<30>かたわらの赤毛の剣士のみたものは その3
ひとり旅とは勝手が違うとはいえ、こんなにもいざこざ続きになるものなのだろうか。
クルトは、腕の中で息苦しそうに身を硬くしているシャンテナを抱え直し、マルクリルの手綱を引いた。老馬の歩みにあわせて、泥が跳ぶ。もう少しでシロジなのだとわかっているのに、気が急いた。
先程から、シャンテナは苦しげに浅い息を速く繰り返しているだけで喋らない。喋れないのだろう。まさか、彼女が毒入りのお菓子をつまみ食いするとは思ってなかった。ベルグを護衛しているとき、彼は自然と、信頼できる相手の提供したもの以外は口にするのを避けていたから、それが当然と思って、シャンテナに注意をしなかったのだ。手落ちだった。苦々しく思うが、今はそれより一刻も早く、医術の心得のある者に診てもらわなければならない状況だ。
幸いにも、シロジには王太子派である、昔の典医の家系のトーロという男が診療所を開いている。もちろん、秘密裏にだが。念のため、通過予定の町の協力者を覚えていてよかったと、このときほど思ったことはない。
不安げに自分の手を握りしめてくるシャンテナを励ましながら、クルトはさらにマルクリルを急がせた。
いつも毅然としているシャンテナが、苦しみ怯えて自分にすがってくることが、クルトの焦りを助長させた。
× × × × ×
結果として、シャンテナが摂取した毒は命に影響はなく、数日の休息と治療で持ち直すだろうとわかった。そのとき、クルトは剣神ヴァルーガに感謝の祈りを捧げずにはいられなかった。
村人が、自分たちに毒を盛ったとして、本当にフラスメンの標的かどうかの人定を経て殺害、もしくは王太子を脅迫するだろうから、致死毒である可能性は低いと踏んでいた。それでも、緊張で強張っていた肩の筋肉の力が抜けるくらいに、安堵したのだ。我ながらいささか大げさだと、クルトは思った。
クルトはあまり物事を複雑に考えるのは苦手だ。その自覚もある。任務での護衛対象だとか、彼女になにかあったらベルグの展望も潰れてしまうとかそういう難しく回りくどいことは関係なしに、自分は彼女に無事でいてほしいのだとすんなり納得した。
それはそうだ。数日とはいえ、一緒に食事をし、一日中馬の背で揺られ、寝るときも一緒で。たまに、互いの身の上話までした。その身の上話には、相手を心底信頼しなければ話せない情報も含まれていた。国璽のこと、自分たちの隠れた仕事のこと。
そんな相手を、みすみす目の前で死なせるわけにはいかない。ましてや彼女は、まだ年若い女の子で、自分が守るからと唆して村を出てきたのだ。何がなんでも、ラーバンへ送り届けなければならない。
× × × × ×
シロジには、トーロの他にも王太子に協力してくれる人がいる。伝書鷹を飼育・管理しているエネサもそのひとりだ。絵に描いたような太鼓腹の、初老の男。狩猟を生業にし生活しているのだが、元は都に住んでいた軍人だった。軍では、連絡係をやっていたらしい。
彼の住処は、街の外れだ。他の民家からかなり距離のある広い土地に、ぽつんと住居を構え、近くに馬房や納屋を備えている。狩りに連れて行く犬や馬など、沢山の動物を飼育しているので、彼の家の周りは獣のにおいがする。
クルトはトーロの家から引いてきたマルクリルを彼の家の馬房に預けることにしていた。数日の滞在中、トーロの家にマルクリルを置いておいて、アシがついても困るからだ。人間は屋内に入ってしまえば、姿をくらませることもできるが、馬を家にいれるわけにはいかない。木を隠すなら森の中とでも言うか、十頭を越える馬を飼育しているなかの、空きの馬房に、一頭見慣れぬ馬が増えたところで、気付く人もいないだろう。
クルトはエネサの管理している鷹に、自分で作成した暗号文を括り付けた。あとはエネサに任せれば、数日中に、ラーバンへこの報告書を届けてくれるはずだ。
文書には今回の毒の件の報告、予定の進路を変更する話、手配してほしいものの依頼などを書き込んでいる。
寡黙なエネサとは話も弾まず、用件だけを済ませて、クルトはトーロの家に戻った。
一見、ちょっと裕福な民家という外観のトーロの家は、知る人ぞ知る診療所なのだが、表向きはそんな雰囲気はない。天気が悪いせいか、彼の家の前の路地を歩く人はいなかった。好都合だ。
さっとあたりをうかがって、人の気配がないことを確認のうえ、玄関に滑り込んだ。
