<26>夜半の会合
夜半。さすがにラーバンの街も眠りにつき、馬車の車輪と蹄の音が、街道に反響する。人気のなくなった通りを、馬車三台、さらに騎馬を六騎というものものしい編成で進む一団は『碧玉兎亭』の前で停車した。馬車から下車したのは、目深にフードを被った男。
帯剣した側仕えの男たちに囲まれ、その宿に踏み込んだ彼は、出迎えた女主人の前で外套を脱いだ。色濃く艶のある金の髪が、顕になる。それ自体が王冠のように輝いて見えたが、あいにく、彼はまだ戴冠していない。いずれは、主が臥せっているため空になっている玉座に就く用意はあるが。そして今晩、この宿の最上階に、彼を玉座へと押し上げる品が届けられたのだ。
足早に、宿のホールに特別に作られた秘密の階段を登る。『碧玉兎亭』のホールは街と同じに静まり返っていたが、明かりは皓々としているし、当番の者がじっとカウンターの奥に座していた。
限られた者しか入れない最上階の部屋の前、白金の髪を持つ男が佇んでいた。目が合うと、何かを押し殺したような表情でうつむく。
「ご苦労」
一声掛け、横をすり抜ける。彼がなにか言いたげに口を開閉したのだけは見えた。
× × × × ×
シャンテナは、合流したクルトとサイクスに連れられ、『碧玉兎亭』に来ていた。
既に、ツテを辿って呼ばれた医師に手当を受けたあとである。胸の怪我は、クルトの見立てと同じく打撲。肋骨が折れたりヒビが入ったりはしていないが、しばらくは呼吸するだけで痛いだろうとのことだ。今は湿布薬を当てられている。怪我は辛いが、いいこともあった。これであの鎧じみたドレス用の下着から解放されたのだ。今は、体を締め付けずに済む、ありきたりなワンピースを着せられている。ただしこれも、アリーサの用意した上等な布地のものであるが。
「馬車が到着しました。王太子殿下がお見えです」
クルトの言葉で、シャンテナはベッドの上に起き上がった。ベルグの到着まで少しだけ横になっていたが、眠気はない。処方された痛み止めは眠気を誘うと聞いていたが、興奮で抑制されたらしい。
しばらく待っていると、ドアが叩かれた。
「シャンテナ、大丈夫か。酷い打ち身だと聞いたが」
諸々の挨拶を飛ばして、大股で入室してきたベルグがベッドに歩み寄り、勢いよく腰を下ろした。はずみで、シャンテナの体は傾いだ。彼女の目は、開かれたドアの向こうで所在なげに立っているサイクスの姿を捉えていた――ドアが閉められ、その姿はすぐに見えなくなる。
「ご心配おかけいたしました。この通り、問題ありません」
シャンテナはこっくり頷いて、立ち上がる。
「それより殿下、これを」
彼女が衣装箪笥の中の、重厚な作りの金属の箱から取り出したのは、濃紺の別珍に載った首飾りである。元は綺麗な円柱形だったそれは、今、一部を欠いて痛々しい姿を晒している。
ベルグが、新緑の双眸を細め、指先でその欠けた部分に触れた。何度か繰り返し、興奮したように口の端を歪める。
「なるほどな。水晶庭がいつも透明な水晶で作られるわけじゃないってことか」
シャンテナは頷いた。彼女自身、父から受け継いだこの首飾りに、そんなものが封じられているとは夢にも思わなかった。ただ、当主として、先々代の国王から下賜された家宝のこれを、命に変えても守らねばならないと教え込まれてきた。
『魔術師の血族に託す。鍵を解けし者ならば、その在処を知る事ができよう』。王太子が言っていた、三つ目の国璽の欠片の隠し場所は、そういう意味だったのかと今は納得できる。
「よくやった、シャンテナ。お前も国璽も無事で嬉しいぞ」
「いえ、殿下。実は問題が」
「問題?」
「こちらを御覧ください」
シャンテナが目配せすると、クルトがテーブルを引きずってきた。その上にはシャンテナがいつも身につけていた銀の棒簪が載っている。彼女は椅子に座って、ピンに手をかざした。
『土の精、お前の技芸を』
黒い目が赤く光ると、銀のピンに魔法文字が光を放ちながら浮き上がる。ランプの光を凌駕する光量は、暗さに慣れた目がくらむほどだ。長い黒髪が風も無いのにざわめくのに合わせて、王太子を護衛してきた背後の男たちがさんざめいた。ここにいる人間の殆どが、年齢的に、魔術を目の当たりにするのは初めてのはずだ。もしかするとクルト以外は、誰も見たことがないかもしれない。
