<31>かたわらの赤毛の剣士のみたものは その4
今日もまだだめか。
シャンテナの硬い態度に内心ため息をついて、クルトはマルクリルの手綱を引いた。トーロの家を辞したあとに彼女を怒らせてから数日経っているが、まだほとぼりは冷めないらしい。ある意味すごいことである。怒りを持続させるには気力がいる。
あるいは、それでも許せないほど、自分は酷いことを言ったのかもしれない。もしそうなら、関係の修復は無理なのだろうか。……もしくは不快だったのだろうか、結婚の話なんか急に持ち出したから。だがあれは話の流れがあったからだ。
ため息が口からこぼれそうになって、唇を引き結ぶ。
謝って済むならそうしたいところだ。とはいえ、ちゃんとした原因もわからないのに、下手に謝れば火に油を注ぐ結果になることくらいわかった。今まで何度も同じことをしてきたのだ。かと言って、なんで怒ってるんですかと尋ねるのは愚策だ。さらに機嫌を損ねては困る。これ以上は辛い。話しかけも無視されるようにでもなったら、心が折れそうだ。本当はもっと和やかに楽しく行きたいのだ。たとえ、これがそんな呑気な目的の旅じゃないとしても。
不思議なことに、彼女は態度を硬化させておきながら、気を遣ってもくれるのだ。間食に自分のお金で買ったものをわけてくれたり、宿では洗濯をしてくれたり(下着はクルトのほうが謹んで辞退している)。昨日は、馬具で手になんということもない擦り傷を作ったのだが、放置しておいても問題ないそれに塗るようにと、いつかクルトが買い求めた軟膏を出してきた。大丈夫だと言ったら、睨まれたので渋々塗ったのだが……。そういうことをされるから、調子も狂う。もしかして気持ち悪がられてはいないのか、あるいは許してくれたのかなと、淡い期待を抱くのだ。
そんなことに心を惑わせていたせいで、大事な情報を掴み損なってしまったのだろうか。注意力の欠如を、またも悔やみながら、クルトはその日シャンテナに告げた。
今晩は野宿だということを。
× × × × ×
かまどづくりは作業が遅くて、よく先輩方に叱られたなあと、懐かしく思いながらクルトは火を入れた。軍に入りたてのころに、新人たちは野営で必要な知識と技術も学ぶ。習っておいてよかった、こんなときに役立つとは想定外だったが。
水を汲むため目の前の川でしゃがみこんだシャンテナの後ろ姿を見て、クルトは嘆息した。なんて間抜けなんだろう。まさかこんなところで野宿になるなんて。もっとうまく情報を集められなかったのかと、自責の念が浮かんでくる。
野宿をしたことがないわけじゃない。だからこそ、休んだ気にはならないことや、不便さもわかっている。今日も一日移動し続けて、シャンテナは疲れているはずなのだ。なのに野宿を強いられている。そのことにひどく落ち込んだ。
ただ、救われたのは、彼女がまったく弱音を吐かなかったことだ。ここまでの道中でもそうだが、彼女は我慢強いほうだろうと思う。その根性に、今日は大いに助けられた。もしここで盛大に責められたら、しばらく立ち直れそうになかった。そのくらいのことをされても仕方がないほど間抜けだったという自覚はあった。
惜しむべくは、これでおそらく完全に、彼女の信頼は取り戻せなくなっただろうと確信できたことか。
その事実は、ずしりと胸にのしかかってきた。
結局、食事中も会話も弾まず。どういうわけかリンゴをくれた彼女の気まぐれが、逆に胸に痛かった。自分から差し出したイチジクは受け取ってもらえなかったのがなお悲しい。
食後は、変に話しかけても、シャンテナも気が休まらないしむしろ迷惑だろうと、読みづらい状態ではあったが、すっかり頭に入っている地図をもう一度確認していた。ここからの道は複雑さの欠片もないのだが、することもなくて、ぼうっとしていると気詰まりになりそうだったから。
不意に、隣から小さなくしゃみが聞こえた。シャンテナが肩を抱くようにして、身震いしていた。
また自分の気の利かなさにうんざりする。自戒も込めて、着ていたものをシャンテナに差し出した。馬鹿は風邪引かないとよく揶揄されるが、実際、体調不良と縁がないのが自分の長所だとも思っている。だから躊躇なく外套を提供したのだが、――こういうときに限って、くしゃみが出てしまった。当然呆れた顔をされて、もう恥ずかしいやら情けないやら。バツの悪さを隠すため、荷物から薄手の外套を引っ張り出した。