途端に、ふわりと食欲をそそる食べ物のにおいがして、しばらく忘れていた空腹感が急速に強くなってくる。旅に出てから、食事はまさに補給であって、ゆっくり座って楽しいおしゃべりをしながらという機会はなかった。食堂などに行くと、シャンテナもスカーフを目深に被って、大急ぎで食べることだけに集中しているので、和やかになりようもないのだ。
だが、今晩は、久々に落ち着いて食事ができそうだ。きっと彼女も、ほっとできることだろう。体調がすぐれないときこそ、そういう精神的な安定も必要だということを、クルトは経験から知っている。たしか、トーロの家を出るとき、シャンテナは風呂にはいると言っていた。疲れも抜けただろうか。
人の気配をたどり、食堂に踏み込んで、クルトは目を瞬かせた。
壁際の棚に手を置くような格好で立っていたのは、シャンテナだ。いつもと同じ、力のある黒い目。しかし、いつもと違って、服装はまるでそのへんの少女のような、ワンピース姿だった。キナのものだろうか。若草色の、前をボタンで留める作りの簡素なもの。特徴と言えるのは、ふんわりと膨らんだ袖くらいで、きっと街中を歩いていたら誰も目を留めることのない、目立たないものだ。
ただ、その背に艶のある黒髪を流して、こちらを振り向いたシャンテナを見て、なぜか息を飲んでしまった。
これまで見てきた旅装や作業着に隠されてきた、細い首とそこからつながる鎖骨が襟ぐりから見え、若木を彷彿とさせるしなやかな腰が、後ろで結んだ幅広のリボンで強調されているからだろうか。
この子、綺麗な子だったんだなあと謎の感慨にふけりながらも、彼女が旅装を解いて普通の格好ができる環境になんとか連れて来られたのだと安堵した。
じろじろ見すぎたのか、シャンテナの機嫌を損ねてしまったのは、焦ったが。
× × × × ×
深夜というにはまだ早い時間帯。
シャンテナとキナがそれぞれ部屋に引っ込んだあと、クルトも薬湯風呂をもらい、さらにはトーロお手製の薬草入りの蜂蜜酒をごちそうになった。酒、と言っても甘く弱いものだ。飲むと体が芯から温まるような気がする程度。あまり酒に強くないクルトでも酔った実感はなかった。
「彼女に薬湯を持っていってくれ。酒が入っていると、喉に刺激が強いからこっちのほうがいいだろう」
トーロは秘密の薬棚からいくつかの薬草を取り出して煎じ始めた。クルトはその作業を眺めた。シャンテナの作業風景を見たときとはまた違って、興味深い。彼はまるで計りを使おうとしないが、よどみなく、数種類の草を必要量取り出し、切り分ける。熟練しているのだと感じさせる動きだった。
「しかし、君も大変だね。王太子殿下のためとはいえ、都には家族もいるだろうし、心配にもなるんじゃないか」
「まあ、両親は年齢のわりに元気ですし、兄弟は全員俺よりしっかりしてますから。あんまり心配はしていませんね」
「失礼だけど、君、結婚は?」
「してませんよ」
クルトは苦笑した。自分くらいの年齢なら、子供のひとりやふたりいるのが平均だ。トーロの反応も理解できた。
「ちょっといろいろ事情がありまして、結婚にはなかなか。この秘密の職業を持つトーロさんにはわかってもらえるかと思いますが」
「なるほど」
それですべてを察したらしい。トーロは作業台に目を戻す。手の動きは続いていた。
「だったら、年寄りの寝言と思って聞いてくれないかな。うちは、キナが生まれるまでなかなか子宝に恵まれなくてね。あの子が生まれたとき、妻は泣いて喜んだんだ。その妻は病弱で、私が彼女の治療をずっとしてきた。私が検挙されて拘束されている間、妻は満足な治療を受けられず、戻ってきたときには亡くなっていたよ。教会の出した薬じゃ、彼女の病に効かなかったのか、私の処遇が心労になったのか――。
ともかく、そういうことがあって、私はますます、かの摂政は鬼畜だと認識を改め、絶対にこの技でやつの政治に苦しむ人を救うのだと決め、この街に来た。
だがね、そのせいでキナの未来を制限しているのではないか、本来あの子が当たり前のように受け取れる喜びを遠ざけているんじゃないかと思うんだ。なにせこの家業があっては、おいそれと結婚もできない。私に気を遣ってか、後を継ぐなんて言ってくれたが――それでいいのかと」
クルトは目を伏せてその話を聞いていた。
トーロの言うことはわかる。クルトも同じ事情があって、縁談に漕ぎ着けるのは難しい立場だ。もちろん、商人という生業の、顔の広い養父母のことだから、頼めばいい相手を探してくれるかもしれないし、自分が獅子剣神団に属していた過去を捨て去ればいい。体中の傷は、見た相手は引くだろうが、名誉の負傷だとか適当にごまかすこともできるだろう。だが、それでいいのかと、その選択肢がちらつくたびに考える。