「これは奪われた水晶庭用の工具の一つの針です。身につけていて難を逃れました。これだけでは摘出作業はできませんが、この石に隠された魔術を探ることくらいはできます」
銀針は翡翠の表面を波立たせ、中から顔を出している金の板に触れた。
次の瞬間、強烈な閃光がほとばしった。破裂音とともに切っ先が弾かれ、シャンテナは銀針を取り落とす。
取り落とした針からは急速に光が消え、部屋が暗くなる。翡翠の首飾りの表面にぼんやりと光が灯り、それが机上に投影された。
『グレア・エヴァンス作。エヴァンスの末裔よ。解錠せんとするならば、フォエドロに求めよ。鍵はミュテシーのみが持つ』
室内がしんとする。
沈黙を破ったのは、王太子だった。
「それで、どういうことだ、魔術師」
彼は自ら落ちた銀の針を拾い上げ、シャンテナに手渡した。
「これは、水晶庭師が、自分たちの作品と技術を守るために作品にかける結界です。私たちは鍵と呼んでいます。鍵をかけたのは、ミュテシー家の者のようですが、これは特殊で、解錠にはフォエドロ家の工具が必要のようです」
グレアは、シャンテナの祖父だ。
おそらく、ほか二作をシュプワ氏が守ることにしたとき、同じく、最後の一つを、辺境に隠れ住むことにしたエヴァンスに託すことにした。そして、首飾りは家宝としてシャンテナの代まで伝えられてきたのだろう。
「つまりなにか。この最後の一つはたとえお前さんの工具があっても、取り出せないってことか?」
ベルグ王太子が、鋭い視線を投げ掛けてくる。
「……はい、申し訳ありません……」
「別に責めちゃいねーよ」
おもむろに伸びてきた手に、頭をわしわしとなでられて、シャンテナは悲鳴をあげた。
びっくりしたし、なにより痛い。
「大手柄じゃねえか。最後の一つもそろったし、回収の方法はわかった。あとは俺の仕事だ」
「殿下」
「よくやってくれた」
満面の笑みを見せられて、不覚にもシャンテナは顔が熱くなった。距離が近かったからかもしれないし、思ったより、人好きのする顔だったからかもしれない。
その動揺のせいで、頬へのキスをそのまま受け入れてしまった。
部屋の空気が固まる。シャンテナは完全に凍っていた。
「で、で、で、で、殿下?!」
慌ててシャンテナを引き寄せたのは、クルトだ。全身で王太子を威嚇している。当のシャンテナは、反射的に手の甲で頬を拭ったあと、もしやこれで不敬罪に問われたりしないよな、と考えた。あまり嬉しくない――というか、ちょっと嫌だった。
ベルグは余裕の表情で、ふたりの態度に言及するつもりはなさそうだった。
「お前さんはもしかすると、俺の勝利の女神かもしれねえな。さあ、今日はもう休め、怪我もしてることだし。俺たちも、今晩は帰ることにする。この部屋は好きに使え。必要なものがあれば適宜取り寄せろ」
立ち上がったベルグの言葉を聞いて、部屋に詰めていた護衛たちが、外へ出ていく。帰路の護衛の準備を始めるのだろう。シャンテナに対するベルグの行動にも、誰ひとり動揺した様子がないのは、さすが専門職というべきか、それともこういう状況に免疫があるのか。
「殿下、ひとつよろしいですか」
気を取り直すように、クルトが小さく咳払いして、呼びかけた。
ベルグは、顎をしゃくって次を促す。
「今後の、彼女の護衛、俺に任せてもらえませんか」
「ほう……? まあ、サイクスには荷が勝ちすぎたようだからな。やりたそうにしていたから任せたんだが、力不足だったかね。あいつは護衛には向かないな」
「殿下、サイクスさんに落ち度はありません」
異論を述べたのは、シャンテナだ。クルトが衝撃を受けたような顔をしたが、構わず続けた。
「襲撃の際、途中まではこちらが優勢でした。それが、目くらましがあって」
「聞いている。太陽が破裂したような光と、でかい音だったらしいな。東方で開発された火薬か」
「いえ、きっと、魔術道具の一つだと思います。といっても、私の知る物質を操る系統のものとは違うのでしょうが。あれだけの光が出る火薬を、もし使用したなら、必ずにおいがするはずです。でも、それがなかった。あれは予期できなかったことだと思います」
「それくらいで動揺する編成を組むのが悪いだろ」
「準備期間が短かったではないでしょうか」
「やけにサイクスの肩を持つね、お前」