「はい」
声を掛けられ、クルトは硬直した。
シャンテナが、貸し与えた外套の前を開いて目配せしてくる。要するに、隣に入れというのだ、彼女は。
――なんだろう、これは。罠かな。もしかして、お前の汚い外套なんて羽織ってられるかとか言われるのだろうか。
瞬間的に身構えたものの、そういえば彼女は怒っていても親切だったと思い出し、恐る恐る隣に座った。嫌がられると思い、なんとか接触しないようにしたのだが、それは土台無理な話だった。彼女の薄い肩や腕に自分のものがぶつかってしまう。だが、シャンテナは特になにも言わなかった。それどころか、自分からこちらに寄りかかってきたのだ。
重みも体温も心地よいのに、一瞬で心拍数があがった。密着することなんてよくあるのだが、彼女のほうからそれを許してくれたことに、にわかに期待する。
今なら、謝ってもいいだろうか。
「ありがとう」
そんな考えは、シャンテナの言葉一つで吹き飛んでしまった。まさか、礼を言われるとは。
しかも、怒ってない顔で。ちょっと緊張したような、でも真剣な面持ちで。
嬉しくなって、うっかり、「すみませんでした」が口から出る機会を失ってしまった。
× × × × ×
やはり、相当疲れていたらしい。くだらないことを話しているうちに、言葉が不明瞭になってきたなと思ったら、シャンテナはぱたりと眠りに落ちてしまった。クルトの肩に寄りかかったまま。同じ姿勢でいるのは少し辛いが、肩の温かさや重み、近くで聞こえるかすかな寝息が心地よく、身じろいで起こしたくないという気持ちも相まって、そのまま我慢した。彼女の肩に掛かっている外套がずり落ちそうになったので、それを直すときに少しだけ姿勢を崩す。
はずみで、シャンテナの顔が少し仰向いた。さらさらと、黒髪が一房頬に落ちかかる。
相変わらず、幼い印象の寝顔だった。こんな状況でも、安心しきっているのか、うっすら唇を開いて無防備に寝息を立てている。いつもこの顔だ。この様子を見ている限り、自分は彼女に嫌われていないと解釈していいのだろうか。……都合よく、そう思い込むことも、気力の維持には必要なのかもしれない。
クルトは目を閉じ、あの日、最後まで言えなかった言葉を思い出す。
――ほら、だって、ちょうどいいじゃないですか。お互いの諸条件を鑑みてください。俺も、いずれは自分の剣技を、できれば自分の子供に受け継ぎたいので、できれば奥さんほしいですし、シャンテナさんだってご自分の技術を引き継ぎたいでしょう。お互い都合がいいし、なにより俺はシャンテナさんが奥さんになってくれたら嬉しいんですがね、もっと仲良くなりたいなー、なんて。
そのときになって、はっとした。もう一度自分の言葉を反芻して、思い当たることが間違いではないのではと考える。
シャンテナが怒り出したのは、もしかして、ちょうどいいとか都合がいいとか、その口実が不快だったからなのかもしれない。思い返すほどに、その確信は強くなる。
あああ、と頭を抱えたくなった。わずかな動きに反応し、隣から「んん……」とむずかるような声が聞こえ、慌てて動きを止める。
言葉の選択が下手なのは、自分でよくわかっていたが、まさかこんな失態を。そう思う気持ちと、それだけ嫌な思いをさせておきながらも、時々親切だった彼女との関係の修復――それから発展も――はまだのぞみがあるんじゃないかという、図々しくも嬉しい気持ちが、胸の中で混ざり合う。
次にそういうことを話す時は、今回の反省を生かし、冗談交じりに言うのはよして、要点だけを伝えよう。
もう一度、シャンテナの寝顔を見て、ほっとしたような気持ちになって、クルトも休むために目をつぶった。
× × × × ×
翌朝、クルトが「あのときは失礼な事を言って、すみませんでした」と謝ると、お茶をすすりながらシャンテナは首を傾げた。
「何の話?」
顔が少し赤かったし、きっと意味は通じているんだろうと思うが、その白々しい態度に突っ込んでまた藪蛇になるといけないので、クルトは「いえ」と小さく首を横に振って、一晩世話になったかまどを始末したのだった。