命がけで自分を逃してくれた仲間たち――もう顔もおぼろげになりつつある人たち――は、報われないのではないか。彼らの献身に報いる義務があるのではないか。
それにそれらを天秤にかけると、いつも傾きは獅子剣神団の皿のほうに向く。自分でも、この剣技を後世に残したいと強く思うのだ。先人たちが長い年月をかけて洗練させた、技術を。
「わかります。……もちろん、憧れはあるんですけどねー」
カークから娘の話を聞いたり、ベルグから妻に対する愚痴やのろけを聞くたびに。あるいは、養父母の穏やかな時間の流れを見るたびに、自分にも心許せる相手がほしいと思うことがある。信頼している人間はいるが、それとはまた違うものだろう。
「じゃあ、うちのキナはどうだね」
「は?!」
唐突な申し出に驚き、思わず身構えた。トーロはいたずらっぽく口の端に笑みを刻んで、作業を続ける。
「親の欲目だが、気立ても悪くないし、家の仕事もきちんとできる。見てくれだって、そう悪くないだろう? ちょっと喋り好きなのが困りものだがそれも愛嬌じゃないか。どうだい。娘も君だったら気にいると思うんだが。いいもんだぞ、帰ったときに嫁さんが出迎えてくれる生活っていうのは」
クルトは目をつぶって顎に手をあて、想像してみた。
任務を終え、疲れて家に帰ると、温かい食事が用意されていて、エプロンで手を拭きながら出てきた彼女が、「おかえりなさい」と言ってくれる。
簡素なワンピースの裾を翻して、調理場から出てきたシャンテナは、少しだけ微笑むのだ。
――いやいや、キナさんのこと考えてるのになんでシャンテナさんが。
しかし、首をひねっても、腕を組んでみてもなかなかキナのことが思い描けなかった。そして理由がわかった。彼女の顔をはっきり覚えてないのだ。
「父ちゃん! かまど、火をつけっぱなしだったよ! 危ないでしょ」
怒り心頭という様子のキナが、ずかずか部屋に入ってきて、クルトの思考は中断された。
「いや、すまんね。シャンテナに薬湯をと思って、お湯を沸かしてたんだ」
「吹きこぼれてました! まったくもうっ」
キナは腰に手を当て父を威嚇したあと、入ってきたときと同じ勢いで出ていった。
クルトとトーロは目配せし合う。
「まあ、ああいうしっかりものの奥さんも悪くないだろ」
「はは……」
「さあ、あとは抽出して濾すだけだ。彼女のところへ運んでやってくれ。……それと、さっきのことは考えておいてほしいね」
片目をつぶって、トーロは明るい調子で言った。
× × × × ×
結果として、さほど熟考する時間もなく、キナとの話はトーロのほうから取り下げられた。薬湯をシャンテナに運んだあと、廊下で会ったトーロがバツが悪そうに謝ってきたのだ。キナから「男と女でふたり旅してるのに、クルトさんが売約済みじゃないわけないでしょ」と叱られたと。
大いに勘違いされているようだが、否定してもトーロは軽く肩を竦めただけだった。男同士だろ、水臭いななどと言い。
ベッドの上で何度目かの寝返りをうち、クルトはため息をついた。
――反則だよなあ、あれは。
そんな言葉が、浮かんでくる。
薬湯を届けに行ったとき、シャンテナに袖を摘まれ引っ張られたことを思い出してしまう。不安げに、そして訴えかけるように、自分を見ていた黒い目を。ただすぐにむせてしまって、涙が浮かんでいたが。
部屋のドアを開けておこうとしたら、なんでというような顔をして、当たり前のように閉めた彼女。長時間いるのもまずいだろうと用件だけ済ませて帰ろうとしても、平気で呼び止めてくる。
きっと、まったくなんの意識もされてないから、そんなふうに接してくるんだろうとは思うのだが、それにしても無防備に過ぎるのではないか。同室に泊まったせいで、彼女の感覚は麻痺しているに違いない。
もしかして、好意を抱かれているのではないかと都合よく考えそうになったものの、干された洗濯物を見て、あっさりそれは否定された。シャンテナが、食後の空き時間にやってくれたようで「勝手に荷物開けてごめんね」と筆談で伝えてくれたのだが――そんなことより、自分の下着も当たり前のように洗われて干されていたことに、衝撃を隠せなかった。あれはたぶん、完全に男として見られてないからできたことだ。
落胆を隠せない。
目を閉じれば、ワンピース姿のシャンテナや、昼間、不安でしがみついてきた手の感触を思い出す。
悶々とした気持ちで、クルトは苦労して眠りについた。




