<39>朝日を浴びて煌めくものは
「貴様……どうやってここが」
フラスメンが息を飲んだのがわかった。
ごみでも掴むように無造作に、クルトが引きずっていたのは、両腕をもがれたアーメインだった。すでに事切れている。額に穿たれた穴からは、夥しいほどの血が流れていた。その凄惨な様子に、シャンテナは息を詰まらせた。
クルトは、アーメインの亡骸をフラスメンに向けて放り出した。
「これがお前の腹心か。後ろも確認せずに歩くこの木偶が。それとも、勝ちを確信して、詰めを誤ったのか?」
嘲る声は平坦だった。
「おのれ!」
いきり立ったフラスメンの配下が、拘束していたシャンテナを突き飛ばしてクルトに切りかかったが、勝負は一瞬だった。
くるりと切っ先で相手の剣をいなしたクルトは、流れる動作で眉間に剣を突き立てた。男は、剣を取り落とし、恐怖と驚愕に満ちた顔でクルトを凝視する。そして、崩折れた。彼がぶつかった棚から、しまわれていた化粧箱が落ち、中身が転げ出た。けたたましい音がする。
シャンテナは目を見開いた。今、転げ落ちたのは、まさか――。
「失せろ。ここもじきに火の手が回る」
冷ややかなクルトの言葉に、床に這っていた男がのろのろ立ち上がり、肩を押さえて後ずさる。戦意を喪失しているのは明らかだ。じりじりと後退し、突如現れたこの戦鬼から距離をとろうとしている。
「行け!」
恫喝は、まさに雷だった。
男は、弾かれたように立ち上がり、タペストリーとは反対側にあるドアの向こうへと消えた。主であるフラスメンのことなど目に入らぬ様子で。
「貴様もだ。フラスメン」
「なに?」
さすがというべきか、焦る様子もなく、フラスメンはその場で一部始終を見ていた。だが、表情は硬い。
「死にたくなければすぐにここを出ろ。それとも、潔く死にたいとでも?」
クルトがフラスメンに向けて、剣を構えた。この距離であれば、確実に、彼は老人を殺すだろう。
フラスメンは、しばらく無言だったが、やがて、徐に踵を返し、部屋を出て行った。タペストリーのあったほうではない、きちんとドアのある、出口から。
クルトは剣を構えたまま、それを見送る。追撃はしなかった。
「……クルト……」
クルトの周りにあった張り詰めた殺気がゆっくりと霧散していった。
そして、振り返る。
灰色の目には、もう先ほどの怒りはなかった。むしろ、泣き出しそうな、途方に暮れたような顔をしている。
彼は素早くシャンテナの傍らにしゃがみこむと、拘束する縄を切り落とした。自由になったシャンテナの手首には、くっきりと紫の痕が残っていた。幸い、手首の骨は、無事のようだ。だが、指先は土と血で酷いものだった。地下道で、土砂を掘り返したときにできた傷だ。職人は手を大切にしなければならないということすら忘れて、必死に土砂に挑んだ。本来は言語道断の愚かな行為だが――後悔していない。
クルトが、労わるように自分の手でシャンテナの手を包み込んだ。
血流が滞り、冷え切ってしまったシャンテナの手に、クルトの手の熱が伝わる。
「遅くなってしまって、すみません」
ここへ戻ろうとするアーメインを尾行してきたのだけれど、老人は歩くのが遅くて、と少し笑った。
彼はシャンテナの怪我のひとつひとつに触れ、程度を確認していった。触れられるたび痛みを感じ、シャンテナは顔をしかめる。
まるで、自分が殴られたように、クルトは眉根を寄せ、泣きそうな顔をしている。それは、いつもの優しい彼だった。剣を握っているときのクルトではなく。
「クルト」
「はい」
頬の打撲傷に触れた彼の手に、自分の手を重ねて、シャンテナは彼の名前を呼んだ。
「無事で、よかったぁ」
言葉にした途端、涙がこぼれた。
殴られても、殴られても、こぼさなかった涙があふれてしまって、どうする事もできない。涙腺が壊れてしまったのだろうか。子供のようにしゃくりあげ、止まらない涙を隠そうと、傷だらけの手で目元を覆った。
その小さく縮こまった身体が、抱きしめられる。クルトの大きな手が、シャンテナの背をあやすように優しく撫でた。
「もう大丈夫です。もう、大丈夫」
耳元で、強くそう言われた途端、体の震えが止まらなくなった。恐ろしかった。痛かった。誰かに助けて欲しかった。
――誰に?