「うまくいかなかったとはいえ、彼に守られたので、あまり厳しい処断をされると困ります」
いろいろ、思うところはあるにせよ、サイクスが危険を顧みず、シャンテナのために剣を持って身を挺して護衛してくれたのは事実だ。自分のために命の危険を冒したのに、評価を下げられるのは見ていられない。
とはいえ、常に体を張っている軍属の人間、あるいは戦の経験がある人間からすれば、なにを甘いことを、と思われることも承知だった。
最終的にはベルグの判断に委ねられている。それに変わりはない。
「今回は結果として、お前も助かり、国璽も見つかったから、厳しく罰するつもりはない。だが、これが通常の要人警護だったら、首が飛んでたかもしれない。だから、担務を変更する。奴に護衛は向かないが、失せ物探しは得意だからな。ミュテシーとフォエドロの血族を探させることにするさ。それから、今後、クルトの仕事には文句言わせない。……よかったなクルト。半日かけて、担務変更の嘆願して、必死に他の仕事片付けて。駆けつけるのは間に合ったし」
最後のはにやつきながらの言葉だ。シャンテナがクルトを振り返ると、彼はちょっとバツが悪そうな顔をしていた。
もう、自分の護衛は終わったことにして、会いに来ないのかもしれないと思っていた。その間、クルトは王太子に任務の続行を訴えていたのか。知らなかった。そして、知れて嬉しかったし、ほっとした。そう思った途端、急に恥ずかしくなって、シャンテナはうつむく。
知らず知らずのうちに、自分は、誰よりクルトを信頼していた。それを認めるのに、少し、抵抗がある。
「それより、気をつけろよ、クルト。シャンテナの話があっていたら、敵方には魔術師がいる。どんな輩かもわからん。脅威になるのは確実だ。必要なら増員もするから、お前、ちゃんと守れよ。自分で言いだしたんだし」
「……はい」
息を吸い込み、ぐっと胸を張ってから、クルトは答えた。
ベルグが退室する際、また、サイクスの顔が見えた。自分は同室する資格がないと思ったのか、今度こそ護衛任務を完遂しなければと思ったのか、部屋につくなり、門番よろしくドアの前に立ち竦んでいた彼。まだ浮かない顔をしていたが、ベルグに呼ばれ歩きだす瞬間は、厳罰を覚悟するような悲壮な顔に変わっていた。これで、変にクルトに絡むことが減ってくれればいいが、とシャンテナは思う。
ドアの外の気配が消え、ふたりは顔を見合わせ、小さく息を吐いた。互いの顔に、疲労の色を見出す。
クルトが、ふっと笑った。
「シャンテナさん、お疲れでしょう。もう休んだほうがいいですよ。それとも、なにか温かい飲み物でも持ってきましょうか」
「ありがとう。でも、クルトも疲れているだろうし、無理しなくていいわ。もう着替えて寝るから」
「わかりました。……一日、お疲れ様でした。無事でよかったです」
ベッドに腰をおろしたシャンテナは、傍らに立つクルトを見上げた。
赤い髪の下、灰色の目が優しげに細められている。安堵と、労りの色をたたえて。
目を逸し、シャンテナは肩を竦めた。
「本当に、疲れたわ。できればしばらく、ドレスは遠慮したい。腰まで擦過傷になってたもの」
「そんなもったいない。よく似合ってたのに」
「それ本気で言ってるの?」
「もちろん。いつか俺がドレスをプレゼントしたら、着てくれますか」
疲れて、おかしなことを言い出したのかと思い、もう一度見たクルトの表情は、微笑んではいたが、真剣だった。
指先が痺れたような錯覚。心臓が強く拍動するのを、なんとか押さえ込み、シャンテナはにやりとした。
「あなた、そんなにいいお給料もらってるの?」
「うっ……。でも、ドレス一着くらい……、たぶん……」
しどろもどろになったクルトを一笑して、シャンテナは後ろ向きに転がった。ベッドに背中を預けた途端、倦怠感に襲われる。手で顔を覆って、深く息を吐いた。
クルトはそれを見て、苦笑し、踵を返した。
「おやすみなさい、シャンテナさん。ちゃんと着替えて寝てくださいよ」
「わかってるわよ。おやすみ。……ありがとう」
最後の一言は、聞こえただろうか。
足音が止まって、ドアが閉まる音がするまでの一瞬の隙に滑り込ませた、感謝の言葉。
しばらくして、シャンテナは顔にかぶせていた手を退かした。
頬が熱くてたまらない。今夜はちゃんと眠れるのだろうか。




