!」
「私たち、魔術師の末裔は、フラスメンと同等に王族を信用しない。フラスメンに国をみすみす乗っ取らせたのも、すべては王家の人間の責なのだから」
普通なら不敬罪で首が飛ぶ発言である。
「殿下は、性格は本当にあれですけれど、でも、本質は……」
必死に言い募る青年は顔色を無くしている。
「作業に入ります。念のため、契約書をお借りします」
立ち上がったシャンテナは、契約書を持って作業場へ向かった。
とっくに夕食時を迎えていたが、空腹感など欠片もない。湧き上がる怒りで、満腹だった。
ドアを閉めようとしたとき、後にクルトが立っていることに気付いた。
気配も感じず、足音も聞こえなかったので、ぎょっとする。この古い家で足音がしないというのは異常だ。いくら怒りに頭が沸騰していたとしても、それに気付かないシャンテナではない。
「すみません、殿下から作業中も目を放すなと言いつけられているんです」
もう、何も言うまい。
シャンテナは嘆息して、クルトの入室を許可すると、部屋の鍵を掛けた。
アーメインの依頼と同様に、契約書の写しはちゃんと残っていた。
隠しておいた道具類をひろげはじめると、背後で大人しくしていた青年が、興味津津で視線を注いでくる気配があった。
カーテンを降ろし準備を終え、銀の盆に炎の精の力を宿らせる。
たちまち室内に昼のように光が満ちた。
「わあ……!」
当然、魔術を目にするのは初めてだろう。青年が感嘆の声を上げた。
水晶庭には案の定、魔法文字が刻まれていた。机に映し出された文字を読む。
『エニザ・ミュテシー作。エヴァンスの後継者へ。我ら水晶庭師は君がこの大波を乗り越えることを望む』
ため息が漏れた。
薄々感づいていた事だったが、やはりそうだった。
「タッセケイルさん?」
問いかけをさらに無視してシャンテナは銀針を手に取った。
――シュプワ氏の品は、おそらく連作なのだ。ということは……。
昼間取り出し、そのまま毛氈に包まれて引き出しに隠されたままの、『夜』の水晶庭の部品が急に気になりだした。
あれが、背後の青年の目的と無関係であるはずがない。
つまり、国璽と。
気付きたくもないことだが、嫌でも気付かされたことがもう一つある。
それを確かめる一番手っ取り早い方法は、背後の青年に事情を聞くことだ。
だが、それにはアーメインのことを話さねばならない。
顧客の情報を洩らすことは禁忌だ。回りまわって身を滅ぼすきっかけになる。
今はまだ黙っているべきだ。そう判断した。
『土の精、お前の技芸を』
銀の針に、輝く魔法文字が現れる。
神経は、自然と針先に集中していた。
背後のクルトの存在など、すっかり頭の中から消え失せる。
じりじりと、脳髄を焼く疲労感と一種の恍惚感を覚えながら、シャンテナは作業に没頭した。
× × × × ×
「本当にすごいです! 魔法みたい! ……って、そういえば魔法だったんですよね。あはは。いやあ、でもありがとうございました!」
曇り一つなくなった水晶玉と、その中に入っていた部品を、柔らかい布にくるむ。
それをクルトに渡してやって、シャンテナはだらりと壁にもたれた。
森と晴天を表現していた水晶庭の中身は、殆どが青玉と翡翠で占められていたが、一つだけ金貨ほどの大きさの金の円盤が混じっていた。これが太陽をあらわしていたのだ。
最後に円盤を取り出したあと、シャンテナはしばらく動けなかった。
体力も精神力も限界だった。
ぐったり椅子に背を預けて黙ってしまった彼女に、クルトが慌てて水を運んできた。
一日に二度の取り出し作業は今までしたことがなかった。
できればもう二度としたくない。最後は目がかすみ、手が震えていた。
それでもこの面倒から、一刻でも早く開放されたいがために、シャンテナは気力を振り絞ったのだった。
そのかいあって、これでこの疫病神ともおさらばである。
窓を開けると、夜も更け、月が高く昇っていた。
いつもだったら、夕食も済ませて、床に就く準備を始めるころだ。
「これ、お礼です。足りなければ言ってください、上と掛け合ってみますから」
ようやく目的を果たせた青年は晴れやかな笑顔である。あざはまだくっきりしているが。
差し出された皮袋の重さに、シャンテナはちょっと驚いて、その場で封を開けた。
ぎっしりと金貨が詰まっていた。
「これは貰いすぎよ」
「いえ、これにはその」
口ごもったその先を察して、シャンテナはそれ以上何も言わなかった。
この中には口止め料が含まれているということだろう。
「それじゃあ、俺はこれで。タッセケイルさん、本当にありがとうございまし……」
彼の言葉を遮ったのは、豪快な腹の虫の声だった。
ばっとお腹を押さえたあと、クルトは困り顔の前で手を合わせた。
「あの、どこかいい酒場を知りません? この時間じゃあ、小料理屋なんて閉まってるし」
本当に、この男が王太子の近衛など務まるのだろうか。緊張感の欠片もない。
作業前から持続していたシャンテナの怒りは呆れに変わってしまった。
打たれ強いというか鈍いというか。クルトと話していると、肩透かしを食らった気分になる。かりかりしている自分が馬鹿らしくなってくるのだ。まともに取り合うだけ無駄なのだろう。シャンテナはそう結論付けた。
「ちょっと待って」
張った肩をこきこき鳴らし、作業部屋に戻る。
ふと思いついてあるものを懐にしまうと、作業着の上に一枚上着を羽織った。
皮袋を机の上に無造作に放って、家の鍵を取る。
「案内する。料理する気にもならないから、私も酒場に行くわ」
「えっ」
「嫌なら結構。同席する必要もなし」
そっけなく言って、玄関に鍵をかけ、高い位置にある青年の顔を見上げた。
あざのある顔をぶぶぶんと振ると、青年の月光で淡く染まった赤い髪がばさばさ揺れる。
「いえ! 是非!」
「なんでそんなに嬉しそうなのよ」
「誰かと食事するの、久々なんですよー。いつも仕事で適当に済ませるから。タッセケイルさん、お酒いけますか」
「仕事中に飲酒していいわけ」
「あ、……な、内緒にしてください」
「じゃあ、会計はそっちもちで」
「そんなあ! 経費の認可下りなかったら自腹なんですよ!」
「声が大きいよ、近所迷惑」
口を両手で塞いで、クルトは辺りを見回す。
「大げさ」
辺りの民家はまだぽつぽつと明かりが灯っている。
完全にこの町が寝静まるまではいま少しの猶予があるだろう。
夜気は涼しく、疲れた体を優しく撫でていく。シャンテナは重たい足で石畳を歩き出した。横に上機嫌なクルトが並んだ。
ふたりの背後に伸びた影。それを見送る人影に、ふたりは気付かなかった。
国璽というのは
国のだいじな書類に押すはんこ です。