それはもう、決まっていた。
クルトの腕の力が、よりいっそう強まる。怪我が痛むほどだったが、シャンテナはそれでもよかった。彼が生きていると実感できるから。
「死んでしまったかと思った」
「……守るって約束したじゃないですか。俺が死んだら、誰があなたを守るんです。……いや、でも、――俺は、約束を果たせなかった。こんなに怪我させて」
苦渋に満ちた声。胸に怪我をしたときと同じ声だ。
シャンテナは首を振った。
「こうして、助けに来てくれた」
目が合い、かすかに微笑みあったあと、自然と唇は重なっていた。触れるだけの口付け。クルトの唇は、シャンテナのあざのできた頬に、切れた即頭部に、涙をこぼす瞼に触れる。
優しいその感触に、シャンテナは、恐怖と緊張で萎縮していた自分の心臓が再び動き出すような気がした。
もう一度それが欲しくて、視線を絡め、顔を近付ける。
「あー、その……。いいところを邪魔して、大変心苦しいんだが、そろそろ、ここも危ないから避難しないか、ふたりとも」
出入り口に、困り顔のカークが立っていた。
クルトの顔がみるみるうちに朱に染まった。もちろん、シャンテナも同じだ。
「か、カーク! どうしてここに!」
クルトの声は見事に裏返った。
「交信が急に途絶えたらから、殿下が俺たちをすぐに地下道の出口に配備したのさ。場所が定かではなかったけれど、城の近くだというから、数人ごとに散ってめぼしい出口を固めていたら、なんと摂政の私邸が火事だという。こりゃなにかあると思ったわけだよ」
カークは手を叩いた。
「さあさあ、ぼやぼやしていられないぞ。火はもうすぐそこだ」
たしかに、煙が部屋まで侵入してきており、息苦しくなりつつあった。
階下からはものの崩れる音がひっきりなしに聞こえてくる。
「大丈夫だ。こちらの隠し通路を通れば、すぐに外に出られる」
「ちょっと待って」
クルトに抱き起こされたシャンテナは、そのまま逃げようとする男たちを呼び止めた。
「シャンテナ嬢、あまり時間が」
「すぐに済むから」
クルトの腕を離れ、シャンテナは棚の前に立った。
死体の隣に落ちていたのは、見覚えがある、いや、ずっと探し求めていた、銀の光。
「見つけた」
シャンテナは歓喜のため息をついた。
一角獣の向き合う彫刻のある箱。
シャンテナが捜し求めていた、自分の水晶庭の工具だ。蓋を開け、中身を確認する。すべて揃っていた。手付かずだ。
がしゃん、と大きな音がした。廊下まで火が回り、そこの窓に嵌められていたガラスが割れたようだ。煙も酷く、目にしみてくる。
「シャンテナ嬢!」
「シャンテナさん!」
クルトとカークが焦って叫ぶ。
だが、シャンテナは落ち着きはらった態度で、工具箱から二本のたがねを取り出すと、フラスメンが座っていた机のうしろにある窓へと歩み寄った。歩くたびに全身が痛むが、今はどうでもよかった。
窓から外を見ると、火事に惹きつけられて集まった野次馬が、敷地の周り一杯に溢れていた。
人ごみの中、悔しげな表情の老人を見つけ、シャンテナは目を眇めた。それは、いつになく鋭い目つき。
彼女は両手に一本ずつたがねを持つと、窓のガラスに突き立てた。そのまま、右手、左手で同時に違う文字を、まるでペンを扱うように彫り記す。
それは、たがねにも彫り込まれている失われた魔法文字だった。
「火の精! お前の怒りをここに!」
叫びにあわせて、豪風が起きた。建物の骨格自体を揺らす、強烈な風。外の観客が悲鳴を上げる。クルトとカークの悲鳴も聞こえた。
光を放った銀のたがねは、魔法文字を刻み込んだ窓のガラスを差し示している。そこめがけて、螺旋を描いた炎の蛇が、猛烈な勢いで飛び込んできた。クルトとカークの鼻先を掠めて。
黄金の光を撒き散らして、炎は板ガラスの中に吸収された。だが、今にも突き破れそうに、ガラスはガタガタと鳴り、激しく振動している。赤く渦巻く炎が、ガラスの中で暴れまわっているのだ。
クルトとカークはぎょっとした。
激しく燃えていた廊下の炎が綺麗さっぱり消えている。おそらく、階下も同じ状態だろう。
「土の精、完全な形を」
窓のガラスが、忽然と消失し、シャンテナの髪の毛が風を正面から受けて、滝のように背後になびいた。
目をむくクルトとカークは、しかし、シャンテナの手元を見て、ガラスが消えたのではないと気付いた。大きな、両手でようやく持てるほどのガラス玉が彼女の手の内にある。
荒々しい炎が封じられたガラス玉は、ゆっくりと回転していた。
「水晶庭師が、宝石しか封印できないと思った?」
目は剣呑な光を宿したまま、唇を笑みの形にして、シャンテナは背後のふたりに問いかけた。
ふたりはこくんと頷いた。驚いたというよりなにより、シャンテナの笑みが恐くて仕方がない。あれは何か悪いことを考えている顔だ。
「大気の精よ、お前の風を」
ガラス玉がシャンテナの手を離れ、ふわりと空中に浮かぶ。光るたがねの示した方向へ、ゆっくりと水平に移動し、そして。
「あ」
シャンテナの背後に歩み寄ったクルトが、間抜けな声を上げた。
ガラス玉は、見事、群衆の中のフラスメンの頭頂に直撃し、老人はもんどりうってその場に倒れた。
「これくらいの仕返し、許されるはずだわ」
地面に落ちたガラス玉は砕け、炎の光を失い、ただのガラス片になる。フラスメンの近くにいた野次馬たちが、火事で落ちてきた建材と勘違いして、ざあっと逃げていく。倒れた哀れな老人に手を貸す人間はいない。
フラスメンの頭の周りに散らばったガラス片が、きらきらと太陽の光を反射していた。
「ガラスもいいものね、面倒が少なくて。割れてしまえば、こうして何の証拠も残らない」
クルトとカークはひきつり笑いを浮かべたまま、顔を見合わせた。
シャンテナは、両手を腰に当てて、ひとつ大きくため息をついた。吐息は、朝の冷えた空気に流され消えた。
三人は、隠し通路からこっそり外へ出ると、地下道を通り、城へ帰還した。
火事は、その場にいたフラスメンが、エウス神の加護で消火したと、信者の間ではもちきりだった。
反面、そもそも火事が神罰だったのではないかという話も、まことしやかに囁かれたのだった。




